第16話 氷姫の処刑嘆願
アルディーニ公爵家の屋敷は、まるで時間そのものが凍りついたかのように静まり返っていた。
かつては客や使用人たちの活気ある往来で賑わっていた回廊も、いまは誰もが足を忍ばせ、声を潜めている。
理由はただ一つ――“正式な戦死通知”が届いたからである。
第一師団師団長、デメトリオ・ディ・アルディーニ少将。
王国軍の将来を担う期待の星、王都の住民からも深く敬愛されていた名将の死は、家に住まう全ての者の心を打ち砕いた。
公爵家の長男にして、家そのものの誇りでもあった。
しかし、悲嘆に追い打ちをかけるように、さらにもう一つの報せがもたらされていた。
デメトリオと共に戦地へ赴いた娘、フラミニア・ディ・アルディーニ――
彼女は辛くも生還したものの、左足はほとんど動かず、左目は完全に光を失ったというのだ。
医師は、公爵夫妻の前で頭を垂れながら、静かに宣告した。
「……残念ながら、これ以上の回復の見込みはございません」
その場には、まるで重い鐘の音が響いたかのような沈黙が落ちた。
ベッドの上、フラミニアは右目だけで父母を見つめながら、唇を結んで震えていた。
アルディーニ公爵は、拳を震わせながらかろうじて声を絞った。
「……ロストフの“氷姫”が……フラミニアをこのようにしたのか……」
彼の怒りは、悲しみよりも深く、燃え盛る憎念となって胸の中で膨れあがっていった。
デメトリオの死――フラミニアの片目と不自由な足――
公爵家の悲劇は、国王へ届くまで時間を要さなかった。
アルディーニ公爵は王宮へ乗り込み、国王の前で膝をつき、声を震わせながら叫んだ。
「陛下! 我が息子を奪い、娘をあのような姿にしたロストフの“氷姫”を……どうか、処刑なさってください!
あれは人の姿をした兵器にすぎません!」
しかし、国王は厳しい表情で首を横に振った。
「公爵よ……気持ちは分かる。だが、戦時国際法がある。捕虜を処刑することは、王国の信用を崩す行為だ。
我が国は法と理性に従う文明国であると示さねばならぬ」
「文明など――我が子らにどれほどの地獄を味わわせたのか!
氷姫の心など、氷のように冷たいのですぞ!!」
国王は目を閉じ、深く息を吐いた。
その場にいた廷臣たちも、怒りに震える公爵を前に言葉を挟むことができなかった。
やがて公爵は、何も言わずに背を向け、王宮を後にした。
その背中には、深い闇がまとわりついていた。
王宮での不発の嘆願から数日後。
軍務省では、ナルディーニ中佐とデオタート参謀総長が、講和交渉に向けた戦略を練っていた。
ロストフとの戦争は、すでに両国に深い傷を刻んでいる。
停戦中で講和を結べる可能性が生まれつつあったが、その天秤は非常に繊細で、ひとつの情報で傾きかねなかった。
そんな中、黒い噂が流れてきた。
――アルディーニ公爵が独自に暗殺団を組織し、王国軍による拘束下にある“氷姫”を闇で処刑しようとしている。
ナルディーニは、書類の束から顔を上げ、眉をしかめた。
「まったく……公爵家の悲しみは痛いほど分かるが、これは国全体を混乱させかねない」
デオタートは、椅子の背にもたれながら腕を組んで言った。
「しかし、放置すれば実行される可能性がある。王国の立場上、氷姫の身を守らねばならん。たとえ憎くてもだ」
ナルディーニは机を指先で軽く叩き、やがて静かに口を開いた。
「――この噂を、逆に利用できるのでは?」
「利用……?」
「はい。外国メディアに“公爵家が氷姫暗殺を企てている”と一斉に報じてもらう。
ロストフ皇帝に、“捕虜が危険にさらされている”という危機感を抱かせるのです」
デオタートは目を見開き、それから唇の端を上げた。
「……なるほど。氷姫の保護を条件に、ロストフに講和の譲歩を引き出すわけだ。
公爵家の暴走を止めつつ、戦争を終わらせる切り札にもなる」
ナルディーニは深く頷いた。
「皇帝は氷姫を極めて重視している。彼女の安全を脅かされたと知れば、必ず動揺するはずです」
そして数日後――
外国の新聞には見出しが踊った。
「ランゴバルド王国で捕虜暗殺計画か?
アルディーニ公爵家が『氷姫』殺害を画策との情報」
記事は瞬く間に拡散し、国際世論を揺るがせた。
ロストフ帝国の宮廷では緊急会議が開かれ、皇帝は新聞を叩きつけるようにして怒声を上げた。
「なんだこれは! 氷姫に危害が加えられようとしているだと!?
ランゴバルドは捕虜を守ることもできぬ国なのか!」
皇帝の動揺は隠せなかった。
氷姫――帝国最強の戦乙女は、ただの兵士ではない。彼女は帝国軍の象徴であり、皇帝自身が次の皇妃にと、大切に思っていた存在だった。
その氷姫が暗殺されそうになっている。
皇帝はすぐさま政府高官に命じた。
「講和に向けて前向きに協議せよ。
ただし、氷姫の無事と引き渡しを最優先とせよ!」
こうしてロストフ政府の態度は一変した。
硬直していた両国の講和交渉は、ようやく動き出すことになった。
総司令部に戻ったナルディーニは、新聞記事の束を机に置いて深く息を吐いた。
「……これで、戦争が終わる可能性が見えた」
デオタート参謀総長は静かに頷いた。
「よくやった、ナルディーニ。
戦場以外の場所にも、戦いはある……そういうことだな」
「はい。銃剣よりも、情報が国を動かすこともあります」
ナルディーニは窓の外を見た。
夕日が王都を赤く染めていた。その光は、まるで流れた血の色を薄めるように、街を静かに包んでいた。
――しかし、この講和の裏で、アルディーニ公爵の怒りはまだ消えてはいない。
デメトリオの死とフラミニアの傷は、簡単に癒えるものではないからだ。
そしてその怒りは、別の形でこの国を揺るがす影となって忍び寄ることになる。
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