第2話
白い病室は、妹の世界のすべてだった。
そこには何もなかった。無機質な壁と天井、点滅する蛍光灯の光だけが時をゆっくりと削り取っていく。外界のざわめきは届かず、窓の外の風さえも、どこか絵の中の出来事のように感じられた。
世界から切り離された小さな箱庭。その静寂の中に、妹は閉じ込められていた。
病弱な妹は、この部屋から一歩も出られない。ただ、ベッドに腰を下ろし、窓の外に切り取られた空を見上げるだけの日々。だからハルカは、古びた納屋の奥からアコースティックギターを引っ張り出した。
弦は錆びつき調律も滅茶苦茶で、最初はまるで壊れた玩具のような音しか出なかった。幸い、妹の主治医が、昔その手のものを触っていたらしく、手を貸してくれた事で、音は少しずつ形を取り戻した。指先はひりつき、爪は割れ、皮がめくれた。けれど痛みは苦ではなかった。音が鳴るたびに、妹の笑い声が響くからだ。
下手くそな演奏だった。それでも妹は、心から嬉しそうに笑った。音楽のある日々は、白一色だった妹の世界を少しずつカラフルにしていった。
ロックでも、ブルースでも、クラシックでも、ジャズでも、ポップスでもジャンルは問わない。ハルカは見よう見まねでいろんな曲を歌い、妹と笑い合った。音が、希望のように部屋に満ちていった。
学校の休み時間には歌詞を考え、屋上でメロディーを探した。
テストよりも、未来よりも、今この瞬間を響かせることが大切だった。
それは祈りのような行為だった。
生きていてほしい。それだけを願って。
消毒液の匂いに、微かに海の匂いが混じる。病室の静寂の奥で、耳の底に潮騒が広がる。波のリズムに乗せて、ハルカの歌が零れた。まん丸な瞳を細めて笑う妹の顔が浮かぶ。
季節はいくつも巡り、梅が綻び春の気配が漂いはじめた頃。
その日も、ハルカはバラードを弾きながら歌っていた。
「お姉ちゃんは歌手になれるよ」
満天の空に浮かぶ星のようにきらきらした瞳で、妹はそう言った。調子が少しずれた妹のために作った曲を口ずさみながら。
その声は、時間の中で淡く揺れ、今も脳の奥で響いている。途切れた音の余韻が、記憶と現実の境界をぼやかし、遠ざかりそうな消えそうな声を必死に引き戻そうとしていた。
焦燥感だけが心を支配していて、ただただ、声を上げている。ギターにしがみつく様に弦を弾いて、都会の片隅で一人きりで、孤独に歌を口ずさむ。聴衆はおらず、ケースも空っぽのままだ。
街灯の光だけがスポットライトのようにハルカを照らす。それが歓迎しているようで、却って虚しい気持ちにさせた。
「……また来たんですか」
だが、少しだけ変わった事があった。
立花と名乗ったその男は、ハルカの日常の片隅に潜り込んでいる。初めはただの通りすがりの観客だったはずなのに、いつの間にか、心の奥に冷たい影を落とす存在になっていた。
「いや、なに。少し寝付けなくてね。気を悪くさせたなら申し訳ない」
口ではそうは言いつつも、少しも悪びれていない立花の言動にハルカは溜息を漏らす。
最初は雑踏に溶け込む風景のひとつだろうと思った。いつものようにすぐに忘れ去られる、と。
だが翌日も、その次の日も、立花は必ず同じ場所に立っていた。
相変わらずよれよれのスーツの上に黒いコートを羽織り、片手はポケットに深く突っ込まれ、もう片方はレコーダーを握りしめている。瞳は遠くを見ているようで、しかし確かにハルカの存在を映していた。視線は冷たく澄んで、夜の湿気に微かに揺れる。
正直に言えば、不気味だった。
あんなことを言っていたが、実は自分のファンなのではないか、と簡単に考えられるほどハルカは単純ではない。田舎育ちの彼女は、都会の人間にからかわれているのではないかと無意識に警戒していた。
「だから、若い子を引っかけようって魂胆ですか?」
風が頬を撫でるたび、心の奥で小さなざわめきが広がる。緊張感が静かに波打ち、歌い終えた躰にまだ残る余韻と絡み合った。吐いた息は白く、夜気に溶けて霧のように消えていく。車のエンジン音も、酔客のざわめきも、湿った空気に吸い取られ、世界は音を失ったかのようだった。音は空を切るだけで、手に触れることもできず、宙に漂う影のように消えかかっている。
「言っときますけど、田舎出身だからって騙せるなんて思わないで下さいね」
「誤解だ。そういう意図はおじさんにはないよ」
では、どういう意図があるというのか。聞き返そうとして止めた。立花は既に答えを出している。拍手も賞賛も求めず、静かに、ただ暇つぶしに歌を聴いているのだ。だが、その沈黙の奥行きが誰よりも誠実で、ハルカの心の奥まで届くただ一人の聴衆のように感じられた。
夜空は厚い雲に覆われ、月の光は届かない。ネオンの光が湿った空気に淡く滲み、雪の気配が静かに舞っている。吐息の白は冷たい闇に吸い込まれ、世界は一瞬、音も色も失ったかのように静まり返った。
「―――まあ、いいです。わたしのやることは変わりませんから」
「だろうな。それでいいんじゃないか」
両手を顔の前で左右に振る立花に、ハルカは僅かに肩を竦めると彼は抑揚に頷いて見せる。そのまま視線を遠くのネオンに泳がせた。一際高いビルの窓が淡く煌めいている。
弦を緩め、息を整える。視線を落としたまま、ハルカは小さくぽつりと呟いた。
「……少し聞いても良いですか」
立花の瞳が一瞬細まり、眉が僅かに動く。肩の力を抜き、ポケットに突っ込んだ手を軽く動かす。その微かな動きだけで、夜の空気にひそやかな波紋が広がるように感じられた。
「何だ」
心の奥で、警戒と好奇心が微かに交錯するのをハルカは感じた。勇気を振り絞り、指先をレコーダーに向ける。
「そのレコーダー、まさか盗聴ですか」
その瞬間、立花は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。夜風に揺れるコートの襟が、影をゆらゆらと踊らせる。光と闇の境目で、彼の存在感だけが妙に濃密に膨らんで見えた。
「………それこそ、まさかだ」
憮然とした声の端に、微かな温度が混じる。何となくだが、彼は嘘を付いているようにハルカには思えた。
「仕事柄、音を拾うようにしてるんだ。気に障ったなら、止めるが」
それでも咎める事もなくハルカは首を小さく振る。悪趣味ではあると思うが、こんな公道で自分は歌っているのだ。今さら気にすることもない、と自分に言い聞かせる。
立花はレコーダーをポケットに戻し、視線を遠くの街灯に泳がせる。静かに息を吐くたび、白い吐息は夜気に溶け、二人の間に僅かな間が生まれた。遠くの車のエンジン音や人々の話し声が、湿った空気に吸い取られ、微かなノイズとして届く。
どうにも落ち着かない間だ。人の往来は激しいのに、ぽっかりと穴が空いているように酷く寒い。ハルカはその考えを振り払うように、躊躇いがちに口を開いた。
「えっと、音楽関係者って言ってましたよね。そういう人は、みんなそうなんですか?」
「いいや、俺が少し特殊なだけだ」
立花は肩の力を抜き、コートの襟を軽く整えた。
冷たく湿った夜気の中、静かに話しを続ける。
「毎日、色々な音に溢れているのに、人間は不思議なもので、興味のあるものにしか意識を割かないんだ。確かにそこにあるのに、消えているように思う。拾われる音と、拾われない音が確実に存在している」
言葉のひとつひとつが空気に溶け、ハルカの心に静かに触れた。
もしそれが正しいなら、彼女の歌は後者だろう。声は出しても誰の耳にも届かず、記憶にも残らない。
「けどな」
立花はポケットに手を突っ込んだまま、淡々と続ける。
「消えるってのは、存在しなかったってことじゃない。ただ、思い出せなくなるだけだ。音も、声も、空気に溶けて形をなくすが、届く人がいなければ、すぐに掻き消える」
「……記憶に、ですか?」
縋るような声がハルカの喉から零れた。しかし、立花は気づかぬ振りで、静かに言葉を重ねる。
「ああ。音から記憶を引っ張ることもあるだろう? あるいは逆も然り。どんな声も確かにどこかに残っている。けど、思い出すにはもう一度触れなければならない。届かなければ、消えたも同然だ」
ハルカはギターを抱え直し、冷えた指先を擦る。
自分の歌が誰にも届かず、夜気に溶けて消えてしまうかもしれない。そんな想像が、心の奥でひそやかな波を立てる。
夜風が頬を撫で、通り過ぎる音もなく、街のざわめきだけが遠くに薄く漂った。
「立花さんの言葉が、もし正しいとして……。きっと、姿は覚えていられるけど、声は掴めないんですね」
立花は一瞬視線を落とし、ギターケースに目をやる。何もなかった。空っぽだった。
「ああ……、声は先に消える」
その言葉には、雪のように静かな重みがあった。
溶けるように頭の奥に染み込み、音もなく沈んでいく。
「でも、消えたわけじゃない。記憶には残る。ただ、聞かなければ、思い出せない」
短い沈黙の後、立花は虚空へと視線を彷徨わせポケットから煙草を取り出す。火をつけると小さな音と橙の光が、彼の頬を柔らかく照らす。
白い息と煙が、夜の闇にゆっくり溶けていった。
ハルカはその光景を無言で見つめ、心の奥で静かに波打つ感覚を押さえ込んだ。
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