第5章:母の決意

## 1


 美咲の日常は、さらに壊れていった。


 鏡を見るたびに、老けた自分の顔が目に入る。白髪は増え、皺は深くなり、目の下のクマは消えない。


 同僚たちは、美咲を見るたびに心配そうな顔をした。


「川瀬部長、最近本当にお疲れのようですね。少し休まれた方が……」


「大丈夫よ。心配しないで」


 美咲は、いつものように愛想笑いで返した。


 でも——その笑顔も、どこか空虚だった。


---


 仕事は、こなせている。でも、ミスが増えた。


 記憶が曖昧で、約束を忘れることがある。クライアントの名前が出てこないこともある。


 美咲は、メモを取るようになった。全てを書き留める。でも、それでも追いつかない。


「川瀬部長、先月の報告書、まだですか?」


 部下に言われて、美咲は戸惑った。


 先月? 報告書?


 ああ、そうだった——美咲は、必死に記憶を辿る。


「ごめんなさい。今、確認します」


 美咲は、自分のデスクに戻り、パソコンを開いた。


 でも、何を確認すればいいのか——分からなくなった。


---


 美咲は、深くため息をついた。


 私、壊れていってる。


 味覚が消え、記憶が消え、体が老い——


 そして、次は何を失うのだろう。


 美咲は、それでも後悔していなかった。


 いや、後悔していないと自分に言い聞かせていた。


---


## 2


 その夜、美咲は母の手紙を読み返していた。


 あの未完の手紙。


『でも、どうしても伝えたいことがあるの。大事な話——』


 そこで途切れている。


「お母さん……何を、伝えたかったの?」


 美咲は、何度も何度も、その言葉を繰り返した。


 そのとき——時計が、零時を指した。


 美咲は、窓の外を見た。


 あのバスが、そこにあった。


 もう、何度目だろう。


 美咲は、もう数えていなかった。


 ただ、バスに乗り、母の過去を見る。


 それだけが、美咲の全てになっていた。


---


## 3


 美咲は、バスに乗り込んだ。


 運転席の影が、静かに言った。


『四度目の旅です』


「ええ……お願い」


 美咲の声は、疲れていた。


『あなたは、もう引き返せないところまで来ています』


「分かってるわ」


 美咲は答えた。


「でも、私には……もう、これしかないの」


『……』


 影は、何も言わなかった。


 ただ、ハンドルを握り、バスを動かした。


 景色が流れていく。時間が、逆行していく。


 美咲は、座席に座り、じっと窓の外を見つめた。


---


## 4


 バスが停まったのは——また、母の自宅だった。


 でも、今度は違う。時間が違う。


 美咲は、バスを降りた。


 母の部屋の窓から、明かりが漏れている。


 美咲は、そっと家の中に入った。


---


 リビングには、母がいた。


 スマートフォンを手に、何かを見つめている。


 美咲は、母のそばに近づいた。


 母のスマートフォンの画面には——美咲とのメッセージが表示されていた。


---


**美咲からのメッセージ(三週間前)**


『ごめん、今海外出張中。来週帰るから、その時に電話するね』


---


 母は、そのメッセージを何度も読み返していた。


「来週……来週、か」


 母は、小さく呟いた。


「来週まで……待てるかな」


 母の表情は、不安そうだった。


 病状が、悪化しているのだろう。体調も、優れないのだろう。


 でも、母は美咲に心配をかけたくなかった。


---


 母は、スマートフォンを置き、テーブルの上の手紙を取った。


 あの、未完の手紙。


 母は、それを読み返した。


『でも、どうしても伝えたいことがあるの。大事な話——』


 そこで、止まっている。


 母は、ペンを取り、続きを書こうとした。


 でも——手が、止まる。


「何て……書けばいいの」


---


## 5


 母は、深く息を吸った。


 そして——ペンを走らせた。


---


『大事な話——それは、あなたの幸せのこと。


 美咲、あなたは仕事をとても頑張っています。それは、お母さんの誇りです。でもね、お母さんが一番願っているのは、あなたが本当に幸せになることなの。


 仕事だけが、人生じゃない。


 もっと、自分を大切にしてほしい。もっと、笑ってほしい。もっと、誰かと一緒にいる時間を大切にしてほしい。』


---


 母は、そこで手を止めた。


 涙が、便箋に落ちた。


「でも……これだけじゃ、足りない」


 母は、ペンを握りしめた。


「もっと、伝えたいことがあるの」


---


 母は、また書き始めた。


---


『それから——これは、お母さんからのお願いなんだけど。


 美咲、定期検診を受けてね。


 実はね、お母さんの病気——遺伝する可能性があるの。お医者さんに言われたの。「娘さんも、定期的に検査を受けた方がいい」って。


 だから、美咲。お願い。ちゃんと、検診を受けて。早めに見つかれば、治療もできるから。


 お母さんは……もう、手遅れだった。でも、美咲には同じ思いをしてほしくない。』


---


 母は、涙を拭いた。


「これが……お母さんの、本当の願い」


---


## 6


 美咲は、その手紙を読んで、愕然とした。


 母が伝えたかったこと——それは、美咲の健康のこと。


 遺伝の可能性。検診の大切さ。


 母は、自分が死んだ後も、美咲を守ろうとしていたんだ。


「お母さん……」


 美咲の涙が、溢れた。


「そんなこと……そんな大事なこと、どうして電話で言ってくれなかったの?」


 でも——美咲は、すぐに気づいた。


 母は、電話をかけた。


 何度も、何度も。


 でも、美咲は出なかった。


 「忙しい」「後で」——そう言い続けた。


 母は、待っていた。


 でも、美咲は間に合わなかった。


---


## 7


 場面が変わった。


 母が、スマートフォンを手に、電話をかけている。


 呼び出し音が鳴る。


 一回、二回、三回——


 でも、美咲は出ない。


 留守番電話に切り替わる。


『美咲です。ただいま電話に出られません。メッセージをお願いします』


 母は、深くため息をついた。


「美咲……やっぱり、忙しいのね」


 母は、電話を切った。


 そして——もう一度、手紙を見つめた。


「手紙じゃ……ダメかな」


 母は、小さく呟いた。


「やっぱり、直接会って話さないと。ちゃんと、伝わらない」


---


 母は、スマートフォンを握りしめた。


 そして——もう一度、美咲に電話をかけた。


 呼び出し音が鳴る。


 一回、二回——


 今度は、繋がった。


---


『もしもし、お母さん?』


 美咲の声。


 でも、その声は疲れていて、どこか苛立っているようだった。


「美咲……ごめんね、忙しいところ」


『ううん、大丈夫。どうしたの?』


「あのね……ちょっと、話したいことがあって」


『話? ……ごめん、お母さん。今、ちょうど会議が始まるところなの。後でかけ直してもいい?』


 母は、一瞬言葉に詰まった。


「……そう。じゃあ、後でいいわ」


『ごめんね。じゃあ、また後で』


 電話が、切れた。


---


 母は、スマートフォンを握りしめたまま、じっと座っていた。


「また……後で、か」


 母は、小さく笑った。


 でも、その笑顔は悲しかった。


「美咲……お母さんには、もう時間がないの」


---


## 8


 美咲は、その光景を見て、膝から崩れ落ちそうになった。


 あの電話——覚えている。


 美咲は、海外出張中だった。大型プロジェクトの会議の直前。


 母からの電話に、美咲は苛立っていた。


 「今じゃなきゃダメなの?」


 そう思った。


 だから、「後で」と言った。


 でも——その「後で」は、来なかった。


「お母さん……ごめんなさい」


 美咲は、泣きながら呟いた。


「私、あの時……お母さんの声、ちゃんと聞いてなかった。お母さんが、どんなに辛い思いで電話してくれたか……分かってなかった」


---


 場面が、また変わった。


 母の自宅。夜。


 母は、ベッドに横になっている。


 体調が、悪化している。


 母は、天井を見つめながら、小さく呟いた。


「美咲……会いたいな」


 涙が、頬を伝った。


「お母さん、美咲に会いたい。美咲の顔を、もう一度見たい」


 母は、スマートフォンを手に取った。


 美咲の写真を見つめる。


 仕事着姿の、凛とした美咲。


「美咲……幸せに、なってね」


 母は、そう呟いて、目を閉じた。


---


## 9


 美咲は、その姿を見て、声を上げて泣いた。


「お母さん……お母さん……!」


 でも、声は届かない。


 ただ、見ているしかない。


---


 気づけば、美咲はバスの中に戻っていた。


 座席に座り、美咲は顔を覆った。


 涙が、止まらない。


「私……何やってたんだろう」


 美咲は、自分を責めた。


「お母さんが、あんなに苦しんでたのに。あんなに私を想ってくれてたのに……私は、仕事ばっかり」


 影が、静かに言った。


『あなたのお母様は、最期まであなたの幸せを願っていました』


「分かってる……」


 美咲は、泣きながら答えた。


「お母さんは、私に幸せになってほしかったんだ。仕事だけじゃなくて、本当の幸せを……」


『ええ』


---


## 10


 しばらくして、美咲は涙を拭いた。


「次も……乗せてもらえる?」


『ええ。でも——』


「代償……何を失うの?」


 影は、少し沈黙した。


 そして——


『今回の代償は——感情です』


 美咲は、息を呑んだ。


「感情……?」


『そうです。あなたの喜び、笑顔——それらが、消えます』


「笑顔が……消える?」


『ええ。あなたは、もう笑えなくなります。嬉しいことがあっても、何も感じない。成功しても、喜べない。ただ、空虚な日々を過ごすことになります』


 美咲は、戸惑った。


 笑顔が消える——それは、どういうことだ。


「それは……」


『あなたは、もう人間らしい感情を失います。仕事の成功も、誰かとの会話も、全てが無意味に感じる。それでも、構いませんか?』


 美咲は、しばらく黙っていた。


 感情を失う——それは、自分が「人間」でなくなるということ。


 でも。


「構わないわ」


 美咲は答えた。


「お母さんのこと、全部知りたい。お母さんが最期に何を伝えたかったのか……全部、知りたいの」


『……あなたは、本当にそれでいいのですか?』


「ええ」


 影は、深くため息をついた。


『分かりました』


---


## 11


 影が手を振ると、美咲の胸に奇妙な感覚が走った。


 心臓が、冷たくなる。


 胸の奥が、空っぽになる。


 そして——


 美咲は、何も感じなくなった。


 悲しみも、苦しみも、何も。


 ただ、空虚。


「これが……」


『感情の喪失です』


 影は言った。


『あなたは、もう笑えません』


 美咲は、笑おうとした。


 でも——顔が、動かない。


 笑顔が、作れない。


「笑えない……」


『ええ。次に乗れば、また何かを失います。それでも——』


「乗るわ」


 美咲は、即答した。


 でも、その声には感情がなかった。


---


## 12


 バスが停まり、美咲は現実の世界に戻った。


 マンションの前。


 美咲は、部屋に戻り、鏡を見た。


 そこに映る自分の顔——無表情だった。


 笑おうとしても、笑えない。


 泣こうとしても、涙が出ない。


 ただ、空虚な顔。


「これが……私?」


 美咲は、鏡に映る自分を見つめた。


 感情が、ない。


 美咲は、ベッドに横になった。


 でも——何も感じない。


 疲れも、悲しみも、何も。


---


 翌朝、美咲は出社した。


 同僚が、美咲を見て驚いた顔をした。


「川瀬部長……大丈夫ですか? なんだか、元気がないようですが」


「大丈夫よ」


 美咲は答えた。


 でも、その声には感情がなかった。


 笑顔も、ない。


 同僚は、不安そうな顔をした。


「本当に……大丈夫ですか?」


「ええ、大丈夫」


 美咲は、繰り返した。


 でも——心の中は、空っぽだった。


---


 昼休み、同僚が声をかけてきた。


「川瀬部長、今度の昇進、おめでとうございます!」


「……ありがとう」


 美咲は答えた。


 でも、何も感じない。


 昇進——それは、美咲がずっと目指してきたもの。


 でも、今の美咲には、それがどうでもよかった。


 嬉しくも、何ともない。


 ただ、空虚。


---


 美咲は、自分が壊れていくのを感じていた。


 味覚が消え、記憶が消え、体が老い、感情が消え——


 私は、もう人間じゃない。


 でも——美咲は、それでも後悔していなかった。


 いや、「後悔」という感情さえ、もう感じられなかった。


 ただ、母のことを知りたい。


 それだけが、美咲を動かしていた。


---


 そして——夜が来る。


 また、零時が訪れる。


 バスが、また来る。


 美咲は、それを待っていた。


 何も感じずに、ただ待っていた。

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