第十話 森哭きの女王―常世の樹―②

 森が呻いた。

 空気は重く、木々は命の悲鳴を上げるように軋んでいる。

 ひかりの手の中で〈暁葉〉が震えた。気が荒れ、理が乱れている――森全体が痛みに締め上げられているのが分かった。


 森の奥、朽ちた巨樹の根から淡い緑の光が漏れ出す。

 幹の裂け目がゆっくりと開き、女の形をした影が姿を現した。


『我ハ常世ヲ統ベル者……命ノ理ヲ繋グモノ、※※※』


 声が森全体に響いた瞬間、風が止まる。

 葉は震えず、鳥は沈黙し、時だけが硬くなる。


「……あなたが、森を縛っているのね」


 問いに、影は震える。

 だが、それは肯定ではなく――悲鳴。


『名……ガ……ナイ。

 名ヲ奪ワレタ……

 名ナキ者ハ、輪カラ零レル……

 止マラヌト、消エル……

 ダカラ……森ト同化シ……喰ラウ……』


 ひかりは息を呑んだ。

 名は灯。灯は道。名を奪われれば、循環の座標を失い、止まりに沈む。


 (山姥が言っていた“名を返す”ということ……今、ここで!)


 ひかりが胸に手を寄せた瞬間――


 森が裂けた。


 黒い根が蛇の群れのように走り、ひかりへ襲いかかる。


「――《火祈》」


 〈暁葉〉を抜き、大地へと刃先を落とす。

 炎は燃えず、灯となり、衝撃をやわらげて根を退ける。


 炎は優しい。

 灯すために生まれた火。


 しかし根の再生は止まらない。

 名を失った理は、形の意味を忘れている。


『汝ノ理ハ乱レ、輪ヲ歪ム。

 命ハ静寂ニ在ルベシ――止マレ、安ラゲ!』


 影の腕が上がる。

 地が脈動し、根が生き物のようにうねってひかりを包もうとした。

 〈暁葉〉が気を吐き、ひかりは斬り伏せる。だが、切っても切っても、根は再生した。


「終わらない……っ!」


 膝をついた刹那、影の唇が呪いの形を結ぶ。


『全テハ生マレ、朽チ、止マリ、ナオ還ル。

 輪ニ抗ウ者ハ、理ニ背ク――!《呪樹葬送》!』

「呪言! ――ッ!」


 影が呪言を唱えると周りの木々が枯れ、赤く染まる。


 呪言を聞いた、光の頭に激痛が貫いた。

 光と闇の狭間で、誰かの声が蘇る。


 ――光よ、還れ。

 炎は焼くためにあらず。

 願いを織れ、命を束ねよ。


「この声……私?」


 知らない記憶。知らない世界。

 けれど、涙が零れるほど懐かしい。


 赤い枯れ葉と枯れ木が襲いかかる。ひかりは必死に受け流し、叫ぶ。


「命を……止めないで!」


 腰袋から、小さな枝と〈樹〉の欠片を取り出す。

 二つの木片は、互いを覚えていたかのように脈動した。


「――《名綴り》」


 細い、銀の糸が生まれる。

 影の胸へ――名の断面へ触れる。


 だがまだ、足りない。


 名の音が、足りない。


『名……名ガ……呼ベナイ……

 呼ブ声モ、帰ル道モ、ナイ……』

「……なら、私が呼ぶよ」


 ひかりは目を閉じ――ゆっくりと名前を呼んだ。


「ユ……」


 森が揺れた。

 風が呼応し、葉が震えた。


「グ……」


 幹が鳴いた。

 根が止まった。


「ラ」


 ――光が溢れた。


 その瞬間。

 ひかりの瞳は、深い蒼へ。

 髪は陽光に溶けて、金に輝いた。


 光が炎へと変わる。

 ひかりは空へ〈暁葉〉を掲げた。

 自然と言葉が溢れ出る。


「――焔よ、焼かず、結べ。理と理、命と命を!」


 周囲の理の気が集まる。

 葉脈から、土から、風から、光から。

 すべてがひかりの背に流れ込む。

 刃が燃え上がり、紅蓮の紋が宙に描かれる。

 それは破壊ではなく、再生の炎――燃やすのではなく、名と名を結び直すための灯。


「炎は祈り、祈りは理を織る――《炎織》!」


 刃が紅へと色を変え、炎は羽となって舞う。


 翠光が森を包み、影の根を焦がす。


 影――ユグラは息を吸い、震えながら呟いた。


『……ユグラ……

 ワタシ……ハ……ユグラ……!』


 ひかりは歓喜と同時に、鋭い反発を感じる。

 暗がりの底――奪名の瘤が、銀糸を引きちぎろうとしていた。


「……なら、最後まで結ぶ!」


 ひかりはもう一度、深く息を吸う。

 再び周囲の気を背に受ける。


「炎よ、灯となりて戻れ。

 名は灯、灯は道、道は糸、糸は輪を結び、名を結ぶ――」


「《返名・炎織》!」


  紅から白、白から翠へ――三色の輪が重なり、ユグラの核へ降りる。

 糸が一気に結ばれ、奪名の瘤がぼろりと剥がれ落ちた。

 黒い滞りが霧散し、幹の奥で白い脈動がはっきりと息をする。


 森のどこかで、幼い木霊の声がかすかに響いた。


『……ユ……グ……ラ……』


 ひかりの胸が熱くなる。

 呼ぶ声がある。ならば、呼び返せる。


 森が、わずかに震えた。

 ユグラの核に、音が一つ、二つ、戻っていく。

 ひかりは最後の一音を、祈るように紡いだ。


「ユグラ!」


 ユグラの足元で、根が静かに鎮まった。

 彼女の瞳から、ひと筋の涙が落ちる。


『……名ガ、戻ッタ……

 我ハ、我ニ、還レル……』


 森の鳴動がやみ、色が戻っていく。

 光が葉脈を走り、止まっていた輪が再び回り出す。


 ひかりは肩で息をし、〈暁葉〉を静かに下ろした。

 ユグラの根はもう、襲いかかっては来ない。

 ユグラは微笑み、光となって溶けていった。


 ひかりは膝をつき、〈暁葉〉を鞘に納める。


「……ユグラ」


 その名を呼ぶと、森の空気がやわらぐ。

 花の香りが戻り、葉がきらめいた。


 ――静けさが戻る。けれど、今度の静けさは生きている静けさだった。


 その静けさを破るように、木の上から声が落ちた。


「……おっかねぇな。人の身で呪言をやってのけるとは思わなかったぜ」

「――! ナナシさん……? どうしてここに?」

「……風の向くまま、気の向くまま。ここへ来たのは風の導きって奴だな」


 枝の上で、風を受けながらナナシが座っている。

 軽口をたたいているが、その目は笑っていない。真剣で、どこか警戒を帯びている。


「呪言なんてのは、妖か理の化身の領分だ。

 嬢ちゃん、人でありながらそれを使うってのは……どういう理だ?」

「……わからない。言葉が浮かんで……勝手に口が動いたの」

「勝手に、ねぇ……おっかねぇ話だ」


 ナナシはため息をつき、しかし口元に小さな笑みを浮かべた。


「ま、結果は悪くねぇ。森も救われたし、命も繋がった」


 彼は軽やかに地に降り、ひかりの隣に立つ。


「嬢ちゃん、ひとつ提案だ」

「……提案?」

「人が呪言を唱えるなんて、聞いたこともねぇ。

 けど――その目、命を救う時の光は悪くなかった。

 お前が善に傾くか、悪に堕ちるか。見極めてやるよ。

 ――剣の師として、旅の仲間として、そして少しばかり監視も兼ねてな」

「監視って……」

「冗談だよ。半分な」


 ひかりは思わず吹き出し、しかし頷く。

 〈暁葉〉の刃は嬉しげに微光を返した。


「……なら、一緒に行こ。理の異変、まだ終わってない気がする。

 “名を奪う手”が、他の理にも伸びてるなら」

「そう来なくっちゃな」


 ナナシは風のように笑い、森の奥を振り返る。

 静まり返った木々の間を、やわらかな風が通り抜けた。


「――じゃあ、風と光の旅の始まりだ」


 ふたりの背に陽が差す。

 光は道を、風は背を押す。

 常世の森は歌い、名を取り戻した輪が静かに回り始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る