茶碗の怪
今年還暦を迎える私は、山陰の片田舎、日本海に面したY市に生まれ育った。都会の大学を卒業後、郷土で中学校教員をしているがそれもあと一年で退職となる。親が昭和の中頃に建てた家に子どもの頃から住み、これまで自分の身の回りのことも妻に任せっきりにして教師という仕事に専念してきた。しかし両親はすでに亡く、さすがに老後に向けた身辺整理の必要性を感じるようになった私は、昨年末から家の中をかき回して世に言う「断捨離」的なことに取り組もうとしたのだった。しかし言うは易しで、物置から戸棚から引き出しの奥から、親の残したものはもちろん、仕事もプライベートも入り混じったありとあらゆるものが出てきて、そのすべてに幾ばくかのこだわりや思い出があり、私の断捨離は全く進展していない。最初は妻も手伝おうという姿勢を見せていたが、時間ばかり費やして作業の進まぬ私にすっかりあきれて、手も口も出さなくなってしまった。
まだ残暑厳しい秋の初め、学校夏休み明けの大行事である運動会も終えて、仕事も一段落した日曜日の午後のことである。私は休日に時間ができると書斎に籠もり、荷物の整理をするのがここしばらくの習慣となっていた。以前物置だったここには棚だけはたくさんあり、その日の奥に見覚えのない古い段ボールを見つける。
私がここを使うようになったのは八年前、父の死後のことである。それまで物置だったこの中二階の小さなスペースが気に入っていた私は、ここを書斎として使うことを思い立ち、詰め込まれていたガラクタを一週間がかりで片付けたのだった。この段ボールはその時に見落としたもののように思われた。とにかく引っ張り出して開いてみる。予想通り古いだけのガラクタが詰まっていたが、今はいない両親のものであるかどうかはっきりしない。その中に新聞紙に幾重にも厳重にくるまれて、ひっそりと「それ」はあった。
――古い茶碗である。羽を広げて向かい合う二羽の鶴が描かれ、他は白無地である。
まさかこれがこんなところに……。その茶碗は私が記憶の底に封印していたある出来事に直結するものに思われたのだ。
大阪万博で国内が盛り上がっていた昭和四十五年の夏、私は十歳だった。その年頃の記憶など曖昧なものなのだが、それはかなり特異な体験であり、子供の記憶に強く擦り込まれたのだと思う。両親は子どもの好奇心を軽視しない方針だったのか、堅く口止めする代わりに、あれこれ知りたがる私に後日かなりきちんと説明してくれたのだった。
岡山の母の実家で古くなった物置を壊すというので、母は夏休み中の私とひとつ下の妹を連れて手伝いに行った。母の実家は中国山地を越えた瀬戸内海に面した港町で、自分の住むY市からは国鉄で三時間ほどかかった。これまでも何度か訪れたことがあったが、掘り込まれた港に面した大きな屋敷だったと記憶する。かなり後になって母から聞いた話では、かつてこの町で五本の指に入る廻船問屋で、建物も江戸末期のものだったという。しかし明治以降廻船業が下火になると、手を出した新事業にも失敗し、屋敷を除く財産もほとんど手放してしまっていた。こうなると古い屋敷の維持管理に金も手もかけられない。現在なら文化財指定を受ける可能性もあっただろうが、昭和半ばにはそれもなく、この時も屋敷はずれの物置を取り壊してそこを宅地として売り出すつもりだったようだ。
この当時、この家を仕切っていたのは私の祖母、つまり母の母であった。当主だった祖父が戦後すぐに病没した後、女手ひとつで家を守ってきたのだが、長男である母の兄が職を得た都会から戻ろうとせず、この旧家を切り盛りするのに疲れを感じているようだった。ここ何年も奥の部屋に引きこもっていることが多く、たまに顔を合わせても、挨拶する私や妹に、頷いてくれるだけだった。――その祖母がこの家の陰気な雰囲気を象徴しているようで、私は祖母が好きになれなかった。妹などははっきり「嫌い」と言って母を困らせたものだ。
さて、そうはいっても五百坪は越える古い屋敷は小学生には格好の遊び場で、この日は普段は会えぬいとこ達も来ており、皆ではしゃいで屋敷中を走り回る。とても手伝いどころではなかった。祖母や母を含めた大人達が物置の片付けにかかりっきりなのをいいことに好き放題。ところが遊びの最中に、ささいなことから妹が泣き出してしまい、泣き止んだ後も嫌気がさしたのか私やいとこ達から離れて、母のいる物置の方へ行ってしまった。
さてその物置は、蔵と言ってもいいほどしっかりした造りで、別にある正規の蔵に収めきれないものや使わなくなった家族のものなどが詰め込んであった。中では祖母や母、岡山県内に住む叔父夫婦などが働いている。つまり取り壊す前に運び出すものを分別しているのだが、母にしても少女時代の懐かしい品々が多く、つい手も滞りがちだったようだ。そこに妹がやってきたのである。
母にひとしきり私たちへの不満を愚痴った妹は、母になだめられると気が済んだらしく、暫く物置の内外に山積みされた品々を珍しそうに眺めていたらしい。 しかしいつの間にか姿を消し、気になった母が私たちのところに来て、少々厳しい声で妹を捜して一緒にいるように告げた。仕方なくいとこ達にも手伝ってもらって妹を捜すことになった。……妹はすぐに見つかった。門のあたりに座っているのをいとこの一人が見つけて連れてきてくれたのだ。見ると手に大切そうに何か持っている。どうやら茶碗のようだ。聞けば物置から持って来たらしい。勝手なことをするなと兄貴風を吹かせて取り上げようとすると、意外なほど頑固に嫌だと言い張る。力ずくで取り上げて万が一茶碗が割れると面倒だし、また泣かれるともっと面倒だ。そう考えた私は取り上げるのをあきらめ、そのまま母のところへ妹を連れて行くことにした。
母は妹が大切そうに抱えた茶碗をちらりと見ると、茶碗が値打ちものではないことはひと目で知れたようだ。あっさりと妹にそれを与えてしまった。とにかくその日実家に泊まる気のなかった母は、夕方までには作業を終えてしまいたかったようだ。その時はたまたま祖母は母屋に引き上げていたが、もし祖母がこの茶碗を目にしていれば、また違う展開もあったかもしれない。
とにかく、このようないきさつで問題の茶碗は岡山の港町から山陰Y市の、今も私が住んでいるこの家へ持ち込まれたのだった。
さて、茶碗は妹の手によってきれいに洗われ、多少はこぎれいになったようであったが、それでも染みついた古くささ(趣ではない)は抜けきるものではなかった。さらにきれいになってみればなったで、二羽の鶴の間にはかすかなひび割れさえ見つかった。ところが両親を困らせたのは、当の妹が、これから毎日この茶碗で食事をするといって聞かなかったことである。さすがに両親、そして冷やかし半分で私が説得し、なんとか妹のかわいがっていた子犬のタロの食事用に使うということで折り合いがついたのだった。
それにしてもタロの喜びようは異常だった。短いしっぽを風車のようにぶんぶん回して、まだ中に何も入らぬ茶碗をペロペロといつまでもなめた。そして妹はといえば、今まであれほどかわいがっていたタロが、茶碗にしがみつくようになめ上げるのを、どこか切なげなうらめしげな目で見ているのである。その目には茶碗の所有者である自分が使えないことへの不満がはっきりと現れていた。それに気がついた自分は、これまでなら妹に冷やかしの声かけをしているはずなのだが、何か気味が悪く、結局何も言えないでいた。
タロの食欲は増した。異常なほどに。それまでが特に小食だったわけではないが、あの茶碗で食事するようになって以来、がつがつと貪るように食べるのである。まだドッグフードなど普及しない時代、大抵は人間の食べ残しがタロの餌だった。犬にも好き嫌いはあるようで、これまで野菜の煮物などほとんど口をつけなかったのが、うって変わっていくらでも食べるようになった。 そして妹はと言えば、そんな食事中のタロに寄り添うようにして付き添い、その視線は茶碗に口をつっこむタロに注がれたまま離れることがなかった。
その夏の終わりの暑苦しい夜だった。もう数日で二学期が始まると言うことで、少々憂鬱だった私は、二階の自室の寝苦しさに耐えきれなくなり、台所まで降りていった。冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出してのどをうるおす。時計を見ると深夜一時を回っていた。ふと勝手口が開いていることに気がつく。いくら夏でも、ここと玄関を開けたままというのはあり得ないと、小学生の私でも知っていた。閉め忘れたのか、それとも……おそるおそる外の様子をうかがうと、何かの物音が聞こえた。勝手口のすぐ外側には犬小屋がある。私が台所の電気を点けたので、タロも目覚めたのだろうか。この暑さではタロもつらかろうと、犬が開けるはずのない勝手口が開いていたことをつい忘れた私はサンダルを履いて外に出た。
台所の灯りが照らす庭先に、タロでない何かがいた。――私は声にならない悲鳴を上げて逃げ腰になる。かろうじて逃げ出さずに済んだのは、早々にその何かが妹であることに気がついたからだった。妹はパジャマ姿のままタロの小屋の前にしゃがみ込み、タロの食事用の食器、つまり岡山から持ち帰った茶碗を、一心に嘗め上げていた。両目は完全に白目で、意識があるようには思えなかった。タロはといえば、小屋から少し離れた地面に座って、悲しそうに自分の主人を眺めているのだった。……私はそのまま両親の寝室に駆け込んだ。
大騒ぎになる。父は妹を抱えて家の中に入るが、意識のないまま暴れて、父の顔や手にいくつもの擦り傷をつくった。何と言っても犬の使用していた食器を嘗めていたわけで、母はあわてて妹の口の中を歯ブラシで洗浄する。翌日妹は病院で何種類かの飲み薬を処方された。そうこうするうちに妹はついに目を覚まし、寝ぼけた声で何事か尋ねてくるのだ。自分が何をしていたかの記憶はまったくないようだった。
その騒ぎを親の肩越しに観ていた私は、ふと開きっぱなしの勝手口から見えたものにぞっとした。あの茶碗は地面に転がったまま割れもせず、それを抱えるようにタロが長い舌で嘗めているのだ。……先程妹がしていたように。
茶碗は妹からもタロからも取り上げられ、両親がどこかにしまい込んだようである。なぜ処分してしまわなかったのか、その理由はわからない。今度は妹も何も言わなかった。妹は昨夜のことは全く覚えておらず、両親は私に決して妹にこのことを話すんじゃない、思い出させるんじゃないと、何度も念をおした。私はそれに従ったし、昭和の終わり頃結婚して東京に住む妹は今も何も知らないはずである。
その年の九月の終わり、 ひょっこりと京都に住む大叔父がY市の私の家を訪ねてきた。
この大叔父は岡山の祖母の弟で、つまり母の叔父にあたる。姉である祖母とは年が離れており、むしろ母に近くこの頃はまだ五十代になったばかりであったろう。かなり太っており、ずいぶん涼しくなったこの季節でも、暑そうに大きな手ぬぐいでしきりに汗をぬぐっている。先日の物置の片付けの時には出張中で手伝いに行けなかったことをしきりに母に詫びていた。 私は幼い頃から明るくひょうきんなこの大叔父が大好きで、大はしゃぎして、つい先日の妹の事件を口にしてしまった。妹本人は近所の友達の家に遊びに行って不在だったが、私の両親は明らかにこの話をしたくなかったようで、顔色が変わっていた。私もしまったと思ったがもう遅い。場の空気が変わったことを私は感じていた。
大叔父から笑顔が消え、真剣な顔でその茶碗を見せてほしいと言った。両親はこれを渋ったが、二羽の鶴の絵柄の茶碗なら是非と、話してもいない茶碗の模様まで指摘されてはやむを得なかった。大叔父が何か知っているなら知りたいという気持ちは両親にもあったのだろう。そこで万が一妹が帰宅してもその目に触れないよう、普段は使わない客間に場所を変え、母が別室から新聞紙にくるんだ茶碗を持ってきた。
大叔父は茶碗を手に取ると、かなり長い間じっとそれを見つめていた。私は大叔父の目が涙に潤んでいるのに気がついた。大人の泣く姿など見たことがなかった私は驚いてその顔をじっと見ていた。涙には両親も気がついていたろう。その時父が私の存在に改めて気がついたようで、暫く部屋を出て、妹が帰って来るのに注意を払ってほしいと言った。追い払われる私の不満そうな顔には気がついたようで、お前にだけは後できちんと話すからと約束してくれた。始めて見る大叔父の涙に気おされていた小学生の私は、不承不承ながら父の言を受け入れて客間から出た。……後日父は、約束通り大叔父から聞いた話を私に伝えてくれた。
太平洋戦争中の昭和十九年、大叔父の一家は横浜で暮らしていた。家は山の手で比較的裕福だったらしい。大叔父は四人きょうだいの末子で、一番上の姉、つまり私の祖母はすでに岡山の港町に嫁いでおり、長兄は妻と二人の子を残して召集され戦地にあった。下の姉は昨年東京浅草に嫁いだばかりだったが、まだ子はおらず、新婚の夫が召集されると同時に空襲が始まったので、横浜の実家に疎開を兼ねて帰ってきていた。そして末っ子の大叔父は帝大で気象学を学び、卒業後すぐ海軍管轄の気象観測所勤務となったために召集されることもなく、自宅から品川の観測所へ通っていた。 四人きょうだいの父親は早くに病没していたが、家には多少の財産があったので、母親――私の曾祖母は女手ひとつで家を守り、子を育て、娘達を嫁がせたのだった。
戦局はどんどん日本に不利になり、連日のように米軍機が来襲するようになる。東京も、川崎も、横浜市街も、焼夷弾で焼き払われ、多少安全な横浜山の手の家からは夜空を染めて燃え上がる街の有様を毎晩のように見下ろすことができた。
そんなある日、母親は二人の女の子を引き取ってきた。亡くなった夫の親友の子だそうで、その親友も南方で戦死、親戚と住んでいた東京の自宅も空襲で焼け、世話をしてくれていた親戚もその時に亡くなったとのこと。生前の夫とその親友の間に、もしもの時はという約束があったことを母親は覚えており、身寄りもなくし完全に孤児となった姉妹を放置することはできなかったようである。当時の食料事情はひどく、今の家族もやっと食べていけるかどうかという状況だったので、母親も相当迷ったようだが、やはり亡き夫の約束は守りたかったようだ。やってきた姉妹は十歳と五歳、最初はすっかり怯えて無口だったが、この家の人々は皆優しく、やがて打ち解けて長兄の子ども達のよい遊び相手となっていった。
しかしその年の暮れ、突然母親が病に倒れる。入院治療をせねば命にかかわるということだったが、連日の空襲に苦しむ東京横浜には、民間の重病人を受け入れるいい病院が見つからない。その時京都の親戚が病院を紹介してくれ、母親は下の姉とともに京都へ行くことになった。続いて千葉にあった長兄の妻の実家が空襲を受け、実の両親が大やけどを負って動けなくなったため、子ども達を連れて千葉に行くこととなった。
かくして横浜の家には、軍の気象観測所に勤務する大叔父と、その姉妹が残されたのである。大叔父はまだ若く元気で、京都に向かう母や姉、千葉へ帰る兄嫁達に、後はまかせてと胸をはっていた。しかし明けて昭和二十年早々に、その大叔父の元に転属命令が来たのである。サイパン島、硫黄島と南方の島々が次々に陥落し、当然そこの気象情報が入らなくなると、日本全体の気象予測に大きな支障が出る。そこで小笠原諸島父島の観測所を強化するための要員に選ばれたのだった。大叔父は軍人ではないが海軍管轄の軍属であり、この転属命令は断れない。家に幼い姉妹を残していくことになるが、今や最前線とも言える小笠原には単身で向かうしかなかった。やむを得ず、家に金とできるだけの食料を残し、隣近所にもいくらかの金と共に姉妹のことをくれぐれも頼み込んで任地へ向かったのだった。
横浜の家に姉妹二人きりになった後、大叔父が置いていった食料で一ヶ月あまりはしのいでいたようである。しかし都市部の食糧事情はますます悪化してくる。ある日近所の者が姉妹を訪ね、米を少々貸してくれるよう頼んできた。隣近所の保護を受けている身である姉妹には、この頼みを断れるはずもない。……これをきっかけに続々と近所の者が、米や麦、金まで借りていくようになった。中には気がとがめるのか、古着など置いていく者もいたが、そんなものが姉妹に役立つわけがない。梅雨入りの頃には二人の為に残されていた食料も金もほとんど底をついてしまった。姉が幼い妹を連れ、貸した米を返してほしいと頼んできても、どの家にもそのゆとりはなく、扉さえ開けようとしない家もあった。幼い姉妹が餓えている様は近所の者にもわかっていたし、その責任も感じてはいたが、どこも苦しく今更どうしようもなかったのである。梅雨が明けていつものような暑い夏がはじまったが、その頃には、気まずさからか姉妹の様子を見に来る大人は誰もいなくなっていた。
ある日近所に住む少年が、自分と年も近い姉妹が幾日も姿を見せないことが気になり勝手口から中を覗いたそうである。七月にしてはどんよりと曇った蒸し暑い日で遠くに雷鳴が聞こえ、一雨来てくれればと思えるような昼下がりだった。 少年の目は薄暗い台所に姉妹の姿を認めた。
「さあ、たくさんお食べ」と姉の声がする。食べ物があるのかと少年は目を凝らす。少年も空腹だった。しかし姉の手には空の茶碗。そこへ空っぽの鉄鍋から杓子で大切そうに何かをすくい上げて入れて妹に渡す。渡す手も受け取る手も骨と皮ばかりにやせ細っていた。妹は土色の顔をしていたが、それでも歯を見せて嬉しそうに笑い、何も入っていない茶碗を箸でかきまわし何かをむさぼるように食べ始める。それをやはり土色の顔で見守る姉。……少年はおののいた。姉妹はままごとで遊んでいるのではない。演技しているのでもない。真の狂気がそこにあった。姉妹は飽きることなく、幾度もそれを繰り返している。
少年は一度そこを離れ、夕方になって降り始めた雨の中、もう一度姉妹の様子を見に来た。雨が屋根を叩く音が響く台所の板の間で、二人はまだ同じ姿勢で同じ動作を繰り返していた。恐怖に駆られた少年は声をかけることもできず自分の家に駆け戻る。結局親にも何も話せなかった。
翌朝には雨も上がる。みたび様子を見に来た少年は、格子戸から細く斜めに朝日の差し込む中、息絶えている姉妹を見つけたのだった。食器はきれいに洗われ流しの横に伏せてあり、姉妹が最後に使っていた鶴の茶碗もその中にあった。
そして八月十五日が来て戦争は終わる。実感のわかぬ平和と、リアルな混乱の時代を迎える。小笠原から帰還した大叔父は、姉妹の死を知り、詳しく語ろうとしない近所の住人を問い詰め問いただして何が起こったかを知る。ただ戦時下のあの時代のこと、顔見知りでもある近所の人々をそれ以上責めることもできなかった。
母親の病気は回復が遅れ、なんとか京都から横浜に戻れたのは年が明けてからだった。大叔父は近隣住民が姉妹にした「しうち」について母親には告げることができず、ただ亡くなったことのみ伝えたので、母親は墓まで建てて供養してくれた近隣住民に感謝するばかりだった。終戦を満州で迎えた長兄はソ連軍によってシベリアに抑留され、最後は大陸の土となった。兄嫁は千葉で終戦を迎え、そのまま実家で兄の復員を待っていたが、帰らぬ事がわかると子連れで別の男性と再婚してしまう。母に付き添って京都に行っていた下の姉は、夫が無事復員し、しばらくは横浜の家にいたが、やがて大阪に職場を得て夫婦でそちらに引っ越していった。
歯が抜けるように人が少なくなった横浜の家で、昭和二十六年に母親が亡くなる。その母親の葬儀に加えてシベリアで死んだ兄の供養をした際、久々に岡山から上の姉つまり私の祖母が横浜に帰ってきた。その時、形見分けも行ったようだ。例の茶碗が岡山に行ったとすればその時としか考えられない。
母親の葬儀を終えた後、気象庁に勤務していた大叔父は横浜の家を手放し、希望して関西に転勤する。正直、あの家には住みたくなかったと、私の両親には話したらしい。
鶴の茶碗にまつわる戦時中の悲しい物語を私の両親に語った後、大叔父はその茶碗を京都に持ち帰った。もちろん両親に異論があろうはずが無い。その後大叔父には幾度か出会ったし、私から茶碗のことを尋ねたこともあったが、彼から返事がもらえることはなかった。 その大叔父も岡山の祖母も、平成という時代を知らず世を去った。そのまま茶碗の行方はわからない、はずだったのだが……
それは今、還暦前の私の手にある。同じ家の中だが半世紀ぶりの再会となる。あの時大叔父が持ち帰ったはずのものが、なぜここにあるのかわからない。もし何かの事情があるのなら、私の亡き両親が係わっているはずだが、私は何も聞かされてはいない。ただ、その両親も知らぬうちに茶碗が私の元に戻ってきたのだとしたら……餓えて死んでいった姉妹の念が込もった鶴の茶碗である。今になって突然私の前に現れたのは何か意味がある、はず……?
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