1.目覚め

消毒液の匂いが、鼻の奥を刺した。

 心臓の鼓動が、金属のように重く響いている。


 ゆっくりと目を開けると、白い天井。

 点滴の管、酸素の音、機械の光。

 ……また、病院だ。


 腕を動かす。骨格が違う。指の長さも、皮膚の色も。

 鏡を見なくても、もう知っていた。

 自分は、もう“自分”ではない。


 ドアが開き、医師が入ってくる。

 中年の男、温和な笑み。


 「気がつきましたか? 奇跡ですよ。あの高さから落ちて、生きてるなんて。」


 彼はゆっくり瞬きをした。

 “あの高さ”――記憶を探る。

 この身体の持ち主は、どうやら自殺を図ったらしい。

 そうか、神は皮肉にも“死を望んだ男”の身体を選んだのか。


 「……刑事さん、でしたね。署の方も心配してましたよ。」


 医師の言葉に、脳裏で何かがざらりと動いた。

 刑事――。

 つまり、彼は今、**“法の側”**にいる。


 笑いそうになった。

 喉の奥でかすれた声が漏れる。


 「……悪趣味な神様だ。」


 その呟きを医師は聞き取れず、

 「しばらく安静に」と言い残して部屋を出ていった。


 静寂が戻る。

 天井を見上げながら、彼は思った。


 ――警察が犯罪のプロなら、犯罪者もまた犯罪のプロだろう。

 俺はその両方を知っている。


 体の奥底で、久しく忘れていた感覚が疼く。

 “狩り”の血が、まだ流れている。


 目には目を、犯罪者には犯罪者を。

 神の冗談は、まだ終わっていないらしい。

病院の個室。

 窓から射し込む光が、白い壁を照らしていた。

 彼――いや、“元・殺人鬼”は、数日前からここで目を覚ましている。


 点滴の針を外し、鏡の前に立つ。

 映った顔は、二十代後半ほどの男。

 やや痩せた頬、少し落ちた目尻、唇の端に古い傷跡。


 机の上には警察手帳が置かれていた。

 そこには「輪島聖司(わじま せいじ)」という名前。

 彼が今、生きている“他人”の名だ。


 患者記録のコピーにはこうある。

 ――県警刑事部捜査第一課。

 精神的ストレスによる長期休職、そして……自殺未遂。病室の引き出しを開けると、手帳が入っていた。

 擦り切れた黒いカバー。

 中には、几帳面な字でびっしりと書き込まれた文字。

 まるで心の中を吐き出すように、日付ごとに並ぶ。


 彼――輪島聖司は、孤独だった。


 > 「今日も会議で無視された。」

 > 「また上司に怒鳴られた。俺のせいじゃないのに。」

 > 「誤認逮捕の件、誰も庇ってくれなかった。」

 > 「“刑事のくせに人を見る目がない”だってさ。」

 > 「もう……疲れた。」


 ページをめくる指が止まる。

 インクが滲んだ最後の一文。


 > 「このままいなくなれば、少しは楽になるだろうか。」


 彼はふっと鼻で笑った。

 「死にたいほど辛い、ね……。

  人を殺すのが楽しくて仕方なかった俺とは、ずいぶん正反対だ。」


 だが、ページを閉じたあと――

 胸の奥に小さな違和感が残った。


 この男の苦痛は、社会からの“悪意”によるもの。

 そして今、自分はその悪意を背負う立場に立たされている。


 「……なるほど。」

 神がこの身体を選んだ理由が、

 ほんの少しだけ見えた気がした。



 「……神様は随分と皮肉が好きらしい。」

 呟きながら手帳を閉じた。

 生前、笑いながら人を殺したこの手が、

 今は“人を守る”ための証を握っている。


「……どうやら、退屈しなくて済みそうだ。」

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