ブルーハワイ
音骨
ブルーハワイ
青、青、青。
青って、なんか、へん。
動物園の檻を覆うブルーシートみたいに、何かを隠している気がしてならない。
青いカナリアも、へん。青いタランチュラは、なんか不自然。青いタンブラー? それならまだ許せるかも。
青いタンブラーに閉じ込めたシャボン玉に、青い鳥と人工衛星を閉じ込める。わたしはそれを特異点から覗き込む。その一瞬の美しさを、アリストテレスに定義してもらう。たぶん彼は途中でしらばっくれる。フッサールを分厚い底のタンブラーに例えたり、イブ・クラインの青は構文の色彩だとか寄り道して、火を噴く鉄網に並べた、牡蠣だのホタテだのエビだのキリンだのを食しながら、母なる海の神秘性で覆い隠そうとする。その上空を飛行する、ハイジャックされたコバルト色の飛行機内には、青の洞窟みたいな脳みその持ち主たちが、原爆をデボン紀の実験場に輸送するにはどうすればいいかとか、救いようがない話をしている。わたしがブルーハワイを食べたくなるのはそんなとき。
「ていうか、たかがかき氷じゃん」って突っ込まれても、やっぱりわたしはブルーハワイ。 Mt.Fujiより断然、ブルーハワイ。
「お前、カワウソみたいだな」
カンちゃんに言われると、なんでかハラハラする。鼻たらしのあんぽんたんめと鼻でも突かれた気分になる。カンちゃんは缶ビールを飲みながら、銃殺マニアについて語る。それはアドレッセンスの問題だとか、海から上がった仁王みたいに眉間に青筋を立てて、饒舌に語る。
「半分ってのは、混沌なんだよ。それは中断なんだ。お前も一度試したらいい。穴の空いた段ボールのなかで商売をするんだ。穴の向こうから細長い物体が入ってきたら、お前はそれを咥える」
「ひどいです」わたしは訴える。「これでも進学校の生徒ですよ?」
「まあ、最後まで聞け。お前は娼婦じゃない。潜入捜査中なんだ。お前は人物手帳を片手に、かつて世界中に飛散した聖なる欠損を探している。もしもそいつを咥えたら? さて、どうする?」
「すかさずお尻を突き出す」
「その通りだ」
ぴしゃりとわたしのお尻を叩く。
一回り上のカンちゃんとの出会いは、ネット上の文学コミュニティー。二十歳で作家デビューしたカンちゃんは文壇に愛想をつかして、わたしみたいな作家志望の卵の調教師になった。
「乳首か変態かバイブルに逃避するのは俗人どもだ。彼らはアンバランスに貢献する。怪物にとってはそれらは前提だ。彼らはカモメの鳴き声に耳を澄ませる。あるいは、ジャガーの眼差しから星座を紐解く」
と幾重にも麻縄で縛り付けたわたしを宙吊りにした。
海の家の近くの売店で買ったかき氷をシャクシャクしながら、熱い砂浜をペンギンみたいにペタペタ歩く。夏のビーチでペンギン歩きなんて奇妙だけれど、わたしクラスの見た目の女子はよくそんな風に歩く。ビーチは芋洗い状態。家族連れやカップルでいっぱい。
売店でフランクフルトと、妹カップル用に二人ぶんの焼きそばを買った。古臭いラジカセからは往年のレゲエナンバー。白い歯を見せて笑う若者たちの接客意識の低さに辟易するけど、むしろ祝祭感に貢献しているのかも。
店員の若者たちはまともな休憩がもらえていないのか、肩から手首まで、白、こげ茶、赤、の三色セパレート。でも、カンちゃんに比べたらまだマシ。カンちゃんは全身真っ黄色で、ヒバリなんて勝手にみかん星人なんてあだ名をつけていた。ていうか、会計をするとき、店員の一人がちらっとわたしの胸元を見た。
「だんだん、熱くなってきたみたい」
気温じゃなく、足裏が熱いことが伝わったかどうか知らないけど、カンちゃんは急にそわそわしだした。
「お前、妹に昼飯を届けるんだろ。先に行ってな」
と方向転換した。たぷん、とおなかの肉が揺れた。
真っ黒なサングラスをかけたヒバリは、シートにうつ伏せになって、彼氏にサンオイルを塗ってもらっていた。わたしに気づいてるくせに、微動だにせず言った。
「お姉ちゃん、おばちゃんみたいな歩き方になってるよ!」
うっせえ!
死ね!
「何よ、それ。失礼じゃない~」
冗談じみた返答をしたつもり。でも、声が震える。将棋の駒みたいにパタリと倒れそうだ。
真夏の陽射しに照らされた十五歳の少女は、売買市場が震え上がるほどに美しかった。父譲りの切れ長で潤んだ瞳、バタイユとか読んでそうな聡明な雰囲気──何よりもパンチラもチラリズムも必要としないレベチのバイオレンスビューティーな顔立ち。瑞々しい体のラインは男じゃなくても心拍数を上昇させる。私ときたら、勉強のしすぎでたぬきみたいに目が寄って年中隈だらけというのに。彼氏も彼氏で容姿端麗。地元で人気のバンドマンらしいけど、夜の世界に入るまでの営業活動らしい。こいつもバカ。ヒバリとお似合いのバカ。
「て言うかさ、もうちょっとマシな水着なかったの? キャバ嬢みたいだよ」
まだ攻撃の手を緩めないつもりか。ヒバリはわたしを小馬鹿にする天才。やれ、メラニン色素お化けだの、円周率が狂ったおっぱいだの、ハンガーストライキしてそうな目つきだの、クロロホルムを吸引した鰐みたいな唇だの。
二日前、居間でカンちゃんとの2ショット写真を閲覧しながらニヤニヤしていたら、急に後ろから声をかけられた。
「彼氏? お姉ちゃん、彼氏できたんだ?」と尖った唇をかわいくめくれあがらせた。
「まあね」とわたしは嘘をついた。文学調教師なんて言ったって、通じるはずがない。
「こんなデブのおっさんのどこがいいわけ?」
「めっちゃ頭いいの。文学者だからね」
「作家? そんな人とどこで知り合ったわけ?」
ネットで知り合ったと話すと、「お姉ちゃん、だまされてるんじゃないの」と口元を歪めた。
こんなわたしから何をだまし取れるというのか。
「じゃあさ、明後日一緒に海に行こうよ。わたしがジャッジしてあげる」
「文学者が海水浴なんて行くかなあ」
「お姉ちゃんを愛してるなら、絶対にくる」
「わかった。じゃあ、聞いてみる」
その翌日、ラブホテルの一室で、カンちゃんに海水浴行きについて話すと、「別にいいよ」と言った。ヒバリの写真を見せたら、カンちゃんはしばらく声を失った。
「お前ら、血、つながってないのか?」
「よく言われます」
ヒバリに興味を示したのだろうか。でも、それは無駄というもの。ミーハーなヒバリにとってはカンちゃんはおたくで冴えないデブのおっさんでしかない。
「周囲には愛嬌を振りまくくせに、わたしにだけ性格悪いんです」
「なるほど」
「甘えてるんですかね?」
「こいつは怪物だ。怪物が人間に甘えると思うか?」
「怪物? ヒバリが、ですか?」
「怪物が人間世界に紛れ込んでいると考えてみろ。人々は恐怖にかられて、おべっかを使ったり、近づかないようにする。だが、怪物は本来血肉を求めるものだ。いいか、美とは暴力だ。北風と太陽。万物の恵みに、シロクマのナックルで殴りかかるようなものだ」
カンちゃんは野太い指でわたしの乳首を押した。乳首は陥没した。さめざめと泣くわたしの肩をカンちゃんは抱き寄せ、「恥に狂えばいい」と耳元でささやいた。
「お、焼きそば、美味しそう」
とヒバリはフードパックを受け取った。
「温かいうちに食べちゃいな」
「半分こしようか」と彼氏に割り箸を渡した。
「お姉ちゃんは? 食べないの?」
割り箸を咥えている姿まで、憎たらしいくらいにかわいい。
「もう食べたから」
「ていうか、お姉ちゃん、舌、真っ青なんだけど」
あーっはっは!
つられて彼氏も失笑。
「ていうか、みかん星人はどこに行ったの?」
勝手にあだ名をつけるな。
「トイレじゃない?」
「女の子を物色してるんじゃなくて? ま、あんなトドみたいな男、お姉ちゃんくらいしか相手にしないか」
緊縛プレイもしたことないくせに。
「おい、便所行くぞ」と後ろからカンちゃんに声をかけられた。
「え、え、もしかして、連れションの誘い…? ぶーっ!」ヒバリは吹き出した。「もう、やめてーっ!」
無視、無視、わたしたちはズンズンと防風林の奥へ向かった。カンちゃんの饒舌な語りはわたしの空っぽの脳みそを素通りした。青い氷の塊で瞬間冷却されることしか考えられなかった。しばらくしてカンちゃんは急に立ち止まり、サングラスを外した。
「俺の目について語ってみろ」
「琥珀色のランタン、バランタインの馬の目、ブルーハワイに突き刺さったストロー」
「ストロー?」
カンちゃんはふっ、と笑い、「まあ、吸えよ」と小瓶とライターを手渡した。わたしはその森の守護神みたいなでっぷりした背中に身を隠し、小瓶の底をじりじりと炙った。透明な結晶から白い煙が渦を巻きだすと、溜め込んだ煙をストローで一気に吸い込んだ。肺の奥に心地いいブリザードが吹き抜け、どれだけ吸ってももっと吸える気がして、もしかしてこれ、空気より軽いんじゃ? と思った。
「溜めろ、もっと溜めろ、まだ溜めろ。もっともっと、限界まで」
っ…ぱああああ。ボワンと飛び出た真っ白い入道雲が、紺碧の空に解き放たれる。青い彗星が大気圏で燃え尽きる。
ちょっと待って!
林の向こうにヒバリがいる。まっすぐにわたしを見ている。急に咽せた。白い煙をごほん、と吐き出した。ごほん、ごほん、咳き込むたびに、からだの奥がジンジンし、胸の奥の氷塊がバーナーで炙られたように、痛みと快感が交錯した。
「えへっ! タバコ吸ってるのバレちゃった!」
舌を出し、後ろ手に小瓶を隠す。身を隠す壁はもうどこにもない。林の向こうへ猛ダッシュする壁。カヴェ。CAVE。
ヒバリは、近寄るでも、逃げるでもなく、森の中で遭遇した鹿のようにまっすぐにわたしを見ていた。木陰から降り注ぐ光が形のいいおでこに反射していた。たぶん、わたしは感動していたのだと思う。美しいものを放射されると、わたしたちは思わず笑ってしまう。神様ありがとう。わたしは白い歯と赤い舌をさらして、子供のようににっこりと笑った。
ヒバリはべえ、と出した舌先を指先でちょんと突いた。
「気色悪っ、青虫みたい」
そう言って、無表情に口元を歪ませ、立ち去った。その後ろ姿に、青い空と緑の森に照射する光に、べっとりと青いペンキがぶちまけられた。青い砂浜、青いビーチサンダル、火傷しそうなほど熱い砂が冷たく足裏を蹴りつけ、わたしは走った。やがて青い海が見えてくる。そこはほんとうの青の世界。その壮大な青に包まれることを想像するだけで、頭の隅がキンと冴え渡る。冷たい海水に真っ青な皮膚を撫でられると、わたし自身が満ち引きをしているようで眩暈がした。空は恐ろしいほどに青く、自分なんてどこにもいないようだった。わたしは海中と水面の境目で、永遠に呼吸をし続けている海月のようだった。
いるの? いらないの?
いるの? いないの?
ゆらら、ゆらら、
ゆうららら、ゆら、ぷか、ぷかん、
タンブラーにぎっしりの氷はどれも真っ青で、それは歯列のようで、わたしを食い殺す巨大な鮫の牙となって大海原を徘徊し、匂いを嗅ぎまわる。そしていまや真っ青な鮫たちが周囲をぐるぐると旋回している。逃げ道は空? そうじゃない。空の青は偽物なのだ。それは地表を覆う海面も同様で、本当の青さは海底にしかない。わたしはザブン、と波間の境界をくぐる。ザ文学を語る深海魚たちの群れにまぎれても、履き古したブルージーンが強引に群れから離脱させる。その先の深海魚たちはもはや語ることさえなく、海底に張り巡らされた真空に身を潜めている。ようやくわたしはそこで安住の地を見出すのだけれど、背中に張った水着の紐で持ち上げられ、再び紺碧の空に吊るされる。カンちゃんは青いビーカーのような目でわたしを解剖する。けれど、いくら覗いてもそこにわたしはいない。わたしは青にうつろう海月。海に溶け込んだブルー。ブルー、ブルー、ブルーハワイ。
ブルーハワイ 音骨 @otobone
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