第10話 夜を運ぶタクシー

深夜。

街の灯りがひとつ、またひとつ消えていく頃。


吾郎は、

古びたタクシーのハンドルを握っていた。

ラジオからは、微かにジャズが流れている。

音を出さない車内の沈黙を、

それだけが優しく埋めていた。


フロントガラスに映る街は、

雨上がりのせいか、どこか滲んで見えた。

信号が青に変わっても、

吾郎はすぐにはアクセルを踏まない。


——焦らなくても、

夜は、まだ少しだけ続く。



助手席の端に、小さな封筒があった。

昨日、乗客が忘れていったものだ。


無記名のそれを開く勇気は、

まだ吾郎にはなかった。

開けた瞬間に、

“知らなくてもいい何か”を知ってしまいそうで。


ただ、その封筒の端に、

かすかに青い絵具の跡がついている。


「……絵を描く人、かな」


呟いた声は、

夜のエンジン音にすぐに飲み込まれた。



そのとき、無線が鳴った。


『五丁目交差点、女性のお客様一名、ピックアップをお願いします』


短い応答のあと、車を走らせる。


指定の場所に着くと、

ベンチに一人の女性が座っていた。


傘もささずに、

スケッチブックを抱えたまま、

空を見上げている。


ドアを開けると、

彼女はゆっくり顔を上げた。


「……あの、〈ノクターン〉までお願いします」


吾郎は、

どこかで聞いたことのあるその店名に

ほんのわずか眉を動かした。



走り出したタクシーの窓の外を、

街の光が流れていく。


女性は何も言わず、

ただスケッチブックを抱いたまま、

窓の外を見ていた。


その横顔が、

ふと亡き妻の面影に重なる。


かつて彼も、

妻の描く絵の横で、

この街の青を何度も見た。


——あの夜も、こんな雨上がりだった。


信号が青に変わる。

ブレーキを離す足が、わずかに震えた。



〈ノクターン〉の前で車を止める。


「ありがとうございました」


女性は短く頭を下げ、

スケッチブックを胸に抱いたまま降りていった。


その瞬間、

助手席に残された小さな封筒が目に入る。


手に取ると、

裏に走り書きの文字が見えた。


信号は、いつか青になる。


吾郎は、

微かに笑った。


「……そうか」


ギアを入れ直し、

夜の街へ再び車を走らせる。


ヘッドライトの先で、

青が滲む。

まだ誰にも届かない光。

けれど確かに、

夜の終わりを照らしていた。



(第11話「青の肖像」へつづく)

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