第6話 出張

 もう一日が過ぎたのに、彼女はまだ私に理由を話してくれない。


 口では気にしていないふりをしていたが、一日中このことが頭から離れなかった。

 楓さんは今日、確かに様子がおかしかった。

 普段ならいつだって人だかりの中心で、押し寄せる話しかけに丁寧に対応し、人が散るのを待ってからでないと動けない彼女が、

 今日はチャイムが鳴ると同時に、風のように素早くカバンをまとめ、ほとんど一番に教室を飛び出していった。一目もくれずに。


 私は呆然と立ち尽くし、手にはめくったばかりの小説のページの端を握ったままだった。

 教室が騒がしくなる中、クラスメートたちは三々五々連れ立って去っていくのに、なぜかむなしい気持ちでいっぱいだった。


 彼女、どうしたんだ ?

 昨日の席替えの時のあの会話を後悔しているのか ?

 それとも、私が何かうっかりまずいことを言ってしまったのだろうか。

 この不確かさが、気をもませる。


「ほらね、彼女と関わると面倒なことになるってわかってたのに……」

 ぼそりと呟き、のろのろとカバンをまとめ始めた。

 窓の外には夕日が差し、校舎を暖かな金色に染めている。しかし、それを見る心の余裕さえなかった。


 しかし考えてみれば、ここまで来てしまった以上、受け入れる以外に私に何ができるというのだろう。

 距離を置くのが、お互いのためなのかもしれない。


 家のドアを開けた瞬間、懐かしい料理の香りがふわりと漂ってきて、私は玄関で足が止まった。


「変だな、ありえないのに」


 思わず腕時計を見る――18時半を過ぎたところ。

 この時間、母はまだ会社で残業中のはずだ。


 慎重に靴を脱ぎ、きちんと下駄箱に並べ、そっと台所へと近づいた。

 近づけば近づくほど、香りは強くなる。母の得意料理の肉じゃがの香り、そして鶏のスープの香り。


「母さん !なんで帰ってるの ?」


 台所の引き戸を開け、エプロンをした慣れ親しんだ背中を信じられない思いで見つめた。

 母は振り返り、手にはまだしゃもじを持って、少し疲れた様子だが温かい笑顔を浮かべていた:


「あら、陽平、おかえり。さあさあ手を洗って、すぐご飯にするから」


 私はまだ衝撃から抜け出せずにいたが、素直に洗面所へ向かった。温かい水が手を流れるが、まだぼんやりしていた。


「本当に異常だ」


 手ですくった水を顔にパシッと当て、冷たい温度がこれは夢ではないと確信させてくれた。

 あの本物の料理の香り、台所から聞こえるグツグツという音、すべてがこれが現実だと告げている。


 手を洗い、部屋に戻ってカバンを置き、今日学校に持っていったが結局読む機会のなかった小説を本棚に戻した。

 背表紙を指でなぞりながら、なぜか楓さんが今日急いで去っていく後ろ姿がまた目の前に浮かんだ。


 ダイニングに戻ると、母がちょうど湯気の立つ味噌汁をテーブルに運んでいた。久しぶりの家族の夕食の温かな気配に、鼻の奥が少しつんとした。

 ここに引っ越して以来、この時間に母の作った温かい料理を食べるのは本当に久しぶりだ。


「今日はなんでこんなに早く帰ってきたの?」


 母から渡されたご飯茶碗を受け取り、思わず聞いてしまった。


「普段は遅いのに」


 母は汁碗をそっとテーブルの中央に置き、私の目を避けるようにした。


「後で話す、まずはご飯を」


 この異常な回避に、私の心中的疑惑はいっそう深まった。

 母は普段、深夜近くに帰宅し、時には私がもう寝てしまっていることもある。

 今日のように早く帰って夕食の支度をすることは、私が高校に上がってから初めてだ。


 立ち上がって台所に行き、二人分の茶碗と箸を取り、きちんとテーブルに並べた。

 肉じゃがは柔らかく味が染みており、ほうれん草のおひたしはさっぱりとしていて、どれも記憶通りの味だ。


「康瑞や、新しいクラスはどう ?」


 母が一口の肉を私の茶碗に取り分け、沈黙を破った。


「まあ、いいんじゃないかな」


 口の中の食べ物を飲み込み、ぼんやりと答えた。


「お友達はできた ?」


 母の目が突然輝き、期待に満ちて私を見つめた。その視線には逃げ場がない。


「まだ」


 うつむき、箸で茶碗のご飯をいじりながら、冷たい声で答えた。


「あら~、高校ではお友達ができると思ったのに」


 母の口調には明らかな失望がにじんでいた。


「期待を裏切ってごめんね」


 自分を嘲笑するように笑った。


「まあいいわ、高校生活が楽しいならそれで」

「多分ね」


 会話はここでぷつりと途切れた。

 母の今日の異常に積極的な態度の裏に、何かが隠されていると鋭く感じ取った。

 この小心翼翼な试探、言いかけてやめるような表情、すべてが一つの答えを示している――

 彼女には私に伝えるべき大事な用事があるのだ。


「そういえば……今日はなんで早く帰ってきたの?」


 箸を置き、母の目をまっすぐ見つめ、もう回り道はしないと決めた。


「あなたにご飯を作ってあげたいからじゃだめ ?」

 母は軽い口調でごまかそうとした。


「何か隠してるみたい」


 ずばりと言った。

 母はため息をつき、肩を少し落とした。


「やっぱりあなたには隠し通せないわね」


 やはりか。私の心は少し沈んだ。


「話してよ、何の用事なの ?」


 食事のペースを遅らせ、全身で彼女の返事を待った。


 母はしばらく沈黙し、言葉を選んでいるようだった。


「明日から出張に行くの」


 彼女は優しく言った。


「だから今日は早く帰って、あなたにご飯を作ってあげようと思って」


 この知らせは、平静な湖面に投げ込まれた石のように、私の心に幾重にも波紋を広げた。

 普段、母と会う時間は多くないとはいえ、彼女が同じ街にいると思うだけで、心の中では安心していた。

 もし本当に出張に行ってしまったら、この家には私一人だけが残される。


「何日くらい行くの」


 声を平静に保とうと努めたが、その寂しさを完全には隠しきれなかった。


「何日か……まだはっきりわからないの」


 母の声には申し訳なさがにじんでいた。


「わかった」


 うなずき、それ以上は追问しなかった。


 それからの夕食は沈黙の中で進んだ。

 機械的に食べ物を噛みしめたが、さっきまでの美味しさはもう感じられなかった。


 食後、私は進んで食卓を片付け、台所で丁寧に食器を洗った。水音が静かな部屋に特に響く。

 一方、母は寝室に戻り、荷造りを始めた。

 台所の片付けが終わると、母のスーツケースを入口まで押して運んだ。

 その黒いスーツケースが玄関に立っている様子は、私の生活から最後の一片の温もりさえも連れ去ってしまう符号のように見えた。


「学校、楽しく過ごしてね」


 母は無理に笑顔を作ろうとしたが、その笑顔の中の無理が明らかに見て取れた。私を心配させたくなかったのだろう。


「うん」


 短く答え、もう一言多く話せば自分の感情がばれてしまいそうで怖かった。


 母が風呂に入った後、私は部屋に戻って宿題のノートを開いた。

 今日の宿題は多くなく、8時になる前には全部終わった。

 ノートを閉じても、小説を読む気にはなれず、疲れて机に突っ伏し、思考が遠くへとさまように任せた。


 次第に、目の前の光景がぼやけ、変容し始めた。

 ......

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