ゴーストシンガー

神山

ゴーストシンガー

第1話



 脳の奥底で、記憶の扉がゆっくりと開く音を聞いた。

 心臓が爆発しそうなほど鼓動を上げている。次の瞬間、白い病室にいた。苦しげに息をつく妹の姿が視界に飛び込んでくる。

 狭い空間。断続的な機械音。消えない消毒液の匂い。赤い光。サイレン。誰かの叫び。母は妹に寄り添い、ただただ泣きじゃくっている。


 世界が黒に染まる。目に痛いほどの赤がこびりつき、離れない。

 漆黒に彩られた空間で、ハルカは息を吹き返した。

 

 冬の夜の街角は、震えるほどに凍てついている。

 冷えたアスファルト。ビルの隙間を抜ける風が乾いた音を立てる。それでも、田舎に比べればずっと暖かかった。

 ネオンライトが目に突き刺さり、寝ぼけた頭が徐々に覚醒していく。都会は不思議だ。誰も眠らず、人の流れは決して途切れない。見えない熱を生み出し、光が濡れた舗道に滲んでいた。


 軽い頭痛を覚えながら、あの人たちはどういった関係だろうか、何て益体のない考えが浮かんでは消える。友人だろうか。恋人だろうか。それとも赤の他人同士なのか。

 個が意思を持って、群衆になってうねりを生む。波は生き物のように引いては寄せる。だから、誰も足を止めない。誰も聞いてくれない。そうでも思わないと、やっていることがバカみたいに思えてくる。


 ハルカは膝の上のアコースティックギターを抱え直し息を吐き出した。

 手袋を外すと、指先に冷気が食い込むように刺さる。木目の滑らかなボディに頬を寄せると、乾いた木の匂いが微かに鼻をくすぐる。亡くなった父親が使っていた長く使い込まれた相棒だ。塗装はところどころ剥げ、弦の隙間を夜風が撫でていく。


 不意に空を見上げる。

 都会の空は恐ろしく狭く星が見えない。月の明かりさえも届いていない気がした。


 田舎では、街灯もなく人も疎らだった。暗闇の中で頼れるのは、広く遠い月の光と星の瞬きだけ。白い砂浜に、底なしに吸い込まれそうな深い青い海。どこまでも広がる地平線。そこに妹の笑い声と調子外れの歌が、今も響いている気がする。


 あれから、三年の月日が流れた。高校を卒業した春、病床の妹に背中を押されて上京した。もう三年というべきか、まだ三年というべきか。答えは出ない。ただ、夢を掴むはずだった街で、夢の輪郭すら見えなくなっているのだけは確かだった。


 頭を振り、深く息を吸い込む。

 指先で一弦を撫でるように弾いた。瞬間、空気が震えた。低く柔らかな音が、凍えた夜気に滲んでいく。弦が震えるたび、木の胴が共鳴し、その響きが心の奥まで届く。まるで、心臓の鼓動のようだった。


 バラードの旋律が、ゆっくりと始まる。

 左手の指先は硬く、痛みを覚えるたび現実が戻ってくる。けれど、その痛みは、まだ自分が歌える証のようにも思えた。

 右手のピックが弦を叩くたび、街のざわめきが一瞬だけ遠のく。行き交う人影がぼやけ、ビルの光が滲んでいく。


 歌声が出た瞬間、世界が静まった。

 細く、少しかすれた声。けれどその奥に、確かに熱があった。息の端が夜を溶かし、言葉の欠片が風に乗って散っていく。誰も聞いてはいない。ビルの谷間にこだまする声を、誰も耳に留めようとしなかった。


 ケースの中は空っぽだ。

 いつも以上に稼ぎもない。ハルカは小さく息を吐き、夜空を見上げた。


 月は雲に隠れ、街灯の白い光だけが、彼女の影を細く地面に落としている。

 今日はもう帰ろう。そう思い、ギターを仕舞おうとケースへと手を伸ばした。その時だった。


「……下手くそな歌だな」


 声が頬を掠めるように届いた。低く冷たい無機質な響きが、ギターの余韻の隙間に溶け込む。ハルカの手が止まり、指先の震えが足先まで伝わった。


 視線を上げると、歩道の端にひとりの男が立っていた。

 黒いコートを羽織った、背の高い男だ。スーツの生地には細かな皺が寄り、革靴のつま先はすり減っている。街の喧騒の中に立っていながら、どこか現実から切り離されているように静かに見えた。乱れた髪は無造作だが、だらしなさは感じられない。けれど、その身には生気というものがまるで宿っていない。街灯の明かりが彼を照らしても、影だけが濃く沈み、輪郭がぼやける。まるで実体のない幽霊のように、存在そのものが宙に浮いているようだった。


「……え?」


 自分でも驚くほど、か細い声が漏れた。喉の奥で引っかかるように震え、唇の隙間をかすめて消える。

 男は微動だにせず、ただ冷たい視線だけをハルカに向けていた。その眼差しに触れた瞬間、氷の刃でなぞられたような寒気が彼女の背を這い上がる。

 やがて男は、躊躇いもなく距離を詰めてきた。無遠慮な足取りのまま、ハルカの腕に抱えられたギターに一瞥をくれると、顎に手を添え何かを測るように僅かに首を傾げた。


「響きは悪くない。声も綺麗だ。歌詞も、伝えたいことも伝わってくる。その歳にしては、よくできている方だろう」

「あ、ありがとうございます……?」


 思考が追いつかず、反射のように口からお礼の言葉がこぼれた。自分でもその間の抜けた反応が滑稽に思えて、頬に熱が灯る。

 そんなハルカの様子を見て、男はふと苦笑を浮かべ、ゆっくりと肩を竦めた。


「だが、下手くそだ」


 一言が冷たい風のように頬を撫でる。下手くそ。言葉を反芻するうちに、自然と視線がケースの中に落ちた。何も入っていない。空虚で孤独で、ひとりぼっち。まるで自分自身の姿を映す鏡のようだ。

 都会の片隅で、誰にも気づかれず、ただ歌うだけの自分。観衆も街も、それを無価値だと判断していることが息が詰まるほど伝わった。


 心がざわつく

 何者にもなれない自分が、責め立てるようにハルカを見下ろしている。怖い。でも、黙っている方がもっと怖かった。


「そう思うなら、黙ってればいいじゃないですか!」


 反射的に立ち上がり、叫んだ。唇が僅かに歪む。八つ当たりだと分かっていた。見っとも無いとも思う。冷静な自分とそうでない自分が同時に存在している。それでも声は荒くなり、止めようとしても止まらなかった。


「何なんですか、あなた! いきなり下手くそだなんて、何様のつもりですか!」


 いきり立つハルカを前に、男は姿勢を崩し、またもや肩を竦めた。その仕草には焦りの欠片もなく、むしろどこか楽しげな余裕が漂っている。

 その態度が、ハルカの苛立ちに油を注いだ。更に言葉をぶつけようと口を開いた瞬間、男は片手を静かに上げ手のひらでそれを制した。


「まあ、待て待てお嬢ちゃん。そういきり立たないでくれ。おじさんは、若い子に怒鳴られるだけで震えちまう生き物なんだ」


 覇気の抜けた、軽いからかいを含んだ声だった。

 ハルカの頬がみるみる赤く染まるが、男は気にも留めず口元にうっすらと笑みを浮かべたまま言葉を続ける。


「おっと……、すまないな。はっきり言ってしまって悪かった。これでも一応、音楽関係の仕事をしていてね。感想ははっきり伝えるようにしてるんだ」

「音楽、関係……まさか!?」


 街灯が一瞬明滅する。影が歪み、足元へと伸びてくる。期待に躰が震えるが、男は首を横に振り、冷や水を浴びせるように彼女の気持ちを遮った。


「いや、悪いな。残念ながらスカウトマンじゃない。俺はゴーストシンガーだから」

「……は? ゴースト、シンガー?」


 飴玉を転がすように男の言葉を反芻する。ゴーストシンガー。耳慣れない言葉に、ハルカは首を傾げる。ふざけているのか、本気なのか。幼気な少女の純心をからかわれただけか、と半ば諦めに似た境地で男を睨む。だが、その視線を受けた男の目は、先ほどまでの軽薄さを消し、静かな光を宿していた。

 思わず後ずさりしそうなハルカの心を掴むように、男は無機質な声で囁く。


「余り大っぴらに言う仕事じゃないんだが。ゴーストライターって知ってるか? 依頼者の代わりに代筆する名前を持たない影の作家のことだ。その歌手バージョンだと思えば分かりやすいかもしれん」


 言葉は丁寧だったが、理解は追いつかない。

 ぽかんとするハルカを前に、男は苦笑を浮かべ、まるでこういう反応には慣れきっているとでも言うように、溜息を漏らした。


「普通は知らないだろうな。知らない方が良いくらいだ。

 簡単に言えば歌えなくなった人の代わりに歌う、裏方の仕事だ。名前の通り、表には出てこない影の歌い手さ」


 ハルカは冗談だと思って笑おうとする。だが、男の声には一片の冗談もなかった。


 街のざわめきが、遠くへ押しやられるように静まる。世界の音がひとつずつ消えていくように、静寂が降りてきた。無意識にギターを抱き直す手が固まる。


「……その“影”の歌い手が、なんで私の歌を?」

「さあな」


 男はポケットから煙草を取り出すと、口に咥え無遠慮に火を付けた。通行人が微かに眉を顰めているが、構わずに男は白い息を吐き出す。煙はそのまま凍てついた都会へと漂い、夜空へと溶けていく。ハルカはぼんやりとそれを見つめながら、耳に残る男の声を意識した。


「多分……、偶然だ。仕事の休憩時間に、歩いていたら下手くそな音楽が聞こえてきた。だから、足を止めた。それだけだ」


 そのまま徐に胸ポケットから古びたICレコーダーを取り出し、見つめる。咥えていた煙草をアスファルトに落とし、足で踏みつける。赤い光の軌跡が夜の街に消え、懐かしい甘い香りがハルカの鼻をくすぐった。


「ほら、つまらない映画なんかによくありそうな話だろう。俺はそう思うようにしている。じゃないとこんな事、やってられない」


 どんな風に年を重ねればこんな声が出るんだろうか。低く柔らかく、無理なく空気を震わせる声。横顔に漂う孤独が、ふと、母の面影を重ねさせる。煙草の香りが、記憶の奥底で眠っていたそれと重なる。甘く、少し焦げた匂い。懐かしさと切なさで心が軋んだ。


 女手一つで娘二人を育て上げた母。

 家を飛び出すハルカを決して責めず、ただ背中を押してくれた母。

 ベッドに凭れ掛かり、泣きじゃくる母の後ろ姿。

 ハルカがいた場所。ハルカの故郷。


 脳の奥で着信音が蘇る。機械的に途切れるノイズの後に、普段気丈な母が見せた震える声が脳裏を掠める。煙草の匂いに微かに残る消毒液の臭いを思い出す。白い病室の輪郭が浮かび上がる。妹の姿。声。歌。笑顔が淡く浮かんでは泡沫のように消えていった。


 息が詰まりそうになり、無性に涙がこみ上げてきた。それを誤魔化そうと、空を見上げて深く息を吸う。ここで泣いてはダメだ。立ち止まれば、今まで積み上げてきたすべてが砂の城のように崩れてしまう。


 ハルカは手に力を込め、ギターを抱き直した。

 指先に残る弦の振動が、まるで自分自身の旋律を確かめるように手のひらへと伝わってくる。

 震える心を押さえ込み、肩の力を抜く。ゆっくりと、視線を戻した。


 高層ビルがハルカを見下ろしていた。漆黒の狭い空に浮かぶ月は、どうしようもなく遠い。

 雑踏のざわめきが耳障りなほど響き、ネオンの光が痛いほど目に刺さる。


 ピックを握る感触。指先を伝う弦の冷たさ。微かに響く木の胴の鳴り。

 深く息を吸い、静かに声を放つ。旋律に乗って、ハルカの歌が夜空へと吸い込まれていく。


 ざわめきが遠ざかり、空気が濃密に変わる。

 街灯の光が滲み、足音が消える。ここは、スポットライトに照らされた舞台だ。

 一瞬、世界のすべてがハルカの音に染まった。


 ハルカにできることは、やらなければならないことは、ただひとつ。



 歌うことだけだった。




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