『召喚された俺のスキルは【理科】でした~辺境で始める科学文明再生記~』

とびぃ

第1話 理科準備室からの召喚

ピピピッ、ピピピッ。

放課後の静寂を切り裂いて、無機質な電子音が鳴り響く。俺、相良 聡(さがら さとし)、26歳は、鳴り続けるタイマーを手探りで止め、白衣の胸ポケットに突っ込んだ。

「おっと、もうこんな時間か」

窓の外は、鮮やかなオレンジ色と深い藍色が混じり合い、一日の終わりを告げている。校庭ではサッカー部が最後の練習に励む声が、ここまで微かに届いていた。

ここは、俺の職場である日本のとある公立高校の、理科準備室。

目の前の実験台には、洗浄を終えたビュレットが整然と並び、フラスコやビーカーがその出番を待っている。明日の化学基礎の授業で使う、中和滴定の準備だ。生徒たちには少し難しい実験だが、あの「わからない」が「わかった!」に変わる瞬間の、あの輝くような表情。それを見るためなら、多少の苦労も苦にはならなかった。

「フェノールフタレイン溶液の濃度は……よし、問題ない。水酸化ナトリウム水溶液の標定も終わってる。あとは……」

最後のコニカルビーカーを洗浄ラックにかけた、その時だった。

「……ん?」

違和感は、足元から来た。

夕日の差し込む床に、ありえないものが浮かび上がっていた。

「……魔法陣?」

思わず声が出た。直径3メートルほどの複雑な幾何学模様。それは漫画やゲームでしか見たことのない、まさしく「魔法陣」だった。美術部の誰かが、最新のプロジェクションマッピングでも試しているのか? いや、それにしては光が実体を持ちすぎている。埃っぽい準備室の床から、明確な輪郭を持って、淡い燐光を放っているのだ。

好奇心が、恐怖よりも先に頭をもたげる。

「なんだこれ……プラズマ発光の一種か? 床の材質と化学反応を……いや、そんなはずは……」

職業病だ。俺はしゃがみ込み、その光る線に触れようとした。だが、指が触れる直前、魔法陣の光量が爆発的に増大した。

「うわっ!?」

強烈な光に目が眩む。それと同時に、内臓を直接掴まれるような、強烈な浮遊感が全身を襲った。いや、浮遊感じゃない。これは……圧迫感だ。四方八方から見えない力に押し潰され、分子レベルで分解されていくような、科学では説明不可能な異常事態。

「まずい……っ、意識が……!」

平衡感覚が消失し、視界が真っ白に染まっていく。薬品棚のホルマリン漬けの標本が、ぐにゃりと歪むのが見えた。

(ああ、明日の授業……準備、まだ途中だったのに……)

そんな教師としてのしょうもない未練が、意識が途切れる直前に浮かんだ、最後の思考だった。

次に目を開けた時、俺の世界は一変していた。

薬品と埃の匂いは消え失せ、代わりに、嗅いだことのない厳かな香の匂いが鼻腔をくすぐる。

床はリノリウムではなく、冷たく硬い石畳。

そして、俺がいたのは、天井がやけに高い、だだっ広い広間だった。

「……どこだ、ここ」

呟きは、高い天井に吸い込まれて消えた。状況がまるで理解できない。誘拐か? それにしては規模が大きすぎる。

見回せば、俺の他にも三人の人間が、同じように呆然と立ち尽くしていた。

一人は、いかにも体育会系といった風情の、屈強な体つきの男。

一人は、快活そうな笑顔が似合いそうな、ポニーテールの女。

最後の一人は、知的な銀縁眼鏡をかけた、神経質そうな男。

服装は俺と同じく、元の世界のものだ。ジャージ姿の者もいれば、俺のように白衣を着たままの者もいる。

そして俺たちの視線の先には、明らかに現代日本の様式ではない、豪奢な装飾が施された玉座があり、そこには威厳のある初老の男――いかにもな「王様」が座っていた。その両脇には、揃いのローブを纏った神官らしき老人たちが、厳粛な面持ちで控えている。

広間は、俺たちを取り囲むように、煌びやかな鎧をまとった騎士たちで埋め尽くされていた。誰もが、期待と興奮に満ちた目で俺たちを見つめている。

やがて、玉座の王が重々しく口を開いた。

「おお……! ついに、ついに成功したぞ! 預言の通り、異世界より四人の勇者様方がお越しになられた!」

その宣言を合図に、静まり返っていた広間が、割れんばかりの歓声に包まれた。

「ワァァァッ!」

「勇者様だ!」

「これで王国は救われる……!」

……勇者? 異世界?

頭が痛くなってきた。どうやら俺は、理科準備室での残業の途中、科学では説明不能な「召喚」という現象によって、使い古されたテンプレート通りの異世界に飛ばされてしまったらしい。

教師としての探求心が、このトンデモ現象の原理を解明しろと騒ぎ立てる。だが、それよりも先に、王の懇願が始まった。

「勇者様方よ、どうか我らを救っていただきたい! 魔王軍の侵攻により、我がシルヴァーナ王国は今、存亡の危機に瀕しております! どうか、その御力で……!」

ああ、やっぱり魔王軍か。

俺が内心で盛大な溜息をついていると、話はトントン拍子に進み、神官による「スキル授与の儀」なるものが始まった。どうやら、召喚の際に、俺たちにはこの世界で戦うための特殊な力が与えられたらしい。

……力、ねえ。俺に与えられた力って、一体なんだろうな。

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