第7章:最後の選択
## 1
美咲は、バスに乗り込んだ。
六度目——最後のバス。
運転席には、いつもの影がいた。
でも、今夜は違った。
影が——ゆっくりと、美咲の方を向いた。
顔は見えない。でも、その視線は確かに美咲を捉えていた。
『六度目の旅です』
影は、静かに言った。
『これが、最後です』
「最後……」
美咲は、淡々と繰り返した。
感情がないから、恐怖も不安もない。
ただ——何かが終わる、という予感だけがあった。
---
## 2
『座ってください』
影は言った。
美咲は、座席に座った。
でも——バスは、動かなかった。
「動かないの?」
『今夜は、旅をしません』
影は答えた。
『あなたは、もう全てを見ました。お母様の想い、全て知りました』
「ええ」
『では——私と、話をしましょう』
美咲は、少し戸惑った。
これまで、影はほとんど話さなかった。
でも、今夜は違う。
『あなたに、伝えなければならないことがあります』
---
## 3
影は、ゆっくりと語り始めた。
『あなたは、五度このバスに乗りました』
「ええ」
『そして、五つの代償を払いました』
影は、指を折った。
『一度目——味覚。二度目——記憶の一部。三度目——寿命五年。四度目——感情。五度目——人間関係』
「そうね」
『あなたは、もうほとんど全てを失いました。味わうことも、思い出すことも、笑うことも、誰かと繋がることもできない』
美咲は、何も言わなかった。
『では、問います』
影は、美咲を見つめた。
『あなたは、今、幸せですか?』
---
美咲は、少し黙った。
幸せ——その言葉の意味が、分からなかった。
「分からないわ」
美咲は答えた。
「だって、もう感情がないもの」
『そうです。あなたは、もう何も感じない。喜びも、悲しみも、幸せも、不幸も』
影は続けた。
『あなたは、お母様の想いを全て知りました。お母様が、どれだけあなたを愛していたか。どれだけあなたの幸せを願っていたか』
「ええ……知ったわ」
『でも——あなたは、それを感じることができない』
---
美咲は、何も言えなかった。
その通りだった。
母の愛を知った。母の想いを知った。
でも——何も感じなかった。
ただ、情報として知っただけ。
『あなたのお母様が、最も願っていたこと——それは、あなたが幸せになることでした』
影は言った。
『でも、今のあなたは、幸せになることができない。なぜなら、もう「幸せ」という感情がないから』
美咲は、俯いた。
『あなたは、後悔を知るために、全てを失った。でも——後悔を知っても、何も変えられなかった』
---
## 4
影は、深くため息をついた。
『このバスは、後悔を抱えた者を乗せます』
「ええ……知ってるわ」
『そして、代償を求めます。それは——』
影は、少し間を置いた。
『あなたを、少しずつ壊していくためです』
美咲は、顔を上げた。
「壊す……?」
『そうです。このバスは、乗客を壊します。味覚を奪い、記憶を奪い、寿命を奪い、感情を奪い、繋がりを奪う』
影は続けた。
『そして最後に——存在そのものを奪います』
---
美咲は、息を呑んだ。
「存在を……奪う?」
『ええ。六度目の代償——それは、あなたの存在です』
影は、静かに言った。
『あなたは、この世界から消えます。誰もあなたを覚えていない。あなたがいた痕跡も、全て消える。あなたは、最初からいなかったことになります』
美咲は、何も言えなかった。
存在が消える——それは、死よりも恐ろしいことかもしれない。
『でも——』
影は、続けた。
『その代わり、一つだけ願いを叶えましょう』
---
## 5
美咲は、影を見つめた。
「願い……?」
『そうです。あなたの存在と引き換えに、一つだけ願いを叶えます』
影は、ゆっくりと手を差し出した。
『あなたは——お母様を、救いたいですか?』
美咲は、息を呑んだ。
「お母さんを……救う?」
『ええ。あなたの存在と引き換えに、お母様を生き返らせることができます』
---
美咲は、戸惑った。
母を生き返らせる——それは、美咲がずっと願っていたこと。
でも——
「でも……私が消えたら、お母さんは一人になるんじゃ……?」
『いいえ』
影は、首を振った。
『あなたが消えれば、世界は書き換わります。あなたが最初からいなかった世界に』
「最初から……いなかった?」
『そうです。お母様には、娘がいなかったことになります』
---
美咲は、愕然とした。
母に、娘がいなかった——
それは、どういう世界なのだろう。
『お母様は、病気になりません。なぜなら、娘を育てるために無理をする必要がなかったから』
影は続けた。
『お母様は、もっと自由に生きることができます。もっと、自分の幸せを追求することができます』
「でも……お母さんは、私のことを……」
『覚えていません。最初から、あなたは存在しなかったのですから』
---
美咲は、何も言えなかった。
母が生きる。でも、美咲のことは忘れる。
いや——最初から、美咲は存在しない。
『それでも——あなたは、お母様を救いますか?』
影は、問いかけた。
---
## 6
美咲は、しばらく黙っていた。
感情がないから、悲しくもない。寂しくもない。
でも——何かが、胸の奥で引っかかった。
「お母さんが……生きるなら」
美咲は、小さく呟いた。
「私が消えても……いいわ」
『本当に?』
「ええ。お母さんは、私のために無理をしてきた。私のために、病気になった」
美咲は続けた。
「だったら——私がいなければ、お母さんは幸せになれる」
『……あなたは、それでいいのですか?』
「ええ」
美咲は、きっぱりと答えた。
「お母さんが幸せなら、それでいい」
---
影は、しばらく美咲を見つめていた。
そして——
『分かりました』
影は、手を差し出した。
『では、契約を交わしましょう』
美咲は、その手を取った。
冷たい、氷のような手。
『あなたの存在と引き換えに、お母様を救います』
「お願い」
『ただし——』
影は、少し声のトーンを変えた。
『あなたは、完全に消えます。誰も、あなたを覚えていない。あなたがいた痕跡も、全て消える。それでも——』
「構わないわ」
美咲は、即答した。
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## 7
影が手を離すと、美咲の体に奇妙な感覚が走った。
体が、薄くなる。
透明になっていく。
存在が、消えていく。
「これが……」
『あなたの、最後です』
影は言った。
『さようなら、川瀬美咲』
---
美咲の視界が、ぼやけていく。
自分の手が、透けて見える。
体が、少しずつ消えていく。
でも——美咲は、何も感じなかった。
恐怖も、後悔も、何も。
ただ——
「お母さん……幸せになって」
美咲は、最後にそう呟いた。
---
そして——
美咲は、消えた。
跡形もなく。
川瀬美咲という存在は、この世界から完全に消えた。
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## 8
バスの中は、静かだった。
影は、一人座席を見つめていた。
そこには、もう誰もいない。
『また一人……消えた』
影は、小さく呟いた。
『後悔を抱えて、全てを失って、そして——愛する人を救うために、自分を捨てた』
影は、深くため息をついた。
『人間とは……なんと儚く、そして美しいのだろう』
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バスが、ゆっくりと動き出した。
闇の中を進んでいく。
次の、後悔を抱えた者を探して。
バスは、今夜もどこかで——誰かを待っている。
---
## 9
世界が、書き換わった。
川瀬美咲という存在は、最初からいなかった。
川瀬冴子には、娘はいなかった。
冴子は、夫を早くに亡くした後、再婚せず一人で生きてきた。
でも——娘を育てる必要がなかったから、無理をすることもなかった。
冴子は、自分の時間を大切にし、趣味を楽しみ、友人と過ごし、穏やかな日々を送った。
そして——病気にもならなかった。
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ある日、冴子は公園を散歩していた。
秋の風が、心地よい。
冴子は、ベンチに座り、空を見上げた。
「いい天気ね」
冴子は、微笑んだ。
穏やかな、幸せな笑顔。
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そのとき——
冴子は、ふと何かを感じた。
誰かが、そばにいるような気がした。
誰かが、見守ってくれているような——
冴子は、周りを見渡した。
でも、誰もいない。
「気のせい……かしら」
冴子は、首を傾げた。
でも——その感覚は、消えなかった。
温かい、優しい感覚。
まるで、誰かが「大丈夫だよ」と言ってくれているような——
---
冴子は、微笑んだ。
「ありがとう」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
風が、冴子の髪を撫でた。
まるで、誰かが優しく抱きしめてくれているような——
---
## 10
美咲は、もうこの世界にいない。
誰も、美咲を覚えていない。
美咲がいた痕跡も、全て消えた。
でも——
母は、生きている。
幸せに、穏やかに、生きている。
---
美咲は、消えた。
でも——美咲の愛は、残った。
見えない形で、母を見守っている。
母が笑うたび、美咲は嬉しい。
母が幸せなら、美咲も幸せ。
それが——美咲の選択だった。
---
## 11
冴子は、その後も穏やかな日々を過ごした。
友人と旅行に行ったり、趣味の絵を描いたり、ボランティア活動をしたり。
冴子は、自分の人生を楽しんでいた。
でも——時々、不思議な感覚に襲われた。
誰かが、そばにいるような気がする。
誰かが、見守ってくれているような——
---
ある夜、冴子は夢を見た。
若い女性が、微笑んでいる夢。
その女性は、冴子によく似ていた。
「お母さん、幸せになってね」
女性は、そう言った。
冴子は、夢の中で答えた。
「あなたは……誰?」
「私は……」
女性は、優しく微笑んだ。
「ただの、夢よ。でも——お母さんのこと、ずっと見守ってるから」
---
冴子は、目を覚ました。
涙が、頬を伝っていた。
「なんだか……懐かしい夢だったわ」
冴子は、涙を拭いた。
不思議な夢。
でも——温かい夢。
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## 12
美咲は、もうこの世界にいない。
でも——美咲の想いは、消えていない。
母を愛する想い。
母の幸せを願う想い。
それは——形を変えて、残り続けている。
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冴子は、その後も幸せに生きた。
そして、時々——
「誰かが、見守ってくれている気がする」
そう、友人に話すことがあった。
友人は笑って言った。
「それは、きっと守護霊よ」
「そうかもしれないわね」
冴子は、微笑んだ。
「ありがとう——って、言いたいわ」
---
美咲は、答えることができない。
でも——きっと、届いている。
母の幸せが、美咲の幸せ。
それが——美咲の選んだ、愛の形だった。
---
## 13
後悔行きのバスは、今夜もどこかを走っている。
深い後悔を抱えた者の前に、現れる。
そして——代償を求める。
味覚、記憶、寿命、感情、繋がり——
そして、最後には存在そのものを。
---
でも——
それでも、人は乗る。
愛する人のために。
大切な人を救うために。
自分の全てを、捧げるために。
---
それが——人間の、儚さであり。
そして——美しさでもある。
---
バスは、闇の中を進んでいく。
影は、静かにハンドルを握っている。
次の、後悔を抱えた者を——
待ちながら。
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