第一章『再来の悪夢』

二話『平和最後の朝』

「——兄ちゃん! ッ……もう朝か」


 目覚め切っていない体をベッドから起こすフリート。

 枕元に置いたスクエアフレームのメガネをかける。慢性的な寝不足のせいで目つきは悪く、神経質なメガネ顔という言葉がピッタリな顔立ち。


「……遅れるわけにはいかない、急ぐか」


 冷蔵庫から取り出した栄養バーとゼリーを胃へ放り込む。あとは眠気覚ましにブラックコーヒーを飲み込んで短い朝食が終わった。

 いつも通りの、医学生とは思えない不摂生を極めた食事。経済的事情もあるが、フリート当人が栄養価以外に興味がないのが本音だろう。


「じゃ、行ってきます」


 制服に袖を通し、家を出る前に家族全員が写った写真に声をかける。

 そこにいるのは元気だった頃の両親と軍服ではなく学生服姿の兄、そして今から五年前、まだ十歳だったころの自分。家族全員が写った一番新しい写真だった。


「またあの夢……今日はクソみたいな一日になりそうだ」


 目的地まで最寄りの駅から都市環状線に揺られる。

 高い壁に囲まれた城塞都市は土地を有効活用するため、立体的な建築物が多く、その間を縫うようにして列車が走る。

 『鉄血帝国』の地方都市の一つ、『ハイデ』。帝国の最北端に位置するここは、建国当時から北より迫る人食いの怪物『怪異』や隣国『円卓王国』との戦いの最前線にあった。おかげで、内地の大都市と比べて建物の多くは真新しい。

 三年前の『第十七次鉄円戦争』最後の戦場になったこの街には今なお、当時の傷跡が色濃く残されている。


(今日は一段と見られるな。……普段、こっちには来ないからか)


 列車内の人々が珍しいものを見るように一瞬だけフリートへ視線を送って、すぐに目を逸らす。そういった不躾に人を詮索する態度に昔は苛立ちを覚えたが、今はもう気にしないようにしている。


「黒髪なんて珍しい……」


「しっ、聞こえるわよ」


 そんな声から逃げるように手元の本へと目を落とすフリート。今の言葉はこれまでの聞いてきた言葉と比べるべくもない。


(黒髪、ね)


 鉄血でよく見られるのは栗毛や金髪。ここ『ハイデ』のような北部では銀髪も一定数いる。が、フリートのような純黒の髪は極めて珍しい。

 それは鉄血というより、極東や華炎などの東方の国々の特徴。顔立ちも、整ってはいるが鉄血人ではなく、極東人のソレだった。唯一、瞳の色だけはこの国でも羨ましがられるほどの、澄んだ宝石のような水色だったが。


「やっほー、おはようフリート」


「相変わらず元気だな」


 降ってきた声に本を閉じ、視線を上げるフリート。

 『モニカ・コーエン』、燃えるような赤毛のツーサイドアップに深い青眼の少女。彼女の制服もフリートの通う医学校指定のものだ。


「え、えっと、さっきは何読んでたの?」


 なぜか目を泳がせながら、たどたどしい口調で聞くモニカ。


「もう少し声量を抑えられないか? 大声出すと人の迷惑になる」


「あ、ごめんね! なら、隣座ってもいいかな?」


「……? 空いてるんだから好きに座ればいいだろ」


 モニカは周りの目を気にするように車内を見回してから、フリートの隣に座る。一方のフリートは気に留めることも無く本を開いて読書を再開した。


「で、それって何の本なの?」


「一昨日にようやく届いた『魔道具理論、古典魔術と現代魔術の融合による分野ごとにおける応用可能性について』。極東帝国のリヒター・ムラサメって有名な魔道具職人が書いてて分かりやすいんだ、後でモニカも読むか?」


「へ、へぇ……うわ、見たことない専門用語がいっぱい……こういうのは……ほら、私達医者志望でしょ? あんまりこういうのは」


「だが、手術用の魔道具や俺だと研究用魔道具とは付き合わないといけないし、モニカも外科だからってオペだけ上手ければいいとは限らないんじゃないか?」


「そこまで言うなら……」


「まぁ、無理強いはしないが」


 思いっきり梯子を外されるモニカ。フリートが読んでいる本と同じものを読みたい気持ちはあったが、ここで自分から踏み出すのは恥ずかしい。


(ええい、いつまで足踏みしてるつもりなのよ私! 本くらい恥ずかしがることないでしょ!)


 恋する乙女は強くて脆いとは誰の言だったか。


「……ね、フリート。私にも読める本ってないかな?」


「それなら同じ著者の入門書の類を漁ってみると良い。実用レベルだけじゃなく色々手広くやってる人だから」


「へぇ……なら安心かも。あの、それでも難しかったら、フリートが教え……」


 甲高いブレーキ音と共に列車が止まり、人で溢れた車内とホームを区切る扉が開け放たれる。

 窓の外から見えるビル街とは違う景色。街の外縁部の中でも、ここは港と軍の基地を有する区画だった。大型の貨物船や港に積まれたコンテナ、列車にまで吹き付ける潮風が鉄血帝国では珍しい『海』を感じさせる。


「着いたな、降りるぞ」


「え、ちょっと待っててば!」


 ホームを抜けて、軍基地の正門まで歩く。このあたりも焼野原になったはずだが、戦前と変わらない作りらしい。


「へー、これが基地……こんな近くで私初めて見た」


 正門を潜ると出迎えてくれるのは戦史博物館や売店など、イメージアップ戦略用の一般公開エリア。基地そのものは更にもう一つコンクリートの壁を越えた先にある。


「……早く集合場所へ行くぞ」


 壁の向こうを不機嫌そうに一瞥して先を急ぐフリート。

 こういう軍関連の施設が彼は嫌いだ。思い出したくないことを嫌でも思い出す羽目になる。特に戦史博物館など足を踏み入れたくもない。ガラスケースの中には、兄の魔導甲冑のパーソナルマークと共に『救国の英雄』や『円卓の悪夢』、『黒い死神』とかの戦意高揚のプロパガンダが並んでいる。

 血のつながらない自分でも弟として守ってくれた優しい兄が、まるで血も涙もない殺人機械キリングマシーンのように扱われているのがどうしようもなく嫌いだったから。


「随分早い到着だねぇ、お二人さんよ」


「そっくりそのまま返してやるよ、エルンスト」


「なに、時間に遅れるってのは僕の流儀に合わないんでね。それにこうやって誰が来るかを考えるのも楽しいもんだ」


 集合場所には一時間前にも関わらず先客がいた。

 『エルンスト・ガーデルマン』。栗色の髪に金色の瞳、背も高くハンサムな容貌もあって女子からの人気に事欠かない男。幼馴染のモニカほどではないが、フリートとエルンストの付き合いも長い。


「おはよう、エルンスト君」


「よっす、今日も頑張ってるねぇ、モニカちゃんは。フリートは相変わらずらしいけど」


「相変わらずってどういうことだ?」


「これはひどい」


 モニカからフリートへの好意は分かりやすいと思うが、フリート本人は全く気が付いていないのか、理解して無視しているのか。

 友人二人のじれったいやり取りを尻目に肩をすくめるエルンスト。


「けど意外だな。お前、今日の課外は来ないかと思ってたんだが」


「あのな、俺は軍とか嫌いだけど、個人の感情で授業をサボるとか、そんな不良みたいなことする訳ないだろ」


「生真面目だな、ほんと。メガネの鏡だ、お前は」


 軽口交じりの雑談を交わす男二人。真面目なフリートと少し軽いエルンストで方向性の違う二人だが、不思議と気は合った。適当で軽いエルンストだが、裏表や悪意といったものには無縁な男だからだろうか。


「でも、今日の話は軍医になるためには必要な事でしょ? ちゃんと聞いておかないと」


「モニカちゃんはフリートとは別ベクトルで真面目だね……どうせ、内容の八割は耳タコ戦意高揚のプロパガンダだよ。聞くだけ無駄無駄。流せるところは流さないと気が滅入るっつーの」


「それに、これまでのことを考えれば次の戦争は十年後、俺達が正式に医者になってすぐだ。軍医の給料とか国のためとかに釣られて簡単に決めるべきじゃない」


 戦場は精神を狂わせる。前の戦争から三年がたった今でも精神的な問題で社会復帰出来ない、心が戦場にあるままの人間が大勢いるのは紛れもない事実。軍医は直接、敵と殺し合う訳ではない。が、戦場にいる以上、その狂気に充てられることは避けられない。


「えっと、二人とも心配してくれてるんだよね」


「幼馴染におかしくなって欲しくないだけだ」


「なにそれ、もうちょっと優しい言い方とかできないワケ?」


「事実だろ。人には向き不向きがある。モニカみたいな優しい人間は、そういう所に行くべきじゃない」


 相変わらず眉間にしわが寄ったまま、フリートなりに精一杯誤解のないように言葉を尽くして理由を述べたつもりだ。ただし、ここで必要だったのは論理的な正しさよりも、柔らかい言葉遣いだろうが。


「やれやれ、二人とも仲のよろしく羨ましいことで……って、カワイ子ちゃん発見伝。軍服……じゃないよな。誰だ?」


 三人の下へと歩いてくる見知らぬ少女。

 儚げ、というよりその雰囲気は死人に近い。色の抜け落ちた薄桃色の髪は乱雑に伸び、緑眼に光は無い。服の上からでも分かるくらいに全身が細いが、側頭部から生える一対の角、純血の喰屍鬼ナハツェーラーの証だけが不自然なほど強い存在感を放っていた。


「どうしたんだろう、あの子調子悪そうだけど……あの、大丈夫ですか!」


 駆け寄ったモニカを無視して進む少女。彼女が足を踏み出すたびに、カツンッ、カツンッ、と金属音が響く。


「やっぱり、すごく顔色悪い。もし良かったら肩を……」


「邪魔。退いて」


 差し出された手を払いのける少女。

 敵意は無いが、ただひたすらに冷たい声にモニカは呆気に取られて。


「あの子が教えてくれたのはあなた?」


 お互いの吐息が直に触れ合いそうなほどの距離。少女の纏う重たい雰囲気に動けなくなっているフリートの頬にひんやりと冷たい手が触れて。


(これは、義手?)


 硬く冷たい感覚が、少女は生きているはずなのに、まるで死人に頬を撫でられるような気色悪さを感じさせた。


「あなた、不思議な人ね」


 つかみどころのない少女の言葉に逡巡するフリート。そして、次の瞬間。


 二人の唇が重なり合った。


「——ッ! 何なんだ、お前は!」


 咄嗟に少女を突き放す。まだ唇には冷たいキスの感覚が残っていた。


「直接でもダメ……どうしても『繋がれ』ない。あなた、本物ね。他の人には無いモノを持ってる。たぶん、また会うことになるわ」


 尻もちをついていた少女はそう言って立ち上がると、何事も無かったように歩き出す。本当に幽霊のような彼女は振り返って。


「ああ、そうだ。私達は第二区画の外れの倉庫にいるから」


 基地のゲートの先に消えていく少女を三人は呆然と見ていることしか出来なかった。


「大丈夫か、フリート」


「朝から訳の分からない痴女に絡まれるとは……最悪だ。顔、洗ってくる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る