穴の狢

tanaka azusa

私の身体には、五つの穴がある。

痛みも、血もない。ただ、そこだけが世界から切り離されている。

指を差し入れれば“何もない”という感触だけが広がる。ぬるりとも、ざらりとも違う。言葉で言い表すなら、空虚。私はその空虚を、十五年間抱えて生きてきた。


穴には由来がある。

私たちはきっと、同じ穴の中にいた。


生まれて初めての穴は、いつの間にか二つも開いていた。愛着というやつが足りなかったみたいだ。その二つの穴な由来となる記憶がない。

触ると風が吹く。

次は小学三年生の夏、母が急に家を出ていった日。左の鎖骨の下、ぴたりと冷えた小さな風穴ができた。次は、祖父が死んだ日。心臓の近くにぽっかりと“熱のない穴”が生まれた。最後の穴は、父親に迫られた夜、背中に縦長の暗い裂け目。


「穴が多い子は、死ぬのが早いらしいよ」


誰かが言った。


穴がひとつ増えるごとに、人は少しずつこの世界から遠ざかっていく。


そんな都市伝説めいた話が、私の通う学校では常識になっている。穴は“見える”。特別な目がなくても、誰にでも。まるで焼き印のように、肌に穿たれているから。


転校生がきたのは、まだ残暑が残る秋の朝だった。


彼には、穴がなかった。


それだけで教室の空気が変わった。空気が、水槽のようにゆがんだ。


「すげえ、マジで“ゼロ”じゃん」

「うちの学校じゃ初めてじゃね」

「マジで穴ないの? どこにも?」


クラスの声がざわめく中、彼は無言で席に着いた。窓際、私のすぐ後ろ。

私は振り返らず、目を閉じた。


五つの穴が、いっせいに震えた気がした。


この街は都心と言ったら都心だし、田舎と言えば田舎の中途半端な町である。この穴問題もネットで噂になり、たちまち東京で流行り、テレビニュースにもなり出した。まだ私達の町の少年少女は興味や好奇心に留まっている。どこかのほほんとしているのだ。だからかブーム程度にしか思ってない。

クラスを見渡すと下敷きで仰ぐ派手な女子達の所々が欠損している、それとは裏腹に騒ぐ彼女らの朗らかな高い声が響いていた。(ますます人って分からなくなった)そう思っていた。

「死ぬのが早いらしいよ」という声が脳裏に浮かぶ。でもこの学校でおそらく一番穴が多いのは私だ。穴のない体なんてどんな気持ちなんだろ。


ふ、と冷房の風に吹かれて生成りのカーテンが揺れてまた戻る。振り返ると0の転校生がいた。こんな残暑に涼しいくらいの真顔だった。…なるほど、何も考えてないみたいだ。

そりゃ楽だ、穴も開かないはずだ。

机に突っ伏せて行き場の無い溜息を、

はあ、とつく。


穴のある身体というのは羞恥の対象である。

更に「傷の数で価値を測る」ような倒錯したヒエラルキーが校内にある。まあ簡単に言うと良くあるカースト制が穴にもあるってこった。

ということは、私が一番下。別にいいやもう、なんかもう面倒だ。元々ちゃんとした友人なんておらんかった。良し、気を取り直して寝…「えーらいでっかい傷やのう」と後ろから低くてハスキーな声が聞こえる。0の転校生だ。色白な肌に妙に細い目、唇は今流行りのアヒル口みたいにクイッと上がっている。私は膨れ上がり顔を真っ赤にしながら長い髪バサッと振り切り山中 零の顔に当ててやった。「ッイッテ〜…」と顔を擦る音がする。


穴というのは衣服すら通り抜けてしまうのだ黒いモヤがかかった私の背中の穴はかなり大きい、隠せない。どうやら穴の大きさや形はその被害の大きさ頻度によるものらしい。女子がキャッキャと騒ぎ、男子も珍しがって群がっている。ガヤガヤと教室がうるさくなり始めた。「え〜、行きなよ」「やだ、そっちが行きなよ!」「じゃ一緒に行こう〜」などと隣の教室からも窓から女子が乗り出していた。美青年だからだろうか、穴が0だからだろうか、なんなのかはわからないが都会から来たらしいキラキラしたベージュのブレザー、色素の薄い感じの雰囲気に女子達は一瞬にして心を奪われたのだろう。


変な関西弁、どこの子ぉよ。

あんた東京から来たんじゃないんか。

私は背中縦に斬られたような穴を捻じらせながら、赤くなった顔をパタパタ仰ぎながら精一杯嫌な顔をして前に向き直る。

朝のホームルームは、既に終わっていた。

クラスの騒ぎで担任はお手上げで

早々に職員室に帰ってしまったらしい。

担任がいた教卓の後ろの

黒板ど真ん中に「山中 零」と綺麗な、

さぞ家柄の良さそうな、達筆でさらりとした字で書かれていた。名前も0なんか。馬鹿馬鹿しい。


私はますます気に食わなくなり居眠りをする。

午前中はつまんないから午後に巻き返せばいい。私の席は教室全体を見渡せる。一番後ろだと何かと面倒だから窓際後ろから一つ前の席が定位置だ。見渡す限り、今のところクラスメイトの穴は平均的に一つ〜二つと言ったらいいかな。派手な女子は家庭環境か流行りのパパ活か、…いじめなんじゃないかな。ガリ勉の陽キャとかは家ではビシバシ劣等感を味わっているんだろう。あのあたりの生徒らは頬や首のような目立つ場所についているが、気にして無い様子だった。所謂進学校というやつだ。大体メンツは変わらない。穴が増えたり減ったりしても温室育ちは温室育ち。


そうこうしてるうちに四限が終わり待ちに待った昼休憩だ。校内に食堂があるが騒がしいので、購買にいち早く走り、この学校一おいしいメロンパンとコーヒー牛乳買うのが日課だ。それを屋上で食べるのだ。


渡り廊下を走り抜け、その下の購買へ走って行く時、なんとあの0野郎が抜け駆けしていた。購買でメロンパンを二つも買っていたのだ。私は息を切らしながら「…おばちゃん…いつものメロンパンとコーヒー牛乳」と千円札を置くと困った顔をして「ごめんねえ今日はあれで最後だったの…」とコーヒー牛乳の代金だけレジにかけお釣りをちょこんと手のひらに置いた。私はまたクラウチングスタートのような走りで0野郎の元へ走る。私は運動神経は良い方だし足も早いはずなのになかなか追いつけない。「…なんで!?」軽快な足音でタタッと屋上へ走り去ってった。あのボサボサの頭で。


この十年、誰もが“穴”を見て見ぬふりをするようになった。大人たちは『ただの皮膚の病変だ』『精神のバグだ』と決めつけ、病院も学校も“そういう生徒は取り扱わない”という暗黙の了解があった。政府は“穴”の存在を正式には認めていない。誰かが口にすれば、“虚偽の拡散”として処罰される可能性もある――そんな奇妙な黙殺が、当たり前になっていた。


「穴には形それぞれ由来がある」「穴は10個まで」「穴が10個になると死ぬ?消える?」「穴がこの世で初めて現れたのは確か十年前の夏の終わり◯月頃、流星群の後」バサァッ
私が勝手に付けていた穴についてのノートだ。取り上げると零は見つかっちゃった、みたいな表情で悪びれもない。しかし盗みが上手い。確か鍵付きのロッカーに入れた筈だが…まあいいか。


「メロンパン、払うからちょうだい」「いいよ、あげる」とひょいとふかふかのままのメロンパンを渡してくれた。それを引ったくり丁寧に開けバクッと大きな口で食べる。ああ、疲れた。そのまま日陰に腰掛けて二人並んで黙々とメロンパンを頬張った。


ヴヴ…ヴヴ…スマホを見ると凄い通知だった。

ネットニュースからも【号外】と書かれていた。

…どうやら死者が出たようだ。

しかもこの学校で。

都市伝説だったものが、本当の事件になってしまった。私は恐ろしくてスマホを落とした。だって、知ってる子だった。私より穴は一つ少なくて、控えめで綺麗な子だからいじめに遭っていた。ここ最近のエスカレートしていくのを側で見て見ぬ振りをしたのだ。カーストの地獄をのらりくらりやり過ごしていた私のせいだ。穴なんか無ければ良かった…。


「…。」落ちたスマホを驚くほど汚い食べ方でメロンパンを食べこぼしながら山中 零は覗いてきた。「え、もう死人ですか?不吉だなあ〜」とまだ口に残ったパンをこぼしながらモゴモゴと他人事だった。…なんてデリカシーがないんだ、穴が0な訳だ。零は不思議と人間くさい一面があるのはわかったが穴が一つもないのに、誰よりも日常に馴染んでいた。…いや、馴染んでいるように見せているような気がする時がある。

よく見ると、彼の色素の薄い茶色の視線はいつも、ほんの少しだけずれていた。


キャアアアア!!!叫び声が聞こえた。

三階の渡り廊下だ。なんだか黒い煤のようなものが見える。それを生徒達が囲んで中には腰を抜かした人もいる。一体何が起きてるの…?こんな事は今までなかったのに。ただ穴が開き始めただけだったのに。


次の日の朝、父が開く新聞にでかでかと穴の事件が書かれていて胸が痛くなった。「昨日、お前の学校大変だったそうだな」他人事だ。父は二つの穴がある。首筋と後頭部に。由来は知らない。知りたくも無い。だって本当に小さな小さな穴だ。

「…そうみたいだね。」そう冷たく返し、私は冷たいカフェオレを自分で作り飲み干して、

セーラーのリボンを結び、淡々と登校する

…はずが家の前に零がいた。

怖っ、なんでいるの?なんで家知ってんの?

「学校の前、取材陣がすげーぞ。中に入れたもんじゃない。」向かいの緑道に腰掛けていた零はまたも軽々しく飛び上がりどこを歩いてきたのか葉っぱまみれだった。それを気にする様子もなく。

「今日はサボった方が身の為かもしれねえ」と結構マジなトーンで言った。相変わらず穴は0だ。

なるほど、狡猾な部分もあってか回避出来ていた所もあるのか。益々嫌なやつだな、と思いつつ確かにそうだなと思ったので人生で初めて学校をサボった。


緑道をトボトボ歩くが、こんな近所にも黒い煤、人だった者達の影が町を黒く染め上がり、その煤を見れば男か女か幼児か老人か中年かなぜか分かってしまうのだった。息が苦しい。ネットニュースがスマホの画面に映し出された。既に昨日の時点で世間自体が黒い煤だらけになっていたようだ。何で急に…?しかし、死人が出てから動き出す政府や警察にはうんざりする。昨日の事件は不可解な現象としてSNSやテレビが騒ぎ立て、どのチャンネルを回してもこの話題で持ちきりのようだ。コメンテーターが神妙な顔をしているがこの人の頬に黒子程の穴があった。政府が「穴の存在と言及を禁止」する通達を出した。


「零ってなんかコソドロっていうか、狸みたいなやつだね」皮肉っぽく言いながら煤だらけの閑散とした住宅街をゆっくり歩きながら呟いた。

「狸っていうか狢」昨日こっそりあげたコーヒー牛乳が余程気に入ったのかでかい紙パックにストローを差してゴキュゴキュと喉を鳴らした。

「狢?」歩きを止めた

「そ」零は歩きを止めない。続けてこう言った。

「空(くう)って良い名前だ。零に似てる。」

「同じにしないでよね」穴だらけの右手で背中を叩く。空虚。空っぽ。ゼロ。零。


しかし朝は苦手だ。私はいつも遅刻気味で夜は深夜の三時頃まで起きている。クラスメイトが私が遅刻するのを見るたびに「巳波 空〜アウト〜」「お前夜行性なんか!」といじられドッと笑いが起こるがまあいつもの事だ。適当にやり過ごす。

今日はもう遅刻どころではないのでまだ寝ていたい…。


長く続く緑道も煤がなくなってきた頃だ。

「嫌な世の中よね、どうしてこんなふうに。」

白いチワワを抱えたマダムがため息を吐きながら私達に近づく、近所に薔薇を沢山育ててる事で有名だった。時々挨拶するくらいの仲だが。


視線の先には穴に対してのデモ、反対運動を真っ黒な旗や服を来て行っていた。凄い行列と熱狂だ。その最中で倒れて煤になる人もいるが黒くて分かりづらい。

人間が穴自体になってしまったようだった。

恐ろしかった。

目線をマダムに移すとなんと九つも穴が開いていた。「…っどうしたんですか!?こんなに?!」私と零は目を見開いた。

マダムは弱々しく笑った。

「なんだかお年寄りを狙った事件が多いみたいね。」と伏せ目がちに呟いて、白いチワワを撫でるがそのチワワさえ穴が一つある。どうやら旦那さんを亡くされたみたいだった。酷い。穴だらけの体はいくつもの形を織りなしてそれまでも似合ってしまうマダムに何か不思議な光が差していた。その瞬間、通り魔のような男が犬を連れ去って逃げていった「キャゥン…!」白いチワワの目なのか鼻なのか穴なのかもう分からない。私達は追いかけたが、無理だった。いそいでマダムの元へ戻ると半分煤だった。足をとめた、こんな悲しい消え方アリなの?神様っていないの?とあまりの理不尽さに拳に力が入る。零を見ると煤を見下ろしあまりに悲しみに慣れすぎていたような悟り切った眼差しをしていた。

「空、今日はもう、帰ろっか」そう言って家まで送ってくれた。私はもうフラフラだった。父はもう家を出て遅くまで帰ってこないだろう。


夕飯を食べ終えお風呂に浸かりながら、そういえば狢(むじな)とかなんとか言ってたけどあれはなんだ?狸じゃないの?冗談も意味わかんないやつだ。ザバっと上がってササッと白いワンピースのパジャマに着替えを済ませて暫くゴロゴロしても寝つけなかったのでスマホをスクロールしていたら、都市伝説系の匿名掲示板にこんな投稿があった。


『穴の話、リアルだと思う。

 あれって“狢”が関係してるって説、知ってる?

 人間に化けて、傷を吸い取って、でもいつか“自分が何者か”分かんなくなるらしいよ。』


更に、「穴 都市伝説」と検索すると、“ある種の狢は、人間の“傷”を喰らって生き延びる”という不気味な書き込みがやはりヒットした。

「…狢って、狸じゃないの?」

画面の明かりが、天井を青白く照らしていた。

それをスクショして、すぐに消した。

狢…また狢…


朝起きても気になった私は、珍しく遅刻せず登校した。行く途中、やはりデモは喧しい。小さな女の子の小学生を連れた母親が娘の背中に穴ができたのを見て、サッと母は無言で服を直した。意味がないのに…。やはり教師や保護者が見て見ぬふりをする理由に「自分も穴を持っている」恐怖や羞恥があるのだろう。学校の前では最初の犠牲者が出た学校としてやはり記者陣がうじゃうじゃ集っていた。そこをなんとかこじ開けてへとへとになりながら下駄箱へ向かうと今度は掲示板にでかでかと「穴についての言及禁止命令」「穴に関するSNS検閲も禁止」と赤文字で太くポスターが貼られていた。げんなりした。もう何もかもパニック状態だ。


私が教室へ入ると一瞬空気がピタッと止まる。

コソコソクラスメイトが耳打ちしている。

しかも声がでかいので聞こえてくるので耳を澄ますと、何やらニュースで穴に病名みたいなものがついたらしかった。ハァ?と思いながらもスマホでニュースを見るとギョッとした。


「厚労省は“心因性皮膚症候群”として分類。医療機関は診断拒否の通達を受けている」「義務教育では“非科学的な表現”を禁止する教科書改訂が行われた」


皮膚…症候群…?こんな馬鹿げたことがあるか。

耳打ちしていたクラスメイトは感染症か何かと勘違いし、当時一番最初に私が多く持っていた事で疑っているらしい。ハァ…とため息を吐くと長い髪の毛をギュッと引っ張られた。「痛…ッ!何ッ?!」睨むと今さっき登校したらしい零が相変わらず真っさらな穴のない体で頭をくるくるパーとジェスチャーしてクラスメイトを馬鹿にしていた。「フン…」とすかした態度を取ったがちょっと助かった。


早速、放課後、図書室の奥の郷土資料棚。こんな所入った事がない埃臭い場所へわざわざ入り、私はまだ狢について調べていた。狢と書かれた書物はなかったがそれっぽいものと異様な場所に使われていない和綴じの冊子があり、開いてみるとふと目に留まった見出し。


『狢(むじな)とは、人に似せしもの。己が姿を忘れしとき、人間となりて穴を食らう――』


「……穴を食らう?」

思わず声が漏れた。穴…やはり狢が関係しているの?ていうか狢ってなんなんだ。妖怪?誰にも読まれないその一冊を、私はそっと閉じてしまおうとするとページの端に、ボールペンで現代語訳として走り書きされていた。〝狢――人に化け、人を騙す。だが時に、自分が何者かを忘れてしまう。〟

化けた事を忘れるなんてそんなアホな…

ふ、と零の姿が過ぎる。ま、あいつなら確かに。


国内外で暴動や集団パニックが起こり穴は益々生活や命を脅かすものとして侵食してきた。政府やマスコミは依然として心因的なものであるとしてきたがもう国民にとってそれは無理があるものだった。事件は多発し、海外ではテロまで起こっている。


こんな中でも学校に登校するなんて正気の沙汰じゃない。父は帰ってなかったみたいだった。

いやコーヒーがシンクにある。そうかもう冬だからホットコーヒー…

嫌な予感がした。

玄関へ行くと黒い革靴がまだある。

父の寝室を開けるとそこには首吊りの縄がぶらさがり、黒い煤が落ちていた。私は訳が分からなくなって煤を掻き集めた。染み付いていて取れない。手のひらにも何も残ってなかった。涙も出ない。なんなんだ一体。父のベッドに倒れ込むと手紙らしきものが丁寧に置かれていた。謝罪と母の病院の住所と病室の番号だった。私は怒りと悲しみで腹に穴が二つ同時に開く感覚を感じた。

父の財布を盗みタクシーを呼んで急ぐように言った。


母が煤になったのは、昨日の夜だった。

けれど、その穴の種はもっと前からあった。


小学三年の夏、母が突然家を出た。

「大人の事情よ」とだけ言い残して、私は置いていかれた。

私はずっと、母に“見捨てられた”と思っていた。

そのとき開いた穴は、左の鎖骨の下にあった。冷たく、乾いていて、風が吹いた。


けれど数日前――

父の机の引き出しに、分厚い封筒を見つけた。

中には手紙と、何枚もの診断書。

母は、あのとき既に「穴病〝〟」と診断されていた。

人に見えないほどの小さな穴が、肺の奥に、骨の裏に、少しずつ広がっていたのだ。


「治る病気じゃないけど、私は最後まで人の形でいたい」

母の文字はかすれていて、それでも力強かった。

だから、あの人は黙って家を出た。

私に、“きれいな母親”のままでいてほしかったのだ。


私は長い間、母のことを憎んでいた。

けれど、事実を知った今、その憎しみが丸ごと、

胸の奥で、ぽたりと溶けた気がした。


私はもう、この身体に八つの穴を抱えている。

鏡を見れば、どこかの穴が大きくなっている気がするが、もう数えることすら億劫だった。


登校するつもりはなかった。けれど、体が勝手に学校の方角に向かっていた。

教室には、ざわついた空気があった。いや、教室ではない。あの三階の渡り廊下だ。

三人の生徒が、手すりぎりぎりの縁に立っていた。制服のスカートが風にはためいている。


「こんな世界いや!」「煤になんかなりたくないよぉ!」「穴だらけでどうやって生きていけばいいの!?」


少女たちは泣きながら叫んでいた。

その声に、誰も近づこうとしなかった。

止めに入る教師も、生徒もいない。

“みんな、どこかで、同じことを思っている”

そんな諦念のような空気が、静かに満ちていた。


私は咄嗟に駆け出した。

足がもつれそうになっても、最後の力を振り絞って。

手すりの内側に滑り込み、腕を伸ばして一人、また一人を抱きとめる。


そのとき、零もやって来た。

風に舞うベージュのブレザー。ボサボサの髪のまま、息も乱さず、黙って手を貸す。

二人で、三人を支えるのは無理があった。

体重が偏り、零の指が誰かの腕を滑らせそうになった。


その瞬間だった。

一人の足が、するりと抜ける。

靴が宙を舞い、屋上の縁を転がって、コツンと音を立てて落ちていった。


「――あっ」


間に合わなかった。私は、思わず目を閉じた。

零も、その場に凍りついた。

でも、幸いだった。少女はすぐ下の庇に落ち、転がるようにしてしがみついていた。

救助された彼女は震えながらも無事だったけれど、次の瞬間、その少女は震えた声で叫びはじめた。


「人殺し!人殺しッ!あんたたちのせいで落ちたんだよ!!」


他の少女たちも、口々に同じ言葉を繰り返す。

「人殺し!」「あんたたちが突き飛ばしたんでしょ!」「助けるふりして――!」


私たちはただ、支えていただけなのに。

それでも、言葉の刃が刺さるたびに、私の身体から音がした。

何かが剥がれるような、穴がひとつ、生まれるときの音だった。


ぽたり、と汗が落ちる額に、今までにない重みと痺れが走った。


そこに、九つ目の穴ができた。

ちょうど眉間のあたり。

静かで、けれど深く、まるで第三の目のようなそれは“希望の死”にも似た感覚を伴っていた。


隣の零は、少女たちの罵声を聞きながら、どこか悟りきった微笑みを浮かべていた。

あの表情は、何だろう。

悲しみでもなく、諦めでもなく――

“見届けたものだけが持つ目”だった。


「自分とは違う存在(穴のない存在)」との邂逅だったはずだ。だけど今は違う気がした。

屋上で少女たちを止めたあの瞬間、私は誰かを「助けるふり」をしていたのだと思う。

いや、助けたかったのは本当だ。けれど、それは“本当の私”の意志だっただろうか?


誰かに見ていてほしかった。

「私もまだここにいる」と、穴だらけのこの体で叫びたかった。

でもそんな声を、本当に誰かに届けたことなんてあった?

きっと私は、ずっと最初から、“人のふり”をしていただけじゃないか?


空虚に指を差し入れて確かめる。

私の中にはもう何も残っていない。

残っているのは、空(から)の名前と、空(から)の笑いと、空(から)の涙だけ。


それでも、私はここにいる。

煤になって消えなかった。


じゃあこれは、嘘でも演技でもなく

私自身が「選んでいる」生き方なんだと思えた。


人気の無い場所に移る為に、色々探したが、

やはり屋上しかなかった。

零はさっきまで人に罵声を浴びせられたとは思えない程カラッとして伸びやストレッチをした。

暖かい、いつぶりだろうこんな暖かい日は。

春が近いか。空が青い。

唐突に場を慰めようとしてか零は言う。

「タヌキは人に化けるけど、人を長くやってると“化けてる”ことを忘れるらしい」

「あはは、そなあほな。あ、この間、図書館の古臭い奥の方で狢について書かれてたわ。変な落書きもしてあったけどな。」私は額の穴を隠しながら火の日差しに目を細めて言った。


零は少し沈黙した。

冷たい風が吹いてくる。


「…お前の穴、最初から九つあるように見えてたけどな」

屋上からの帰り道、ぽつりと零が言った。


「嘘つけ、今できたばっかだよ」

私は笑いながら、地面を蹴る。


零は首をすくめて、紙パックのコーヒー牛乳を吸いながら言った。

「見えてたってことじゃなくて。たぶん、お前が“最初から抱えてたもの”って意味だよ」


「お前、自分を人間だと思ってるだろ?

でもさ、俺には見えてたよ。

お前、ずっと人の顔して、人間のふりして生きてた」


「お前は“狢”だよ。俺と一緒だ」


私の中で何かが落ちた。


全部「気まぐれ」じゃなかったんだと気づくと、

背中の穴がひとつだけ、ほんの少しだけ、温かくなった気がした。


「……だから、」零は言った。

「“十つ目の穴が空いたら消える”って」

そう言いながら

私の額に早咲きの雑草花をちょこんと差した。

「ちょ、やめてよ馬鹿に見えるって」

「いや馬鹿だからええやん」


花の奪い合いをしていたら、零の冷たく白い手が私の頬に触れた。どきどきする、何これ。

花びらが落ちたようなキスだった。

――十つ目の穴だ。あ、もう消えるわ。

恋で穴が開くんか、知らんかった。

悪く無いな…。


見える世界が、ふと反転する。

水に沈んだみたいに音が遠くなって、教室のざわめきが、もう届かない。


零が言った。

「狢はさ、野生下では5年しか生きられん。けど、化けてるうちは“人のフリ”ができる」


私は息を切らしながら冗談めかしく言った。

「ほんならあんたも、もう“人のフリ”できんくなるな」


零は笑わなかった。


零は「俺は、まだ、人の形をしてるやろか…」と肩を震わせ涙を一つ流した。私は動揺した。


そして私の額の穴を見つめたまま、ひとつ頷いて零がデコピンをした。「…ッ痛!」私は咄嗟に目を閉じて開けると額の穴はなくなって


そしてそれきり――


彼の姿も消えてしまった。


机の上には名前札と、破れた制服の袖だけが残されている。零は狢だったのかもしれない。人間でいながら人間を化かす。穴も開かない。血も流さない。感情もない。でも、私の穴をのぞいてくれた。たとえ化かし合いでも、私はそれを信じたかった。私は零の残した制服の袖を握ったまま、屋上に上がった。


ノートを開き、最後のページに書き足す。

「“10個目の穴”は、人に開けさせるものじゃない。狢は誰かの記憶の中で、まだ生きてる」


そして私は、ノートを破り、火をつけた。

どこか青い光を放つ炎が揺れて、紙の上の穴たちを、ゆっくりと消していった。



帰り道、不意に異様な夜風が吹く。

夥しい桜の群れが背中の大きな穴を通り抜けて、くすぐったかった。ああ、また春か。

っくしゅん。
「また、会いたいなあ」
鼻を啜りながらそう言うと、

私の穴はふっと、ひとつ減った気がした。


あのとき私たちは、たしかに同じ穴の中にいた。

狢は「穴のない者」ではなく「他人の穴を引き受けて生き延びる存在」かもしれないと、ふと思う。


零は、さいごまで「0」だった。

狡さも優しさも、全部抱えて。


月は穴だらけで尚光る。

狢(むじな)みたいに、正体もあいまいで。

それでも私は、あんたみたいに生きたい。


穴があるってことは、失ったってことだ。

でも、失っても、空っぽでも、それでも誰かを想うことはできる。


私はもう、“空っぽのまま終わる”のはやめたかった。


穴のない誰かに助けられるなんて、思ってもみなかった。

でも、それは“助けられた”というより、“喰われた”のかもしれない。

きっと彼は、私の穴のいくつかを――そのまま、呑みこんでしまったんだ。


どうりで最近、あの背中の裂け目が静かだと思った。

空虚が一つ減るだけで、少しだけ、生き延びた気になる。


人のふりをするのは、疲れる。

けれど、それをやめてしまえば、きっと、私はもう人ではなくなる。


だから私は――今日も、ふりをする。

できてるかな。


狢とは「人に化けて人を騙すが、化けていることを忘れる」という古本ページの端に、鉛筆で小さなメモが書き足されていた。

“ふりをしているうちに、それが本当になることがある”


なんだ、これ。誰が書いたんだろう。

…いや、思い当たる節は、一人だけいる。

そのページに指を挟んで、また歩き出した。


もう少し

この世界にいてもいい気がする。

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穴の狢 tanaka azusa @azaza0727

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