第二話 流浪の始まり
朝靄(あさもや)の向こう、山々が霞む。
陽はまだ浅く、谷間を渡る風がひかりの頬を撫でた。
結城の屋敷を出て二日、彼女は河南の街道を歩いていた。
草履の裏には土の匂い、頬には初めての風。
屋敷にいた頃は、庭の松風すら結界に守られていた。
いま吹く風は、生きている。温かく、時に乱暴に、彼女の髪を散らす。
腰に下げた木刀〈樹〉が、ことりと鳴った。
ひかりは微笑みながらその柄を軽く叩く。
「……ふふっ、静かね。けど、少し楽しいかも」
独り言がこぼれた。
世界は広く、そして思った以上に眩しい。
道端では農民が麦を刈り、商人が荷車を引きながら声を張り上げている。
犬の遠吠え、子供の笑い声、そして人々の息づかい。
屋敷の中では決して聞こえなかった音たちが、彼女の心を満たしていく。
――理よりも、人の息づかいがある世界。
胸の奥がくすぐったくなるような感覚。
それは自由の味だった。
昼過ぎ、河南の町に辿り着く。
屋根瓦が連なり、通りには露店の旗が風に揺れる。
香ばしい焼き魚の匂い、祭囃子(まつひばやし)のような商人の掛け声、遠くで鳴く寺の鐘。
初めて見る喧騒に、ひかりの胸は高鳴った。
「わぁ……刀が、いっぱい……!」
通りの角にある武具屋。
棚には大小さまざまな刀、槍、鎧が並び、鉄と油の匂いが立ちこめる。
ひかりは思わず息を呑んだ。
光を受けて鈍く光る刃――
その一つ一つに、心を奪われるように顔を寄せた。
「この反り……美しい……!
あっ、この茎(なかご)の焼き模様、細かい……!」
完全に我を忘れ、目を輝かせて見入る。
店主の男はそんな様子に呆れたように眉をひそめた。
「嬢ちゃん、刀は見るもんじゃねぇ、振るもんだぞ?」
「はいっ! 分かってます!」
返事だけは元気だが、視線は一向に刀から離れない。
男は苦笑し、
「変わった娘だなぁ……」
と呟きながら、店の奥に消えていった。
ひかりはその場を離れ、通りの木陰に腰を下ろす。
屋台で買った串団子を頬張りながら、木刀の柄を撫でた。
「ねぇ、樹。
この世界には、まだ見たことのない刃がたくさんある。
……私も、あんな刀を手にしたいね」
甘い団子の香りと、涼やかな風。
心の底から、世界に満たされていく感覚。
思わず涙がにじむほどに、幸せだった。
――その時だった。
風の流れが、止まった。
露店の旗がぴたりと静止し、遠くの笑い声が掻き消える。
空気が、重い。
ひかりの肌に、ざらりとした“気”が触れた。
背筋を冷たいものが走る。
「……これは、妖の気……?」
木刀の柄を握る。
見えぬ風の流れの中、ひかりの意識が一点に向かう。
町の裏手。
古びた祠の前で、黒い靄が渦を巻いていた。
近づくたび、空気の圧が増していく。
靄の中心には、朽ちた木像――かつて“守り神”と呼ばれたものが倒れていた。
その像の影から、紅い光が滲む。
木刀を抜いた瞬間、風がざわめく。
黒い靄が唸りを上げ、獣の形を取った。
長い爪、裂けた口、紅い双眸。
「理を失った命……! 鎮(しず)めなきゃ!」
足を踏み出し、木刀を振り抜く。
気を通した刃が、音もなく空を裂いた。
妖が咆哮し、爪を振り下ろす。
土煙とともに地面が裂け、瓦礫(がれき)が舞う。
ひかりは身を翻(ひるがえ)し、逆手に構えて反撃の一閃。
木刀が白く淡く光る。
光の残像が空を走り、妖の体を貫く。
煙が舞い上がり、黒い靄が風に溶けて消えた。
残ったのは、冷たい静寂だけ。
ひかりは息を整え、木刀の先を見つめた。
刃先――いや、木の繊維の中を、何かが確かに通った感覚。
その震えは、恐怖ではなく、覚醒(めざめ)に近い。
「……外の世界は、思ってたよりも……厳しいね」
木刀を腰に収め、空を仰ぐ。
西日が町の屋根を金色に染め、遠くの川面がきらめいている。
その美しさに、ひかりの唇がふっと緩んだ。
――だが、その様子を、遠くの屋根の上から見つめる影があった。
黒い外套(がいとう)の男。
風を纏(まと)うように屋根の端に腰をかけ、口に木の枝を咥えている。
左手には、風の粒子が遊ぶように集まり、散っていた。
「へぇ……嬢ちゃん、やるじゃねぇか。
だが、あの剣筋――五行の理じゃねぇな」
彼の周りだけ、風が意志を持つように流れていた。
唇の端が上がる。
「面白ぇ。ちっと、見てみるか」
ひゅるりと風が一筋流れた瞬間、男の姿は消えた。
町の喧騒が戻る。
鳥が鳴き、露店の旗がまた揺れる。
ただ――その風の中に、微かに笑う声があった。
それが風そのものの声なのか、それとも――。
ひかりは、まだ気づかない。
この邂逅(かいこう)が、やがて彼女の運命を大きく動かすことになることを。
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