ベーシスト兼詩人ケンの憂鬱
御園しれどし
第1話 逃避と爆音のテンプテーション
1.青春という名の強制労働
青春とは、終わりのない強制労働だ。
誰が言ったか知らないが、
もし誰も言っていないなら僕が今、特許を申請したい。
朝、眠い目をこすって学校へ行く(出勤)。
教師という名の現場監督に監視されながら、授業という単純作業をこなす。
放課後になれば、部活動という名のサービス残業が待っている。
報酬はゼロ。
あるのは「思い出」という、換金不可能な抽象的概念だけだ。
僕の名前は健(けん)。
健康の健と書いてケンと読むが、精神衛生状態は常に不健康だ。
僕が所属しているのは軽音楽部。
だが、僕が本当にやりたいのは音楽ではない。「帰宅」だ。
放課後の部室棟。
カビと埃と青春の汗が混じったような独特の臭いがする廊下を、僕は誰の目にも留まらないよう、壁と同化しながら歩いていた。
僕の武器はエレキベースではない。このノートだ。
ここには、僕の日々の鬱屈、社会への呪詛、そして切実な逃避願望が、詩(ポエム)という形式で密閉されている。
誰かに見られたら、僕はその場で舌を噛んで死ぬ準備ができている。
ガチャリ。 重い防音ドアを開ける。
そこには、いつものように「彼」がいた。
窓際で膝を抱え、まるで捨てられた黒猫のような目で虚空を見つめる美少年。 ギタリストの高志(たかし)。通称タカシ。
彼はアンプにも繋がないエレキギターを抱きしめ、指板の上で蜘蛛のように指を這わせていた。
「……あ、高志。いたのか」
僕は極力、空気のように挨拶をした。
タカシは僕の方を見なかった。
ただ、ギターのヘッドを一ミリ動かしただけだ。
彼とは一年の春から同じクラスだが、僕は彼の肉声を聞いたことがない。
噂では、彼の声帯はギターのピックアップと直結しているらしい。
僕はタカシから最も遠い、部室の隅っこにあるパイプ椅子に腰を下ろした。
ここが僕のサンクチュアリだ。
僕はベースケースを開けるふりをして、ノートを開いた。
今日湧き上がったばかりの、新鮮な絶望を書き留めるために。
temptation 俺はいいカモ
temptation 逃げ出してきた
temptation 今夜は一緒に
temptation 枕を抱いて眠ろう
what wrong I'll make it anthing what I want.
完璧だ。 「temptation(誘惑)」という危険な響きの単語を使いながら、
その実態は「布団に入って寝たい」という幼児退行的な願望。
これこそが、僕の魂の叫びだ。
「……衝動」
不意に、耳元で声がした。
「うわあっ!?」
僕は悲鳴を上げ、パイプ椅子ごと転倒した。
いつの間にか、タカシが僕の背後に立っていたのだ。
幽霊か、このギタリストは。
タカシは無表情のまま、僕のノートを覗き込んでいた。
「み、見るな! これは僕の魂の排泄物だ!」
隠そうとする僕の手を、タカシの細長い指が制した。
彼はノートの文字――僕の恥ずかしい英語の綴り間違いも含めて――を指でなぞり、ギターのネックを握った。
カチッ。
彼が足元のエフェクターを踏む音が、処刑台のスイッチのように響いた。
ジャァァァァァァァン!!
轟音が部室のガラスを震わせた。
タカシが弾き始めたのは、僕のポエムのような湿っぽい伴奏ではなかった。
地獄の底から這い上がるような、重く、激しく、それでいて抗いがたいほどキャッチーなリフ。
往年のハードロックバンドが憑依したかのような旋律だ。
タカシが僕を見る。
「……音(ベースだ)」
言葉ではなく、ギターのノイズで彼はそう言った。
「む、無理だ! こんな攻撃的な曲、僕の『枕を抱いて眠ろう』という世界観とは真逆だ!」
「……強(もっと強く)」
タカシは聞く耳を持たない。
僕は泣く泣くベースを構えた。
逃げ出したいのに、逃げ出せない。
これが僕の青春だ。
2.珍客たちの乱入
僕がタカシの暴力的なリフに合わせて、必死にルート音を刻んでいる時だった。 ドアがキザに開かれた
。
「よう。音が漏れてるぜ。……リズム、貸そうか?」
現れたのは、松岡和也(かずや)。通称カズ。
安物の整髪料で髪を固め、制服の着こなしも計算された「ちょいワル」風。
だが、ポケットからはみ出しているのが『お笑い養成所・体験入学』のパンフレットであることに、僕は気づいていた。
彼は軽音楽部員ではない。ただの「目立ちたがり屋の野次馬」だ。
「カズ、お前ドラム叩けるのか?」
「フッ……音楽理論(ロジック)さえ分かれば、叩くことなど造作もない」
カズは我が物顔でドラムセットに座った。
そして叩き出したのは、驚くほど単調で、面白みのないエイトビートだった。
ドン、タン、ドン、タン。 メトロノームの方がまだ愛嬌がある。
(こいつ、絶対初心者だ……)
僕がそう思った瞬間、本日二度目のドア開放が行われた。
いや、開放ではない。破壊だ。
「たのもうーー!!」
台風のような突風と共に、小柄な人影が転がり込んできた。
一年生の大木悠二(ゆうじ)。
手には、なぜか剣道で使う竹刀(しない)が握られている。
しかも、先端がささくれている。
「け、剣道部への道場破り……あれ? ここ軽音部ですか?」
ユウジはきょとんとした顔で言った。瞳が子犬のように純粋だ。
バカな子犬だ。
「間違ってるぞ一年坊主! ここは神聖なる鬱屈の場所だ! 出ていけ!」
僕が叫ぶと、ユウジは目を輝かせた。
「うわあ、すごい音! 僕も混ぜてください!」
「話を聞け!」
ユウジは竹刀を構え、一直線にカズのいるドラムセットへ突進した。
「カズ先輩、そこどいてください! 右手が疼くんです!」
「は? おい待て、今は俺がリズムを支配して……うわあ!」
ユウジはカズの膝の上に乗り上げるようにして、竹刀を振り下ろした。
狙いはスネアでもタムでもない。
シンバルのスタンド(金属部分)だ。
ガシャァァァァァァァン!!!!!
それは楽器の音ではなかった。
工事現場で鉄骨が崩落したような、耳をつんざく破壊音。
カズが「耳がぁぁ!」と叫び、僕がのけぞる
。
だが、タカシだけは違った。
彼はその「ガシャン!」というノイズを聞いた瞬間、ニヤリと笑ったのだ。
その笑顔は、天使のようでもあり、悪魔のようでもあった。
「……良(採用)」
タカシのギターが、さらに歪(ひず)みを増す。
ユウジの無秩序な破壊音と、カズの単調すぎるビート、
そしてタカシの天才的なリフが、奇跡的なバランスで噛み合った。
僕は戦慄した。
これは音楽じゃない。
交通事故だ。
だが、どうしようもなく……カッコいい交通事故だ。
3.無自覚な天使と、鋭利な悪魔
その轟音を聞きつけ、廊下に二人の女子生徒が立ち止まった。
一人は、学園のアイドル的存在、七海(ななみ)。通称ナナ。
もう一人は、いつも不機嫌そうな元ヤン風美少女、寧々(ねね)。
「すごーい! 何これ! 爆音だね!」
ナナが手を叩いて喜んだ。
彼女の脳内フィルターを通すと、
この騒音も「素敵なアンサンブル」に変換されるらしい。
「……うるさいだけじゃん。バカみたい」
ネネは冷たく吐き捨てた。
だが、僕は見逃さなかった。彼女の指先が、タカシのリフに合わせて微かに動いているのを。そして、彼女の視線が、僕のノートに書かれた『I want...』という走り書きに、一瞬だけ留まったのを。
「ねえねえ! バンド名、私が決めてあげる!」
ナナが勝手に部室に入ってきて、黒板にピンクのチョークで書き殴った。
『爆音団』
「だっさ!!」
僕とカズの声がハモった。
昭和の暴走族か。あるいは、戦隊モノの悪役か。
「え~? 可愛いじゃん! ね、タカシくん?」
ナナに問われ、タカシはギターをジャーンと鳴らした。
「……団(それでいい)」
決定してしまった。
僕の逃避願望から始まったこの曲は『Temptation』と名付けられ、
僕たちは『爆音団』となった。
僕はため息をつき、ノートの新しいページを開いた。
そこには、未来の僕への遺言を書いておくことにした。
『拝啓、未来の僕へ。
残業は、ここからが本番らしい。
枕を抱いて眠れる日は、当分来そうにない』
ユウジがまた、竹刀を振り上げた。
ガシャン、という破壊音が、僕たちの青春の幕開けを告げていた。
第1話(全10話 )完
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