ハニートラップ

変はります

ハニートラップ


 穏やかなジャズのBGMを背景に私は店で一番安いカクテルをちびちびと飲む。

 マスターは凛とした立ち振舞でグラスを拭いていてバーにはゆったりとした時間が流れている。

 新卒上がりで大学時代にずっと遊んでいたせいで入社した途端、急な八時間労働に辟易してしまって私はよくこのバーで酒を飲んでいる。

 本当はもっと飲みたいが安月給じゃこの一杯だけでもカツカツだ。この忙しい中彼氏なんて作る暇もない。

 友達のストーリーを見るがみんな仕事が忙しそうで遊べないし私にもそんな気力はない。私はため息をつく。


「何かいい出会いでもないかなー…」


思わず言葉が漏れ出してしまい私は口を手で塞ぎ聞こえてないか周りを確認しようとする。

 すると突然私の目の前にグラスが置かれた。


「あの…注文してないですよ?」

「あちらの方からです」


 マスターは微笑みながら答える。私は反射的に右隣を見るといつの間にか男性が私と一席離れたところに座っていた。

 彼はスーツ姿に身を包んでいてきっちりとしていて、何より顔面が私のタイプにドンピシャだった。


(これって…あちらのお客様からですってグラスを渡されてそのまま...ってやつじゃない!?)


私は浮かれる気持ちを必死に隠しこのチャンスを逃すまいと彼に話しかける。


「あの…なんで私に…?」

「あなたがため息をついているものですからそれで元気になればなと思いまして。どうです?僕と少し飲みませんか」

「ほんとっ…もちろんいいですよ」


こんな急展開に焦りそうになりながらもしっかり平静を保とうと私は彼からもらったグラスの中に視線を落とす。

 茶色く透き通った色とそこ華やかな香りに誘われ、私は一口そのお酒に口をつける。口につけた瞬間、芳醇な香りが鼻いっぱいに広がり、酔いで頭がふわ〜として、思考が浅くなる。

 その様子を見ている彼は嬉しそうに微笑みかけていた。私は彼と目が合ってしまい顔を赤くして目を逸らす。


「いつもこのバーに来るんですか」

「はい…仕事の疲れとか嫌なことをを忘れようといつもここで」

「分かります。僕も大学生の時遊びすぎて急に働くわ友達とも遊べないわで毎日苦しいですよね」

「分かります!?そうなんですよぉ!ほんと毎日つまんなくて」


私は彼と同じで気持ちで嬉しかったのかそれとま酔いが回ったからか自分を取り繕うことができなくなっていった。





「私大学生の時、アパートがペット禁止だったんです。だから社会人になったら住むとこも変えて猫飼いたかったんですよぉ、でも結局何もできなくてぇ」


私はカウンターにへたり込みながら愚痴をこぼす。彼は嫌そうな顔一つせず微笑みながら私のことを見つめる。


「僕実は猫飼ってるんですよね」

「ほんとですか!?」


彼の言葉に私は目を輝かせる。


「写真とかありますか?」

「恥ずかしいことに最近飼い始めたばっかりでまだ育てるので精一杯なんですよ」


彼が照れくさそうに微笑む。私はお酒の最後の一口を飲む。

 夜も更けそろそろ彼も帰るだろう。私は酔いに身を任せて勇気を振り絞った。


「あ…あの…じゃあこの後猫ちゃん見に行ってもいいですか…?」


私は渾身の上目遣いをして彼に尋ねる。顔は真っ赤で私の心臓はうるさいほどにドクンドクンと鼓動を鳴らしている。


「ちゃんと全部飲みましたね」

「…へ?」


意味の分からない返答に私は素っ頓狂な声を上げる。彼はにこやかな笑みのままマスターに話しかける。


「マスター!俺もう上がっていいすか」

「うーん...まあ十分稼いだしいいよ」

「やりぃ!じゃ、お姉さんも楽しんでくださいね!」


そう言って彼はバーの裏に姿を消す。私は突然の出来事に何も考えられなくなっていて口をぽかんと開けたままだった。

 マスターはいつも通りの立ち振舞で私に話しかけてくる。


「お客様、どうします?お会計にしますか?」


「―――嫌なこと増えた...マスター、酒...」

その後のことは覚えてもないし思い出したくもなかった。












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