第4話「誰が見ているのか」
第一章 任意同行
月曜日の朝、香織が朝食を作っていると、インターホンが鳴った。
モニターを見ると、三島刑事ともう一人、若い女性刑事が立っている。
「川村香織さんですね。少しお話を伺いたいのですが」
三島刑事の声には、先日とは異なる硬さがあった。
香織は、ドアを開けた。
「何か、進展があったんですか?」
「それも含めて、署でお話を。任意同行をお願いできますか」
任意同行。
その言葉の意味を、香織は理解していた。拒否する権利はある。だが、拒否すれば疑われる。
「分かりました」
警察署の取調室。
灰色の壁、金属製のテーブル、録音機器。
香織は、テーブルを挟んで三島刑事と向かい合って座った。若い女性刑事は、壁際に立っている。
「川村さん、正直に話してください」
三島刑事は、ファイルを開いた。
「あなた、旦那さんを監視してましたよね」
香織の心臓が、跳ねた。
「何を──」
「寝室に監視カメラを設置していた。違いますか?」
沈黙。
香織は、言葉を探した。否定すべきか。だが、どこまで警察が掴んでいるのか。
「……はい」
「なぜですか?」
「夫が、何か隠しているように見えたから」
「隠している? たとえば?」
「不倫とか……」
「不倫を疑って、監視カメラを?」
三島刑事の目が、鋭くなった。
「それは行き過ぎだとは思いませんか」
「思います。でも、私は──」
「あなたは元フォレンジック調査官ですね」
「はい」
「専門知識がある。だから、証拠を隠滅することもできる」
「何を言って──」
「川村さん」
三島刑事は、別のファイルを取り出した。
その中には──写真。
血痕のついたシャツ。
香織が、クローゼットに隠していたもの。
「これ、見覚えありますか?」
香織は、息を呑んだ。
「どこで……」
「昨日、家宅捜索令状を取りました。あなたの自宅を捜索させていただいた」
「令状……いつ?」
「日曜の夕方です。あなたが外出中に」
香織は、拳を握りしめた。
桐谷由美のアパートを訪ねていた間に。
「このシャツ、旦那さんのものですね」
「……はい」
「なぜ、血がついてるんですか?」
「分かりません」
「分からない?」
「本当に、分からないんです」
三島刑事は、次の写真を見せた。
それは──監視カメラの映像を印刷したもの。
香織が、そのシャツをクローゼットに隠している場面。
「これ、あなたですよね」
「……はい」
「なぜ隠したんですか?」
「私、覚えてないんです」
「覚えてない?」
「この映像、私も初めて見たんです。自分がこんなことしたなんて──」
「都合のいい記憶喪失ですね」
三島刑事は、冷笑した。
「川村さん、正直に言ってください。旦那さんを殺したんじゃないですか?」
「殺してません!」
「でも証拠は揃ってる。監視カメラ、血痕のついた衣服、そしてあなたの不自然な行動」
「違います。私は──」
「それに」
三島刑事は、もう一枚の写真を出した。
それは──ノート。
香織の筆跡で、こう書かれている。
『拓也を消す方法』
その下に、箇条書きで計画が記されている。
香織は、目を見開いた。
「これ……私、書いてない」
「あなたの筆跡ですよ」
「偽造です。誰かが──」
「川村さん、もういいでしょう。素直に認めてください」
第二章 解放
取り調べは、三時間に及んだ。
だが、香織は逮捕されなかった。証拠が状況証拠に過ぎず、拓也の遺体も発見されていないため、立件が困難だったのだろう。
「今日のところは帰っていいです。ただし、逃亡や証拠隠滅の恐れがあると判断した場合、逮捕しますからね」
三島刑事の言葉を背中に受けながら、香織は警察署を出た。
外は、小雨が降っていた。
香織は、傘も差さずに歩き始めた。
すべてが、崩れていく。
夫は行方不明。
自分は容疑者。
記憶にない行動の証拠。
誰が、これを仕組んでいるのか。
第三章 街角で
香織は、駅前のカフェに入った。
コーヒーを注文し、窓際の席に座る。
スマートフォンを取り出し、柏木にメッセージを送ろうとしたとき──
「あの……川村香織さんですよね」
声をかけられた。
振り返ると、そこには──桐谷由美が立っていた。
昨日会ったばかりの、あの女性。
「桐谷さん……」
「偶然ですね。こんなところで」
由美は、穏やかに微笑んだ。
「隣、いいですか?」
香織は、警戒しながら頷いた。
由美は、香織の向かいに座った。
「昨日は、突然訪ねてしまってすみませんでした」
「いえ……」
「私、ずっと謝りたかったんです。美咲さんのこと」
由美の目には、涙が浮かんでいた。
「あのとき、私は間違っていました。美咲さんを責めて、追い詰めて……もし私が冷静だったら、美咲さんは死ななかったかもしれない」
「……」
「だから、お姉さんにも謝りたくて。本当に、ごめんなさい」
由美は、深く頭を下げた。
香織は、戸惑った。
この女性は──本当に、加害者なのか。
それとも、もう一人の被害者なのか。
「桐谷さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「あなた、最近私の家の近くにいませんでしたか?」
由美は、首を傾げた。
「いえ、行ってません。なぜですか?」
「監視カメラに、あなたに似た人が映っていて……」
「私じゃないと思います。昨日お会いしたのが、五年ぶりですから」
由美は、困惑した表情を浮かべた。
「もしかして、何かトラブルに巻き込まれてるんですか?」
「……少し」
「お力になれることがあれば、言ってください。せめて、償いをさせてほしいんです」
その言葉は、誠実に聞こえた。
だが、香織の中で警報が鳴っていた。
この女性を、信じていいのか。
第四章 新たな発見
カフェを出た香織は、柏木に電話をかけた。
「柏木、今いい?」
「ああ。ちょうど連絡しようと思ってたところだ」
「何か分かった?」
「監視カメラの映像、さらに解析したんだけど……」
柏木の声が、興奮している。
「映像は第三者のサーバーに送信されてた」
「第三者?」
「ああ。でも送信元は、拓也さんのスマホだ」
香織は、立ち止まった。
「拓也のスマホから?」
「そう。つまり、拓也さん自身が誰かに映像を送ってたか、あるいは──」
「スマホが乗っ取られてた?」
「その可能性もある。それに、サーバーの所在地を追跡したんだけど……海外のサーバー経由で匿名化されてる。追跡は困難だ」
香織は、深く息をついた。
「つまり、犯人はかなり高度な技術を持ってる」
「間違いない。素人じゃない」
第五章 記憶の断片
帰宅した香織は、自分の記憶を辿ろうとした。
拓也が失踪した日の朝。
あの日、何があったのか。
朝食を作った。
拓也と、何を話した?
記憶が──ない。
いや、正確には──曖昧。
朝食の場面は覚えている。だが、会話の内容が思い出せない。
拓也は何を言ったのか。
自分は何を答えたのか。
まるで、その部分だけが記憶から抜け落ちているように。
香織は、監視カメラの映像を確認した。
拓也が失踪する前日の夜。
夕食の場面。
映像の中で、二人は普通に会話している。
だが、音声はない。
唇の動きから読み取ろうとするが、角度が悪くて判別できない。
そして──その夜の映像。
午後十一時。
拓也が何かを飲んでいる。
コップの中身は──水?
いや、違う。
香織は映像を拡大した。
液体の色が、わずかに濁っている。
これは──
「睡眠薬……?」
香織は、愕然とした。
誰が、拓也に睡眠薬を?
そして──
もしかして、自分も?
香織は、自分の記憶の欠落を思い返した。
拓也が失踪した日の朝。
記憶が曖昧なのは──
薬を盛られていたから?
第六章 侵入
夜、香織は寝室のドアを開けた。
そこで、彼女は凍りついた。
寝室が──荒らされている。
いや、荒らされているというより──
何かが、破壊されている。
天井の換気口。
そこに設置していた監視カメラが、引きちぎられていた。
床には、カメラの残骸が散らばっている。
そして──
ベッドの上に、血痕。
香織は、部屋に入ることを躊躇った。
誰かが、侵入した。
いつ?
どうやって?
部屋の隅に──何かが置かれている。
スマートフォン。
拓也のスマートフォン。
香織は、手袋をはめてからそれを拾い上げた。
画面には、メッセージが表示されている。
差出人は──桐谷由美。
『ゲームはこれから。あなたが妹にしたこと、私がお返しする』
香織の手が震えた。
桐谷由美。
やはり、彼女が──
だが、待て。
今日、カフェで会った由美は、あんなに穏やかだった。
演技?
それとも──
香織は、メッセージの送信時刻を確認した。
午後六時三十分。
その時刻、香織は警察署にいた。
そして由美は──
カフェで、私と話していた。
時系列が、合わない。
第七章 罠
香織は、すぐに柏木に連絡した。
「柏木、拓也のスマホが家に置かれてた」
「何?」
「桐谷由美からのメッセージが入ってる。でも、おかしいんだ。送信時刻に、由美は私と一緒にいた」
柏木は、しばらく沈黙した。
「……香織、それ罠かもしれない」
「罠?」
「誰かが、由美を犯人に仕立て上げようとしてる。あるいは──」
「あるいは?」
「由美が共犯者を使ってる」
香織は、深く息をついた。
「どっちにしても、私は罠にはまってる」
「警察には連絡した?」
「まだ」
「すぐに連絡しろ。これは証拠だ」
香織は、電話を切り、110番に電話しようとした。
だが──
指が、止まった。
警察に連絡したら、どうなる?
拓也のスマホに由美からのメッセージ。
これは、由美を犯人として指し示す証拠になる。
だが、もし由美が無実なら──
本当の犯人は、逃げおおせる。
香織は、決断した。
まだ、警察には連絡しない。
自分で、真相を突き止める。
第八章 監視される者
その夜、香織は眠れなかった。
寝室には入れず、リビングのソファで横になった。
だが、目を閉じるたびに──
監視カメラの映像が、脳裏に浮かぶ。
自分が、何かを隠している映像。
記憶にない行動。
誰かが、私を操っている。
誰かが、私を陥れようとしている。
それは──誰?
桐谷由美?
それとも──
香織は、ふと気づいた。
自分が設置した監視カメラは破壊された。
だが──
窓の外に貼られていた、あの小型カメラは?
香織は飛び起き、寝室の窓を確認した。
カメラは──ない。
剥がされている。
犯人は、すべてのカメラを破壊していった。
なぜ?
証拠を隠滅するため?
それとも──
私を、孤立させるため?
スマートフォンが振動した。
匿名のメッセージ。
『あなたは見られている。いつも。どこでも』
香織は、部屋を見回した。
誰が見ている?
どこから?
窓のカーテンを閉めた。
だが、不安は消えない。
壁の中に、カメラがあるかもしれない。
天井に、マイクがあるかもしれない。
香織は、自分が監視される側になっていることを、痛感した。
エピローグ
深夜二時。
香織は、ソファで浅い眠りについていた。
そのとき──
玄関のドアが、静かに開く音がした。
香織は、目を覚ました。
誰か、いる。
心臓が激しく打つ。
だが、香織は動かなかった。
物音が、近づいてくる。
リビングのドア。
ゆっくりと、開く。
暗闇の中、人影。
香織は、息を殺した。
そして──
その人物が、月明かりに照らされた。
顔が、見えた。
香織は、声を失った。
そこに立っていたのは──
拓也だった。
いや、違う。
拓也の姿をした、何か。
彼の目は、虚ろで、焦点が合っていない。
まるで──
操り人形のように。
「拓也……?」
香織が呟くと、拓也は動きを止めた。
そして──
ゆっくりと、香織に近づいてきた。
手には──
何かが握られている。
ナイフ。
第4話 了
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