第2話
向月は善は急げとばかりに前日着たまま寝た皺くちゃの着物を脱ぎ新しい着物を引き出しから取り出すと慣れた手つきで着付けをし脱いだ着物を着物用のハンガーに掛けた
手早くパッパッと手で挟んで叩き雑にシワを伸ばすと取っておきらしい新しい足袋を履いた
「いいか!勝負時ってなぁ足元が大事なんだ」
一連の師匠の動きに何も出来ずオロオロしていた藤枝は不意の一言に驚いて
「はい! 勉強になります」
と勢いのまま返事した
「ふっ いい返事だ よし行くぞ 着いてこい!」
件のボロアパートを勢いよく飛び出し
平日の通勤ラッシュが過ぎた静かな午前中
中年の男と若い男が鼻息荒く早足で歩いている
いつもなら鼻歌混じりにテレンテレンとご機嫌に闊歩する向月なのだが この日は違った
普段嗅いだことの無い金の匂いが濃厚にする
藤枝が見せた画面の通りなら今日は人生最大のチャンスである
高座に上がる時でもこれ程高揚するこたぁねえ
「おい 藤の字 てめぇ いい所に来てくれたな」
まだ見ぬ戦果に興奮した様子で藤枝に声をかける
「?! 藤の字? 僕の事ですか?」
動揺しながら返事をするがその呼ばれ方に距離が近ずいた様に感じ思わず笑顔になってしまった
「おうよ ! でももし嘘だったら承知しねぇからな」
怒鳴り気味の大きな声だがご機嫌な様子が伺える
憧れの落語家にアダ名を付けて呼んで貰えた
僕を僕として認識してくれている
藤枝の心にはじんわりとした暖かさと喜びが広がった
最寄りとはいえ20分は早足で歩きJR神田駅に着いた頃には2人とも汗が滲んで少し息も上がっていた
向月は慣れた手つきでPASMOで改札を抜ける時 藤枝が後ろにいない事に気づいた
少し見回すと切符を買っている
何だ?あのヤロウ今どきの若いもんの癖に切符かよ
俺だってこんなの持ってんのに
遅れて改札を抜け合流するとにやけ顔の向月が
「コノヤロウ 今どき切符か?」
「ははっ すみません普段電車使わないもので」
申し訳なさそうに照れ笑いを浮かべた藤枝が頭を掻きながら謝った
ここまで来たら急ぐ理由も方法も無いのでホームに向かう道すがら少し話した
「ところで 藤の字はなんで落語なんかに興味を持ったんだい?」
最近こそ幾分勢いを取り戻してるとは言え落語はやはり今となってはマイナーな文化である
純粋に落語に触れる機会は少ないはずだと思い向月は聞いてみた
「師匠は昭和元禄落語心中ってマンガご存知ですか?」
何か申し訳なさそうに尋ねる藤枝の言葉にははーんと思い当たった
「知ってるよ ありゃアニメにもなったかでそれ以降若い客が寄席に来てるもんな」
ブーム(?)直後に寄席で「死神」掛けたとき若い女の客が「ひゃっ!」て息を飲んで口に手を当てていた 若い女が喜ぶ様な噺でもないのに何なんだと思い 噺を終えて楽屋に戻ると冬月(とうげつ)兄さんの弟子っ子が理由を教えてくれた
「そのマンガの中で死神は割と重要な噺なんですよ」
「でもそのお客さん 本当は冬月師匠で聴きたかったかも知れないですね」
何でもそのマンガに出てくる八雲師匠って奴が
冬月兄さんの雰囲気に似てるらしく一時期兄さんの周りに若い女がよく付いていた
「兄さんじゃなくて悪かったな」
弟子っ子の耳を軽く抓り上げるとイテテと反応した
フンと首を振って視線を向けると様子を聞いていた冬月兄さんが呆れた顔で
「向月 相変わらず大人気ないね 若いヤツの戯れ言なんか気にするんじゃないよ」
「こら 山下! 失礼な物言いをするなんてまだ修行が足りないようだね 向月にちゃんと謝んな」
いつもの静かで柔らかな口調でしっかり2人してお灸をすえられた…
事を思い出し なんだかなぁと居心地の悪い気分になってると
「入口はほんとにミーハーな事だったんです」
藤枝は気恥づかしげな様子で頭を掻いた
「でも そこから落語を見る様になって 面白くて 寄席にも通うようになりました」
「そこで向月師匠の落語を見せて頂きました」
「向月師匠の噺はどれも面白くて」
「向月師匠のおかげで落語好きになったんです」
たどたどしく 言葉を選びながら でも上手く伝わらないもどかしさ
でも落語が好きな気持ちは嘘ではないと感じた向月はこの男を好意の目で見つめていた
ホームで電車を待ちながら2人並んでどこを見るでもなく佇んでいると
「向月師匠は何で落語家になられたのですか?」
珍しく藤枝の方から声をかけてきた
……理由か
不意を突かれたからなのか急に静かに考え込むような様子で目を閉じた向月は
昔の事を思い出していた
顔を上げて目蓋を開いた
「……まぁ 色々あらぁな 理由なんてよ」
いつもの歯切れの良さなくしんみりとした口調に聞いてはいけない事だと察した藤枝は
「すみません 不躾な質問でした」
と慌ててこっちに向かって90度のお辞儀をした
「構わねぇよ そりゃ気になるわな」
昔の事を聞かれるとどうしてもいつもの向月ではいられない
いけねぇな 情けない
心の中で呟きながら自嘲した
少し気まずい空気を押し流すかの様にその時電車が滑り込んだ
この空気はいけねぇ
これから一世一代の絶対勝てる勝負に挑むんだから
ここは一つ気持ちを切り替えねぇと
電車に乗り込むといつもの調子で向月が藤枝にケータイを見せろと言い出した
2人してケータイの画面を見ながら間に合うレースの結果を見る
第5レースは硬い結果だ
しかし3連単なら7.3倍
ここからの全部のレースで勝ちを重ねれば……
……
……
おいおい下手すりゃ4桁乗るぞこれ
人の業を全部乗っけたかのような不気味な笑顔に
隣にいた藤枝は全力で引いていた
「師匠? 顔がえらいことになってますよ」
おそらく藤枝の人生において見たこともない表情でそこはかとない恐怖を心に植え付けてるのも構わず邪悪な笑顔を向けて向月は続ける
「そりゃそうさ こんなに簡単に大金が懐に転がり込むんだ にやけもすらぁな」
算段の平兵衛がいるならこんな顔なんだろうというくらいの邪悪さで答える向月はもう落語家では無く欲にまみれた何かだった
神田駅を出て品川駅で乗り換え大森駅まで向かう途中の事
「えっ? 大森で降りるんですか?」
驚いた顔で藤枝は向月に聞いた
「あっ?普通平和島行くなら大森で降りてシャトルバスだろーが」
こいつ 本当に平和島競艇場行ったことあんのか?
何気ない一言に疑念が大きくなる
「おい 藤の字よ おめぇ俺に嘘ついてんじゃねーだろーな?」
さっきまでとは違う意味の怖い顔で藤枝を睨みつけた
そもそもこいつの未来予想だって本来有り得ない
よくよく騙されてると考えるのが普通だ
さっきまでの高揚感がさーっと引いて行くのを感じながら でも俺はこいつを信じた
何故だ?
理屈じゃ無いものをこいつの言葉に感じたからだ
本当こいつ何なんだ?
考え事をしながら藤枝を睨みつけていると
モジモジしながら藤枝は申し訳なさそうに
「あの すみません よく考えたら今JRですよね」
「京浜の平和島駅で降りてたので京浜の大森だと遠いなと思って」
「勘違いしてました すみません」
所在無さげにぺこりと頭を下げる藤枝を見てただの勘違いだった事にホッとした
と同時にそうかと合点した
競艇では間違いなく勝てる でもそれはこいつを心底信じてこそだ
つまり俺はこいつを信じるって事に賭けている
とどのつまり やはり結果の見えた博打ってぇのはねぇって事だ
「おもしれぇじゃねぇか」
思わず独り言ちてニヤリと顔が歪むと藤枝は答えが気に触ったのかとオロオロしながら向月の顔色を伺った
大森駅の改札で藤枝の切符の料金が足りず止められるトラブルはあったものの無事通過して
いつもなら乗らない有料のシャトルバスに乗り込んだ
「これから勝負事って時に初めから躓くんじゃねーよ」
こういう博打を打つ時は最初が肝心なんだと藤枝の些細なミスをなじりながら申し訳なさそうにぺこぺこする姿を見て二人でいる事が少しずつ板に付いてきたような気がして向月は少し愉快な心持ちになった
バスを降りて海辺の香りを感じながら二人で揃って競艇場に入った
「ここからが本番だ ぬかるんじゃねーぞ」
前を歩き まるで討ち入りでもするかの様な向月の言葉に緊張したのか
「はい!頑張ります!」
無駄に大きく気合いの入った声で藤枝が答えた
尤も藤枝有りきの勝負事で向月が常に偉そうに仕切ってるのもおかしな話だがこの二人の場合はその方が互いにいいのだろう
傍から見ればもう立派に師匠と弟子であった
ズカズカと舟券売り場まで進んでいると馴染みの奴らとすれ違う
「よっ 昨日あんなにお布施したのにまたお参りかい ? 信心深いね」
カップ酒とイカ焼きを両手に持ちながら未だに何の仕事をしてるのかも分からない歯抜けのヒーさんが
ニヤニヤしながらからかってくる
「はっ! 言ってろ!今日は今までお布施した分以上の御利益を授かりに馳せ参じたんだよ」
やはり噺家皮肉に被せて綺麗に言い返した
「あ~あ 遂に頭の中までイッちまったか ご愁傷さま」
カップ酒とイカ焼きを避けながら器用に手を合わせたヒーさんに
「その汚ぇ耳の穴かっぽじってよく聞けよ! 今日の俺には福の神がついてるんでぇ」
いつにも増して威勢のいい向月に周りの馴染みも
興味津々だった
「そりゃ結構だね 俺にも幸運分けてくれよ」
「止めとけ 近づくと貧乏神擦り付けられるぞ」
「今日も威勢だけはいいな もし今日勝てれば帰りのバス賃奢ってくれ 」
まぁ良くもこれだけ口の悪い輩がこんなにいるものだと藤枝は呆れと共に感心した
まるで落語の長屋の花見だ
落語の登場人物が今も居る事に心の底から感動していた
落語の世界は今も生き生きと目の前にあると
尤もお近ずきにはなりたく無いが……
しかし誰よりも落語そのものの向月師匠に弟子入りを志願している自分はもしかしたら最も愚かな与太郎なのかも知れない
「与太郎か……悪くないかも」
独り言ちると視線を感じ顔を上げると向月がじっとりした目でこちらを見ていた
「おい こら 藤の字!」
「てめぇは今俺の相棒で運命共同体だ!」
「生きるも死ぬもおめぇ頼りだ!」
藤枝にも自分にも言い聞かせるように勢いよく言い放って向月は藤枝の肩に両手を置いた
「さぁ 必ず勝てる勝負を始めるぞ」
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