風穴の記憶


「それ、大変じゃないですか?」


 職員室の洗面台で義眼を洗っていると、同じすみれ組の担任である月宮先生が花瓶を持ってやってきた。


 月宮先生はお花が好きで、園内の花壇などの管理を一人で請け負っている。


「そんなことないですよ。洗浄自体は十分もかからないので」


 手のひらに乗せた義眼に洗浄液を数滴垂らして、指の腹でぐるぐると円を描くように擦り洗いをするだけなので、基本的にはどこでもできる。ただ、埃などの異物が付いたまま装着すると義眼の表面が傷ついたり目やにの原因にもなるのでなるべく屋内が望ましい。


「そうやって洗うんですね。なんだか意外です。こう、食器洗うみたいにするのかとてっきり思っていました」


 私より五歳上の月宮先生は、誰にでも敬語で話す。この幼稚園に就任したとき、最初に話しかけてくれたのは月宮先生だ。月宮先生にはお子さんがおり、昼は旦那さんが面倒を見てくれているのだそうだ。


 珍しいと言われるけど、我が家のルールだからと月宮さんは家でのことをいつも楽しそうに話してくれる。


 私が義眼であることは、就任初日にすべての先生にお話した。とはいっても、面接の時点で伝えてはいたので、ほとんどの人が知っていた。


 最初は興味なさそうにしていた先生たちではあったが、次第に打ち解けてくると、義眼での生活について聞いてくるようになった。それはたぶん、最初は遠慮して聞かないでくれていたのだと思う。


 聞かれて嫌な気持ちがしなかったのは、そういう配慮が伝わってきたからだ。現に先生たちは、右目が失明している私を気遣って、私の机が部屋の端になるように移動してくれた。壁側を右にすることで、視界を左に集中できるという具合である。


 私としてはそこまで視界には困っていないし、そもそも首を動かせば右も見えるのだが、先生たちのご厚意を素直に受け取ることにした、


 義眼を洗い終わると、月宮先生が花瓶の水を捨て、新しい水に替えた。


「けど、不便じゃないですか? ほら、子供たちって目を離したらすぐにいなくなりますから。ああ、えっと、分かってはいるんですが」


 気遣いというのは度が過ぎればお節介となる。ただ、それでもなんとか力になりたいと思うのは、人間特有の傲慢な優しさ故なのだろう。


「私も、小さい頃補聴器を付けてたことがあったんです。今は治ったんですけど、当時は難聴がひどくて。補聴器って高いから、親からは絶対壊さないでって言われてたんです。私も右側につけてたんですけど、ぶつけて壊さないように右を下にして寝ないようにしたり、ドッジボールとかは見学したりして、だいぶ不便な生活を送っていたんです。だから、浅海先生の気持ち、ちょっとは分かるつもりです」


 月宮先生は花瓶に挿した花たちが窓の外の光にうんと背を伸ばしているのを見て、満足気に頷いた。


「困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね。いくらでも力になりますから」


 月宮さんの掲げた正義に私は曖昧に笑って、席に戻った。








「いたっ」


 瑠莉ちゃんと部屋の掃除をしているとき、タンスの上からエアコンのリモコンが落ちてきて頭に当たった。


「館羽!?」


 すぐ近くで掃除機をかけていた瑠莉ちゃんがすっとんでくる。


「ご、ごめん……リモコン、ここにあったんだ……私、置きっぱなしにしちゃってた」

「どうして瑠莉ちゃんが謝るの? 私が避けられなかったのが悪いんだよ」


 瑠莉ちゃんは青ざめたまま首を横に振った。


「だって、右側から……」


 片目が見えないことによる弊害は、視界の広さよりも奥行きにあった。飛んでくるものに対して反応が鈍くなるのは当然といえる。


 ただ、私にとってそれはハンデではなく、そういうものとして存在する初期設定にすぎない。私はそういう世界で生きていて、それに応じた生き方をしているだけで、枷となるようなものは一つもない。


「館羽っ、右目が……!」


 さっきから右目がゴワゴワするなと思っていた。触れると、義眼がズレているのが分かった。おそらく、リモコンがぶつかった拍子にズレてしまったのだろう。


「ああ、大丈夫。すぐ直るから」


 ポーチを持って洗面所へと向かう。スポイトを取り出して、義眼を吸い取って外した。念のため洗浄液を垂らして洗う。


 そうしていると、瑠莉ちゃんが後ろから私を抱きしめた。


 瑠莉ちゃんは無言だった。


 謝らないでと私が口酸っぱく言い続けたおかげで、瑠莉ちゃんは癖のようになっていた謝罪を渋々やめた。だから、ごめん、という言葉は飛んでこない。


 その代わり、瑠莉ちゃんは私を抱きしめる。


「館羽」


 義眼を洗い終わらないうちに名前を呼ばれる。振り返ると、静かに唇を奪われた。


 繋ぐ指と、伝わる熱。


 たとえ右目が息をしていなくとも、私の目の前にはこんな世界が広がっている。だから気にしないで、謝らないで。


 私は義眼であることを不便になんて思ってないし、不幸だとも思っていない。


 それでも瑠莉ちゃんは、私を抱き、音もなく涙を流す。悲しみと、後悔からも愛は生まれる。埋めるように、誤魔化すように、償うように、瑠莉ちゃんは私を壁に追いやった。







 休日、私は家電量販店に来ていた。


 瑠莉ちゃんは友達と予定があるといっていて、前日まで私と友達どっちをとるかで悩んでいたようだったが、私が「私とはいつでも遊べるでしょ?」と言うと瑠莉ちゃんは納得したように頷いた。


 そんなわけで、今日は瑠莉ちゃんのいない休日だ。


 部屋のテレビの調子が悪いようだったので、買い換えも視野に入れて今日は下見に来ていた。家電量販店に立ち並ぶテレビの列。瑠莉ちゃんは歌番組をよく録画するので、その辺の機能も揃っている方がいい。


 こうして買い物をしていると、ふと今の楽しい夢が覚めてしまうんじゃないかと思ってしまうことがある。家電量販店に来てテレビを物色するなど、学生の頃には考えられないことだった。


 夢心地でテレビを観ながら、時々店員さんに聞いてみたりして瑠莉ちゃんに合いそうなテレビを探す。一緒に買うと瑠莉ちゃんは絶対一緒にお金を出そうとするので、できればサプライズにしたい。


 瑠莉ちゃんの笑顔には種類があって、愛想笑いと悲しそうな笑い、それから、本気の笑いがある。愛想笑いのときは「あはは」と言うし、悲しそうに笑うときは「うん」とか「そうだね」と言う。でも、本気で笑っているときは「はははっ!」とか「えー!」「うわー!」と大きな声をあげる。


 私は、瑠莉ちゃんが本当に笑っているところを見たい。お腹を抱えて笑っている瑠莉ちゃんを見ると、どうしてか私まで救われた気持ちになるのだ。


「あれ」


 右目がゴロゴロしはじめて、ベンチに座り込んだ。昨日、部屋の掃除中に外した義眼だが、洗浄が足りなかったのかもしれない。


 常に持ち歩いているポーチに入っているスポイトで義眼を取ると、裏側に埃のようなものが付着していた。


 ゴロゴロとした感じはこれが原因だろう。洗浄液を付けなくても取れそうだが、どうしよう……。


「お前さ、お前っ、ちょっといいか……お前だよ」


 ふと顔をあげると、見知らぬ男性が私のすぐ横に立っていた。


 顔色は悪く、滝のような汗を流している。


 目は血走り、焦点は合っていない。


 その男性は右足首が外側に曲がっていて、痛々しい。あれでは歩くのはおろか、立つのすら苦痛に違いない。パッと見は、ほとんど映画に出てくるゾンビのような立ち姿であった。


「あのさっ、お前、今の日本をどう思う?」


 唇の端からは涎が垂れていた。


 異常な光景に気圧されて、私は言葉を発することができなかった。


「なぁ、聞いてんだよ。おかしいよな、なぁ!?」


 荒い息が、小刻みに吐き出される。


 そんなことを聞かれても、私は自分が生きるので精一杯だったからこの国のことなんて考えたことはない。


「俺みたいなさぁっ、やつがッ、歩けないのに、働かされて。税金う゛ぁ、ばっかり、とりやがってさ」


 すぐにでも逃げ出したいのに、足が竦んで動けない。


「お、親の介護だって、どうすんだよ、生活費だってなぁ。無駄なっ、無駄な税金でっ」


 よく見ると男性は、左肩にぶら下げたトートバッグの中にずっと右手を入れていた。何かを握りしめるかのように、プルプルと震えている。


「こんなところにいるお前も、お前もそうなんだろ? 金ばっかり、もらってッ、健常者のくせにっ、俺たちから金を巻き上げっ、巻き上げてさあ! その金で、テレビでも、でもっ、買いにきたんだろ」


 男性の震える声は、今にも叫び出しそうなのを我慢しているかのようだった。


 私と会ってから、男性は一度も瞬きをしていない。


「なぁ、おかしいのは、どっちだよっ、俺か、この国か、なぁ、答えろよなぁ、おい」


 正解は、頷くことか、それとも否定することか。


 間違えたら終わる。直感で分かった。


 その形相も、荒い息も、痙攣したように震える四肢も、私は見たことがあるし、求めたことがある。一度だけ、高校生の頃、駅で出会った。しかし、そのときは瑠莉ちゃんが助けてくれた。


 だが、今は違う。瑠莉ちゃんは今、友達と遊んでいる。ここには私だけ。


 そして、もうあのときみたいに、それは欲していない。きっとトートバッグの中に隠されたそれがもたらす痛撃による傷口は、ただ血液を吐き出すための排水溝にしかなり得ない。


 ――殺される。


 未来が潰える不安と、築き上げてきたものが崩れる予感。その総称を恐怖と呼ぶのだと理解したのと同時、男性が私に一歩詰め寄る。


 声を出そうにも、声が出なかった。


 助けて、瑠莉ちゃん……。


「ああ?」


 男性の大きく見開かれた眼球が、ふと私の右目を見た。


「あんた、それ、なんだ?」


 そこで私はようやく、喉が開いたのを感じた。


「わ、私……右目が、失明、してて……義眼、なんです。これ……」


 手のひらを広げて義眼を見せると、男性は「アアッ!」と大きな声をあげて髪を毟りはじめた。ボロボロとフケが床に落ちていく。強烈な異臭が鼻を突いた。


「なんだ、なんだっ、そうか、お前は仲間か。なんだっ、じゃあお前っ、いいよッ」


地団駄を踏む男性の姿は、五十代ほどと思われるその容姿からは想像もできないほど幼稚で、不気味ですらあった。


「そっかそっかそそ、そっかそっかそっかっ、ああお前もういいや、お前、そうか、すみません。申し訳ございません。おまえっ、あなた、はッ、いい、いいんです。ごゆっくり」


 男性は夥しいほどの汗と涎をクタクタのシャツで拭いて、足を引きずって店の奥を目指した。


 なにやらブツブツと呟きながら、通りすぎる人を選別するかのように見て回っている。


 左肩にぶら下げたトートバッグに、右手を入れたまま。


 私はすぐにスマホで『110』を打ち込んだ。


「はい。そうです。おそらく、刃物を……」


 電話をしている間も、男性は通り過ぎる人を物色するように睨んでいた。


 十分ほどすると、すぐに警察がやってきた。エスカレーターのそばで待っていた私は警察に男性の居場所を教える。


 警察は全部で五人いた。


 家電コーナーのあたりをうろついている男性に警察が声をかけると、男性は悲鳴をあげ走り去ろうとしたが、すぐに警察に取り押さえられた。


 トートバッグからは刃渡り十㎝ほどの果物ナイフがこぼれ落ち、それを見た客が悲鳴をあげる。男性は抵抗しようとしたが、五人から取り押さえられ身動きすらとれない状態になっていた。


 結局、男性はその場で取り押さえられ、警察に連行されていった。


 それを見届けてから、私は家電量販店を出た。


 家に帰る頃には夕方になっていた。


 洗面所で手を洗っていると、先に帰っていたらしい瑠莉ちゃんが「おかえりー」と顔を出す。


 リビングに向かうと、私は驚いた。家具の位置が全部変わっていたのだ。


「模様替えしてみた。背の高い家具は全部撤去したから」


 付け加えられたその一言で、なぜ瑠莉ちゃんが模様替えなんてしたのかが分かってしまう。


 落下してくるものを避けづらい私のために、部屋から危険因子を取り除いてくれたのだ。


「館羽は今日どこ行ってたの?」

「えっと、お買い物」

「そうなんだ。あ、そういえばさっきパトカーが三台くらい走っていったけど、何かあったのかな……」

「ねえ、瑠莉ちゃん」

「ん? なあに、館羽」


 その優しい笑みに言いたかった。


 もう、気にしないで欲しい。


 私は義眼であることを不便だと思ったことはないし、これを不幸だとは思っていない。だから、私の右目を奪ったことで瑠莉ちゃんは負い目を感じる必要なんてないし罪の意識なんて持たなくていい。


 むしろ、感謝してる。



 瑠莉ちゃんが開けてくれたこの風穴は、何度も私を救ってくれた。


 ううん、私だけじゃない。この風穴を通じて、いろんな人が救われてる。


 今日だってそう。もしかしたら、たくさんの命が奪われていたかもしれない。酷たらしい結末がそこに転がっていたかもしれない。


 だけど、瑠莉ちゃんのおかげで、未来は変化した。


「ううん、なんでもない」


 それを伝えるのは、きっと難しい。


 どう伝えたところで、瑠莉ちゃんは自分を責めるだろう。


 でも、もしかしたらそれでいいのかもしれない。私たちは、罪と後悔で塗り固められている。払拭されることのない黒く滲んだシミを恥と過ちとして一生背負っていく。後ろ向きで後ろ暗い、前を見ることしない私たちは、いつも隣ばかり見ている。


 道筋は血なまぐさい、夥しいものだった。


 だが、道先は目映く、華やかな場所だった。


 それが意味するのは、私たちのこれまでとこれからの関係なのだと思う。


「変な館羽」


 くすっと笑う瑠莉ちゃんの顔を見られたら、それだけで充分だった。


 晩ご飯は外食することにした。瑠莉ちゃんは外食が好きらしく、いつもテンションが高くなる。


「まぐろと、サーモンとー、あとはエビも食べるんだ! あ、でも今日の昼もエビだったんだよね……たまには貝にもチャレンジしてみようかな……うーん」


 お寿司屋さんに行くことが決まると、瑠莉ちゃんは出発する前からメニューに悩み始めた。


 外に出ると、夕方だというのに昼間と変わらぬ快晴が広がっていた。


 瑠莉ちゃんがマンションの階段を降りていく。


 私も、あとは重力に任せるだけだった。


「館羽、ほら」


 目の前に差し伸べられた手のひらを握ると、瑠莉ちゃんが微笑む。


 まるで時間が、スローモーションになったかのように感じた。


 シャーペンの先端が雨粒のように降ってきて、私の眼球に触れた。


 あの時だろう。


 私の人生に風穴が開いたのは。


 あれから十五年経った。


 死んだ私の右目は、あの時と同じ人を今も追いかけている。

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