4.転生事業
真夏の朝。
県警本部の屋上には、湿った風と焼けたアスファルトの匂いが満ちていた。
輪島は煙草をくわえ、灰皿代わりの空き缶に指先で灰を落とす。
熱を帯びた風が頬をなで、白い煙をかき消していった。
「課長、あの件、私が責任を持ちます。」
下の階では、真木の声が響いていた。
捜査一課の会議室。
エアコンの音だけがだるく鳴り続けている。
課長・藤森は腕を組み、額に滲んだ汗をハンカチで拭った。
輪島の現場復帰をめぐる、何度目かの協議だった。
「……二件連続で“解決に関与”。だが、禁止命令を無視してだ。
現場復帰なんて、普通ありえねぇ。」
「結果は出しています。
どちらも輪島がいなければ未解決でした。」
藤森は苦い表情を浮かべ、机を軽く叩く。
「結果がすべてじゃねぇ。捜査は博打じゃない。」
「彼の方法は危うい。けど――直感は本物です。
その危うさを抑えるのが、私の役目です。」
室内に沈黙が落ちた。
外では、蝉の声が遠くで鳴き続けている。
冷房の風が紙を揺らし、藤森の視線がわずかに逸れた。
「……真木。お前、本気で言ってるのか?」
「はい。正式に“バディ”として認めてください。」
「責任はお前が取るんだな?」
「もちろんです。」
「……わかった。
ただし問題を起こしたら、お前も一緒に飛ぶぞ。」
「覚悟の上です。」
短い沈黙のあと、藤森は面倒くさそうに手を振った。
「出てけ。もう聞きたくねぇ。」
---
会議室を出た真木は、廊下の奥に立つ輪島を見つけた。
薄い光の中で、無表情のままこちらを見ている。
「……通ったわよ。」
輪島はわずかに口角を上げた。
「へぇ、あのオヤジを説得できるとは思わなかった。」
「あなたの代わりに頭を下げたの、これが最初で最後だといいけど。」
「悪いな。俺、そういうの苦手で。」
真木は呆れたように息を吐き、歩き出した。
「次の事件。山の中で“集団失踪”。
上から直で降りてきた案件よ。……準備して。」
輪島はポケットから煙草を取り出し、火をつける。
「バディ、ねぇ。
いい響きだ。」
---
梅雨明け間もない山道を、県警の車両がゆっくりと登っていく。
陽射しで舗装路が白く揺れ、遠くで入道雲が膨らんでいた。
真木は助手席の窓を少し開け、熱を帯びた風を吸い込む。
山中の廃キャンプ場――そこが今回の現場だった。
「死体は、ないんです」
運転席の若い刑事が、額の汗を拭いながら言った。
「靴と荷物だけ。十人分の。まるで集団自殺の準備をしてたみたいで。」
真木は地図を見下ろす。
赤く囲まれた地点の横には、鉛筆で走り書きされたメモ。
『“祈りの会” SNS発祥の自殺防止グループ』
だが、警察が掴んだ実態はまるで逆だった。
“防止”ではなく、“死を肯定する”集団。
そこに関わった人間は、ひとり、またひとりと姿を消していた。
現場は山の奥、誰も使わなくなったキャンプ場だった。
ロッジは木の壁が黒ずみ、窓ガラスは割れ、草が伸び放題。
けれど、地面の一角だけが妙に整っていた。
白い布が十枚、靴が十足。
並び方は正確で、まるで誰かが“式典”を行ったあとのようだった。
「……手慣れてるな。」
輪島が呟いた。
しゃがみ込み、靴の位置を指でなぞる。
等間隔、同じ向き、土の抉れまで揃っている。
「強迫的な几帳面さね。」
真木が低く言う。
「でも、それだけじゃない。――これ、見て。」
指さした先、地面に薄く灰のような粉が散っていた。
輪島が手に取って匂いを嗅ぐ。
「……石灰。火葬場か、病院で使うやつだな。」
「病院……?」
「遺体処理の知識がある。
“死”を現場で見慣れた人間のやり方だ。」
真木は周囲を見渡した。
蝉の声が遠くで鳴いている。
湿った空気の中で、何かが腐るような匂いが混じっていた。
「輪島。あなた、何か知ってる?」
「知らねぇよ。ただ……こういう“整え方”はよく知ってるだけだ。」
「どういう意味?」
輪島は煙草に火をつけ、淡々と言った。
「人間ってのは、自分が犯した罪を“儀式”に変えることで誤魔化すんだよ。
あいつらにとっちゃ、死体も祭壇も同じ“供物”だ。」
真木は言葉を失った。
輪島の横顔は無表情で、それがかえって不気味だった。
---
ロッジの中は湿気と埃の匂いで満ちていた。
壁には浅い傷跡――爪で刻まれた無数の文字。
それは掠れていたが、いくつかだけは読めた。
《ここは祈りの場所》《痛みのない朝へ》《神は見ている》
「……宗教か。」
「いや、違う。」
輪島は壁を指でなぞった。
「これは、“自分を納得させる言い訳”だ。
生きてるのがつらい奴が、死を“祈り”って言葉で飾ってる。」
「あなた、妙に詳しいわね。」
「そりゃ、似たような奴を何人も見てきた。」
「警察として?」
「……さあな。」
真木はその答えに小さく眉を寄せた。
けれど、それ以上は聞かなかった。
---
その夜、県警本部。
捜査資料室の蛍光灯が唸りを上げている。
真木は一人で、回収したスマートフォンとパソコンの解析報告を読んでいた。
どの端末にも共通して入っていたのは、同じチャットアプリ。
名前は《祈りの会》。
「……本当にあったのね。」
背後から低い声がした。輪島だった。
「お前の読み、当たってたな。」
「防止団体を名乗って“死を肯定”してた。
参加者はネットで悩みを投稿すると、
“祈り人”と名乗る誰かが個別に声をかけてくる。」
「優しく?」
「ええ。まるでカウンセラーみたいに。」
輪島は書類を覗き込み、唇の端を歪めた。
「救いの顔して、背中押してやがるわけか。最低だな。」
「“救われたい”人にとっては、むしろ優しさよ。」
「優しさってのはな――使い方次第で、毒にもなる。」
「あなた、そういうのに詳しいのね。」
輪島は黙ってコーヒーを飲んだ。
真木はふと、その手の静けさに、何か異様な冷たさを感じた。
クーラーの音が重く唸っている。
真木はモニターに映る文字列を睨みつけていた。
《祈りの会》――失踪者たちが最後にアクセスした閉じたコミュニティ。
サイバー対策課が通信経路を解析し、ようやく一部が剥がれたところだった。
「発信元、割れたの?」
「はい。……ただ、正直言って気味が悪いです。」
若い担当官は、喉を鳴らしてから続けた。
「このサーバー、民間じゃありません。政府系ネットワークを噛んでる。
医療と防衛と福祉の内部回線の、共有領域を使ってます。」
「政府の……内部?」
「ええ。普通なら国の機関の人間しか入れないはずです。
でも、そこに《祈りの会》が同居してる。」
「同居?」
「公式な業務データの裏側に、別の部屋が作られてる感じです。
“見逃されてる”というより、“許されてる”。そんな匂いがします。」
真木は唇を噛んだ。
背中に汗がにじむのは、室温のせいだけじゃなかった。
「これ、ただの自殺サイトじゃないってことね。」
「自殺サイトどころか……」
担当官は一瞬、言葉を止めた。
「もう一つ、引っかかる文言がありました。転送ログに、こういう呼び名が出てます。」
画面に、英数字の羅列が映る。
そのうちひとつが、日本語のラベルに置き換わる。
《社会安定化試験群/第3ブロック/意識移行適性データ》
真木は目を細めた。
「……今、なんて言った?」
「“意識移行適性データ”。
これ、多分……メンタルじゃなくて、生体側の数値です。
失踪者たちの、医療検査値と照らして管理されてる。」
「ちょっと待って。つまりそれって、
《祈りの会》が集めてるのは“死にたい気持ち”じゃなくて――」
「“死にたい身体”です。」
室内の空気が一瞬で冷えた気がした。
「生きる気力が落ちている人間を見つける。
身体的にも臓器的にも“使いづらい”やつは、そのまま静かに消す。
逆に、“使える”やつは別枠で保存される。
……そう読める構造です。」
「“保存”って何よ。」
担当官はそこで、目を逸らした。
「すみません。そこから先は、ログが暗号化されています。」
「暗号、破れないの?」
「破ろうとしたら、こっちの端末ごと遮断されました。
“国家重要データに対する不正アクセスの疑い”って警告が出たんです。
つまり、こっから先は、捜査権限がないと弾かれる領域です。」
真木はゆっくりと息を吐いた。
そして、隣の椅子に足を投げ出す男に目を向ける。
「聞いてた?」
「全部。」
輪島は、机の上の紙コップを指で転がしながら言った。
目は笑っていない。
「死にたがってる奴を集めて、ふるいにかけるんだろ。
回収するやつと、捨てるやつに。」
「あなた、ずいぶん平然としてるのね。」
「平然じゃねぇよ。」
輪島は首をわずかに鳴らした。
「“回収”がなんの意味か、まだ見えてねぇからイラついてんだ。」
「……あなた、わかってるんじゃないの。」
「わかりたくねぇだけだ。」
その一言に、真木は一瞬だけ言葉を失った。
それは、いままで聞いたどの輪島の声とも違っていた。
低い。乾いている。少しだけ震えている。
「で。」
輪島はモニターの光を指で弾いた。
「そろそろ誘いが来る頃だろ。」
---
深夜。
輪島は自分の安アパートの床に座り、薄いノートPCを膝に置いていた。
《祈りの会》の最終フォーム。
“あなたはどのような終わりを望みますか”と柔らかい言葉で問いかけてくる。
彼は迷いなく打ち込んだ。
「静かに終わりたい」
「誰にも迷惑をかけたくない」
「消してほしい」
送信。
数分もしないうちに、返事が来た。
《あなたの祈り、受け取りました。》
《あなたは条件を満たしています。》
《明日23:00 北山旧診療所跡》
《“導き”は一度です。遅れないでください。》
輪島は小さく鼻で笑った。
「“条件を満たしています”、ね。
就職試験じゃねぇんだぞ。」
夜の山は、息をするたびに冷たかった。
霧が濃く、遠くの木々の輪郭さえぼやけている。
輪島は舗装の途切れた山道を一人、黙って登っていた。
上空には星がなく、ただ湿った闇が覆っている。
イヤーピースの向こうから、真木の声が低く響く。
『GPS確認。旧北山診療所まであと五百メートル。施設裏手に入っていく車両四台、武装確認済み。』
「警察じゃねえな。」
『国家絡みの匂いがする。気をつけて。』
「了解。……もし、音信途絶したら“事故”で処理しとけ。」
『そんな冗談、嫌いよ。』
輪島は軽く笑って通信を切った。
パーカーのポケットに手を突っ込み、仕込んでいたマイクロデバイスを指で押す。
録音、送信、常時記録。
――《祈りの会》。
死にたい人間を“救う”と称し、実際には行方不明者を出している集団。
だが裏の情報では、この施設は国家の実験の“表の顔”だという。
(俺の出どころは、ここと繋がってる。)
輪島はそう確信していた。
この先に、自分が何者なのかを知る鍵がある。
門の前には、ランタンの灯り。
「死を恐れるな」と墨で書かれた木札が吊るされていた。
その光景は、宗教施設というより検問所に近い。
「参加者の方ですね?」
白衣姿の男が現れた。
笑顔だが、目が冷たい。
手にはタブレット端末。
「ええ……紹介されて。もう、生きてるのが嫌で。」
輪島は少しうつむき、掠れた声で答えた。
瞳の焦点を曖昧にし、死を望む人間の“虚ろ”を演じる。
男は静かに頷き、端末を操作する。
「名前を。」
「渡辺誠。」
「職業は?」
「……もう辞めました。運転手です。」
数秒の沈黙。
スキャナーの光が輪島の顔を照らす。
登録が終わると、白衣の男は手を差し出した。
「ようこそ。《祈りの会》へ。ここでは、痛みも苦しみもすべて手放せます。」
「……死ねるんですか?」
「“再誕”です。肉体の痛みから、魂を解放するのです。」
男の声は穏やかだが、その奥に奇妙な抑揚があった。
まるで台詞を繰り返す機械のように。
「どうぞ、こちらへ。」
門を通り過ぎると先についていた参加者達と共に祈り人に案内される。
深夜0時過ぎ。
山間部の旧病棟跡地。
外周には複数の覆面車両が静かに配置されていた。
ライトは落とされ、通信は暗号化された限定回線のみ。
外周指揮車の中、真木はヘッドセットをつけ、波形モニターを睨んでいた。
「――こちら第1班、異常なし。」
「第2班、反応なし。」
ノイズ交じりの通信が続く。
その中で、ひときわ小さな声が聞こえた。
《……こちら輪島。現在、他の参加者と共に内部へ、中の構造は三層だ。地下に降りるエレベータがある。祈り人は十数名。》
真木は息を詰めた。
「輪島、GPSの調子が悪いの。位置を送って。救援ルートを確認する。」
《まだだ。……今は“死にたい”奴のフリして潜り込んでる。》
《このまま奥まで行く。合図するまで動くな。》
「……了解。でも、気をつけて。」
《心配か?主任。》
「バディでしょ。」
輪島の短い笑いがノイズの向こうに消えた。
ロビーに案内される。
十数人の男女が椅子に座った。
年齢も境遇もバラバラだが、皆が同じ目をしている。
希望も絶望もなく、ただ“静か”だった。
壇上に白衣の導師が立つ。
「皆さん、よく来てくれました。
ここでは、もう苦しむ必要はありません。
神は、魂に新しい器を与えられます。」
輪島は目を伏せたまま、視界の端で周囲を観察する。
四隅に監視カメラ。
出入口には警備員。
空調口の下に熱源探知センサー。
(完全な監視下……やっぱり“宗教”じゃないな。)
スタッフが銀のトレイを持って回り、小瓶を配っていく。
“神経抑制剤”。
ラベルには何も書かれていない。
輪島の前にも瓶が置かれた。
「少し飲むと、心が落ち着きます。」
彼は瓶を手に取り、
軽く微笑んで言った。
「これで、楽になれるんですか。」
「ええ。すぐに。」
輪島は蓋を開け、
喉を鳴らすフリをした。
液体を舌の裏の吸着カプセルに流し込み、
空の瓶を机に戻す。
――冷たい視線。
スタッフの一人が、輪島をじっと見ていた。
(……バレたか?)
視線を外さずに、
輪島はわずかに肩を震わせ、息を荒くする。
周囲には、同じように“死を望む者”たちが並んでいた。
祈り人と呼ばれる白衣の者たちが淡々と誘導する。
「安らぎを与えます。魂は新たな器へ。」
---
外では真木の声が荒くなる。
「応答がない? どういうこと!」
「無線が……遮断されました。内部からジャミング波を検出。」
真木はモニターの波形を凝視した。
映像班が赤外線カメラを回す。
だが病棟の地下部分は完全にシールドされていた。
「主任、あそこ……見てください。」
若い刑事が指を差す。
画面には、施設の裏手から展開する黒服の部隊。
ヘルメット、装甲ベスト、夜間用ゴーグル。
武装は――HK416F。
「……自衛隊の装備?」
「識別パッチがない。所属不明部隊です。」
「待って、どこの指示で動いてるの?」
「不明。上からも何も降りてません。」
真木は舌打ちした。
「もう黙ってられない。第1・第2班、突入準備!」
冷気が喉に刺さる。
輪島は担架の上で息を潜め、耳を澄ませた。
規則的な足音、金属のキャスターの軋み。
霊安室のような部屋――消毒液と死体の匂い。
(……ここだ。間違いなく、俺の“出どころ”だ。)
この場所に来た瞬間から、
体の奥に沈んでいた何かがざわめき始めていた。
“見たことがある”わけでも、“聞いたことがある”わけでもない。
ただ、本能が言っていた。
――ここに、自分が生まれた理由がある。
「男性個体078、搬入完了。」
「転写準備に入れ。」
担架が止まり、手が腕を持ち上げた瞬間、輪島は目を開いた。
肘を返し、喉を叩き潰す。
相手の息が止まる前に、もう一人を布越しに殴り倒す。
“動き方”が、まるで自分のものではないようだった。
「……なんだ、今の感覚。」
白衣を奪い、廊下へ出る。
無表情な祈り人たちが行き交い、端末を操作していた。
壁の掲示には「転写シーケンス」や「意識受容」といった言葉が並ぶ。
(意識……転写? やっぱり、ここだ。)
輪島は数人を気絶させ、カードキーを奪う。
廊下の奥、青い光が漏れる扉の前で立ち止まる。
プレートには「資料保管室」。
鍵をかざすと、扉が音もなく開いた。
資料室の中は、冷蔵庫のように冷えていた。
壁際の蛍光灯が、白い光で床を照らす。
輪島は息を殺し、キャビネットの引き出しを静かに開けた。
ファイルの背表紙に、細いラベルが並んでいる。
《転生実験記録 第一段階》
《被験体 W-01〜W-05》
中を開くと、整然と並んだ報告書の行間に、ぞっとするような冷たさがあった。
《実験名称:意識転写実証計画 第1段階》
《目的:死刑囚を用いた意識転写技術の基礎検証》
《実用利用:未定。あくまで倫理審査前の実験的研究段階。》
《監督:東條玲司博士/研究管理局》
> 《概要》
> 当計画は、神経記録技術の進展に伴い、個体の「意識」をデータとして抽出・保存し、他個体の脳に再生させることを目的とする。
> 対象は死刑確定囚に限定。生命倫理上の“実験適格者”として処理。
> あくまで“転写の可能性”を検証する段階であり、実用利用・軍事転用は未承認。
> 《結果要約》
> 被験体W-02:転写後、受容個体が拒絶反応を起こし死亡。
> W-03:人格崩壊、短時間の錯乱の後に心停止。
> W-04:転写成功率3%。意識は断片的にしか再生せず。
> W-05:脳波パターンが異常に安定化、数時間後に沈黙。
輪島はページをめくった。紙の端が指にざらりと引っかかる。
「……死刑囚を使って“検証”か。人間をパーツみたいに扱いやがって。」
次の棚には、さらに新しい段階の報告書があった。
《第二段階:意識統合実験(死刑囚間)》
《監督:東條玲司博士/倫理審査準備中》
> 《目的》
> 死刑囚間における記憶・人格転写の再現性確認。
> 転写後の意識安定度および生理反応の観察。
> 外部応用は想定しない。倫理的・学術的検証段階にとどまる。
> 《注記》
> 実験参加者はすべて「法的死」を宣告された被験体。
> 実験成功例なし。全ての転写は拒絶反応、もしくは人格崩壊を伴う。
> 本実験は純粋な研究目的であり、軍事・医療利用は計画段階にもない。
輪島は思わず笑い出した。
「“純粋な研究目的”。……どの口が言ってんだ。」
ふと、最下段の引き出しに別のラベルが目に入った。
《第3段階/被験体W-07:別室保管》
その瞬間、胸の奥にざらりとした感覚が走った。
(……W-07。俺の名前の頭文字と同じだ。)
資料室の奥に、ひときわ厳重なドアがあった。
カードキーを差し込むと、鈍い電子音が鳴る。
ドアが開くと、薄暗い区画に棚が一つだけ。
ラベルには確かに、こう記されていた。
《被験体 W-07 輪島聖司 転写記録》
輪島は、無意識のうちにそのファイルを抜き取った。
(……やっぱり。俺の“違和感”はここから始まってた。)
ページをめくる。紙が乾いた音を立てた。
《実験名称:意識転写実証計画 第3段階》
《段階説明》
本計画は意識転写技術の基礎検証を目的とし、実用利用を意図しない検証フェーズである。
軍事転用・医療応用・倫理審査は未実施。現時点での成果は探索的研究の域を出ない。
《転写元:被験体W-07(死刑囚・殺人、死体損壊、死体遺棄等罪)》
《転写先:被験体W-08(死刑囚・暴行致死)》
《異常事態発生:転写過程において複数意識データの混線を検知》
《干渉源:S-09(自衛隊特殊作戦群所属・退役処理中)》
《同時刻、県警所属刑事(脳死)に対し受信反応を検出》
《結果:W-07、S-09、及び刑事の脳データが複合統合》
《最終転写先:刑事個体(脳死) 識別不能な融合反応を確認》
《状態:生命活動再開、人格統合済み》
輪島はページを握る手に力を込めた。
(……死刑囚から死刑囚の実験、のはずだろ。
なんで“刑事”が出てくる……?)
次のページの片隅に、手書きの署名があった。
> 《監督責任者:東條玲司博士》
> 想定外の三重干渉。だがこれは失敗ではない。
> 「三つの魂を一つに統合した」初の例。
> W-07は“再生体”として安定しており、記録的成果とする。
輪島は短く息を吐いた。
「……“再生体”ね。笑わせんな。」
理解は追いつかない。だが本能が告げていた。
ここに書かれた“失敗”が、自分という存在そのものだと。
――俺は、“誰かの実験”で生かされてる。
「……ふざけてるな。
死刑囚と刑事と軍人、混ぜてみましたってか。」
彼は書類を閉じ、胸ポケットへ差し込んだ。
その瞬間、背後のドアが音を立てた。
輪島はその名を呟いた。
「東條玲司……お前が、これをやったのか。」
その瞬間、背後の扉が開く。
「078号、発見!」
黒装備の部隊員たちが雪崩れ込んだ。
銃口が火を噴く。
HK416Fの銃声。
壁が砕け、紙が宙を舞った。
輪島は机の影へ滑り込み、ニューナンブM60を抜いた。
六発。
呼吸を整え――その時、頭の奥で何かが切り替わった。
視界が異常に鮮明になる。
敵の呼吸の間合い、銃口の揺れ。
全てがスローモーションのように感じられた。
(――どう動けば勝てるか、分かる。)
体が勝手に動く。
射線を読む。
反射角を計算し、壁越しに撃つ。
弾丸が跳ね、敵の肩を撃ち抜いた。
「なっ……どこの訓練受けてやがる!」
「知らねぇよ。……俺の中の誰かが、教えてくれてんだ。」
輪島は机を蹴り、影を跨ぐように回り込む。
HKの銃口が振り向くより早く、
リボルバーの銃声が一度鳴った。
兵士が倒れる。
そして――その瞬間、
輪島は自分の中に、知らない記憶の断片を見た。
戦場。
砂塵の中、銃を構えた男が泣いていた。
「……俺は、人を殺せない。」
その声だけが鮮明に残った。
輪島は息を荒げ、壁に手をついた。
「……これが、“干渉”ってやつか。」
理解ではなく、実感だった。
自分の中に、“殺せなかった兵士”がいる。
だが、今その手で殺しているのは自分だ。
「……皮肉なもんだな。優しい兵士が、俺の引き金を引いてる。」
煙の中、輪島は立ち上がった。
そして――爆発音が施設全体を飲み込んだ。
火球が通路を駆け抜け、天井の鉄骨が吹き飛ぶ。
床が傾き、壁のパネルが剥がれ落ちた。
輪島は咄嗟に倒れた机の影に飛び込み、腕で頭を覆う。
「クソ……! 証拠隠滅のつもりかよ……!」
耳が痛いほどの轟音の中、緊急警報が鳴り響く。
赤いランプが点滅し、煙が生き物のように渦を巻いた。
崩れかけた通路を、輪島は這うように進む。
火花を散らす電線の隙間から、黒い影が動いた。
「078号、生存確認! 射殺許可継続!」
自動小銃の銃口が光る。
輪島は壁の裏へ身を隠し、拳銃を構えた。
――五発。
――距離十メートル。
(撃たせろ。奴らの間合いに入る前に――)
弾丸が飛び交う。壁のコンクリートが粉を吹き、空気が震えた。
輪島は飛び出しざま、右手の銃をわずかに傾ける。
拳銃の発砲音は、敵の連射音に掻き消された。
だが、結果は一瞬。
敵の一人が膝を砕かれ、倒れ込む。
次の瞬間、輪島は死角を突き、別の男の背後へ回り込んだ。
「……悪いな。」
拳銃の銃身で側頭部を殴打。
倒れた体を遮蔽物に使いながら、壁の陰へ滑り込む。
煙が濃くなる。呼吸が苦しい。
熱で頬の皮膚が焼けるようだ。
そのとき――
遠くの無線から、かすかに真木の声が入った。
『輪島! 応答して! 今どこ!?』
「……地下区画。資料は確保したが、包囲されてる!」
『外周を固めてる。今、突入班を――』
「やめろ、時間がねぇ! このままじゃ……!」
言葉を遮るように、再び爆発。
天井が崩れ、火が通路を走った。
輪島は咄嗟に倒れたロッカーの陰に飛び込む。
火花の中を、黒いヘルメットの影が迫ってくる。
銃声。弾丸が壁にめり込み、火花が散った。
(……こいつら、完全に訓練されてる。自衛隊の手口だ。)
輪島は床に転がった消火器を手に取る。
ピンを抜き、壁際へ投げた。
噴き出した白煙に紛れて姿を消す。
敵が煙の中を確認に入った瞬間、輪島は背後から飛び出し、
首を肘で締め上げ、そのまま壁に叩きつけた。
「……まだ来るか。」
残弾、あと二発。
輪島は荒い息を吐きながら立ち上がった。
足元には転がる銃。
手に取ると、冷たい金属の重みが異様に懐かしく感じられた。
(……この構え方、体が覚えてやがる。)
遠くで無線の声が近づいてくる。
輪島は狙撃のように一瞬だけ顔を出し、引き金を引いた。
銃声が響き、敵の一人が崩れ落ちた。
そのとき、外のガラス壁が破られた。
「輪島――!」
真木の声。
爆風と共に、県警の突入班が雪崩れ込んでくる。
盾を前に、制圧弾が放たれた。
だが相手はそれ以上に速かった。
自動小銃の反撃が飛び交い、弾丸が壁を削る。
突入班の一人が肩を撃たれ、倒れ込む。
「真木、下がれ!」
「黙ってなさい、今さら置いて帰れるわけないでしょ!」
真木は拳銃を抜き、咄嗟に射撃した。
狙いは正確。敵の腕を撃ち抜き、弾が落ちる。
輪島はその隙に飛び出し、前方の敵を蹴り飛ばした。
動きは研ぎ澄まされ、無駄がない。
まるで、訓練された兵士そのものだった。
「くそっ……体が勝手に動く……!」
残りの敵が撤退の動きを見せる。
その直後、遠隔爆破の警報音。
「全員退避ッ!」
真木が叫んだ。
輪島は燃え上がる通路を振り返りながら走る。
「ここまでやるか……証拠隠滅の徹底ぶりだな!」
最後の爆発が、背後を呑み込んだ。
衝撃で地面が浮く。
輪島は真木を抱きかかえ、倒れ込むように外へ飛び出した。
---
夜明け前。
崩壊した施設の前で、消防と機動隊が動き回っていた。
輪島は救急車の横に腰を下ろし、息を整える。
右腕には包帯、服は煤にまみれていた。
真木が隣に座り、視線を落とす。
「あなた、何人も撃ったのに……全部“なかったこと”にされたわ。
警察の記録にも、交戦記録にも残ってない。」
輪島は苦く笑った。
「それだけヤバいもんを踏んじまったんだろ。
……あの爆破も、“口封じ”だ。」
真木は黙っていた。
輪島のポケットから、焦げたデータチップが一枚こぼれ落ちた。
「それ……」
「拾った。俺の“生まれた理由”が、ここにある。」
朝日が昇る。
崩れた施設の煙の向こうで、
誰かが見ているような気配がした。
――この国の奥底に、神の代わりを名乗る“何か”がいる。
三日後。
県警会議室。
救出された二人は、簡単な聴取を終えたあと、処分会議に呼び出された。
「現場の破壊、未承認の潜入、銃撃戦……前代未聞だ。」
課長の藤森が、机を叩く音が響く。
「上からは“圧力”が来てる。……俺たちの手には負えん。」
真木はまっすぐ藤森を見る。
「それでも、あの施設は――」
「“存在しない”。」
その言葉に室内が凍りついた。
「報告も、記録も、許可書も、ぜんぶ消えた。」
藤森は肩を落とし、静かに言った。
「……お前ら、二人ともクビだ。」
真木は何も言わなかった。
輪島は、逆に薄く笑った。
「やっと自由になれるな。」
「ふざけないで。」
「真木、もう終わったんだ。……上は俺たちを“いなかったこと”にした。」
真木は拳を握りしめた。
「そんなこと、許されるわけが――」
「この国じゃ、よくあることだ。」
輪島はゆっくりと席を立ち、会議室を出た。
背後で真木の声が小さく響いた。
「……あんた、本当は何者なの?」
輪島は答えなかった。
---
夕暮れ。
輪島は古びたアパートに戻り、煙草をくわえた。
窓の外、薄紫の空。
すべてが焼けたように静かだった。
(……これでいい。もう、全部終わった。)
そう思った瞬間、玄関のチャイムが鳴る。
輪島は眉をひそめ、ドアを開けた。
立っていたのは、黒いスーツの女。
髪を後ろで束ね、黒縁の眼鏡。
どこか、真木を思わせる空気をまとっていた。
「――輪島聖司さんですね。」
「誰だ。」
「国家倫理観察庁。……あなたをスカウトしに来ました。」
輪島は鼻で笑う。
「そんな庁、聞いたこともねぇな。」
女は静かに言った。
「ええ。十年前に“廃止された”ことになってますから。」
「亡霊の勧誘か。」
「いいえ。“真実を見た者”の招待です。」
輪島はしばらく黙り、煙草に火をつけた。
灰が静かに床に落ちる。
「……真木は?」
「あなたと同じく、職を失いました。彼女にも声をかけます。」
輪島は煙を吐き、女の目を見る。
「いいだろう。……どうせ、暇だ。」
女は小さく頷き、ドアの外を示した。
「こちらへ。車が待っています。」
アスファルトの向こうには、黒塗りの車が一台。
その後部座席に乗り込んだ瞬間、
輪島の中で――何かが、静かに動き出した。
---
車が走り出す。
窓の外、夜の街が流れていく。
女はふと口を開いた。
「あなたが見た“祈りの会”の施設、あれは厚生労働省と防衛省の合同研究でした。」
「……予想通りだな。」
「倫理観察庁は、その監察機関。けれど、今は“廃止”扱いです。」
「つまり、あんたらは亡霊。」
「そう。けれど、亡霊は時々――神の首を狩る。」
輪島は笑い、シートにもたれた。
「いいね。その言い回し、気に入った。」
車窓に朝日が差し込み、
輪島の顔を赤く照らした。
――新しい朝が、また始まろうとしていた。
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