第56話 草津温泉 1

 12月の初め。空気がきりりと冷えはじめた早朝、相沢家の台所には湯気が立ち込めていた。


「それじゃあ、準備はいいか」


 朝食の食器を片づけながら、誠司がぽつりと言う。


「ほんとに一週間もお休みとれたのねぇ」


 芳子が感慨深そうに笑った。


「年に一度の草津温泉。楽しみねぇ」


「モモッ!(たのしみ!)」


 テーブルの端では、既に自分用の小さなリュックを背負ったモコが、尻尾をぶんぶん振っていた。リュックの中身はお気に入りのおやつと、ショルダーバッグには、非常時おやつの焼き芋とお守りの地脈胎糸ちみゃくたいし


「モモ?(ゆき、みられる?)」


「見られると思うぞ。もうそろそろ積もってる頃かもな」


「モモ!モモッ!(ゆき!さわる!)」


 誠司が苦笑しながら車の鍵を握る。

 今回は、相沢家恒例の湯治旅行であり、同時にモコの“ボス初踏破記念”でもあった。

 十階層のランダムボスを、ついに一人で打ち倒したモコの成長を祝う意味も込めて、少し遅めの温泉旅行だ。


 例年なら紅葉の盛りに行く草津温泉。

 だが今年は、ゴブリン軍団騒動と、黒淵核石、モコのボスリベンジ戦で、日程が2度も3度もずれ込んだ結果、12月上旬になってしまった。


「さ、モコちゃん。車、寒いからブランケットね」


「モモ〜(ありがと、よしこ)」


 モコは、SUVの後部座席に設えられた“モコ専用シート”にぴょんと飛び乗り。座った瞬間、もふっと身体を受け止めてくれた。


「モモモ……(これ、すき……)」


「作らせて正解だったな」


 シートベルトを確認しながら誠司が小さく頷く。


「誠司。運転、頼んだわよ」


「了解」


 エンジンが静かに唸り、車はゆっくりと家を後にした。



 高速道路を走るうちに、景色はどんどん変わっていく。

 最初は見慣れた街並み。やがて背の高いビルが減り、代わりに山の稜線が近くなっていく。


「モモモ(やま、いっぱい……)」


 モコは窓の外に顔を寄せる。

 専用シートのおかげで、体勢を崩さずに景色だけを楽しめる。


「今年はちょっと遅くなっちゃったけど……冬の山も、いいものよねぇ」


 芳子が窓越しに白い息をふっと吐いた。

 サービスエリアで一度休憩を挟み、再び車が山道を登り始めた頃、フロントガラスの向こうに、白いものがふわりと舞い落ちた。


「あ……」


 芳子が小さく声を漏らしたのと、モコの尻尾が跳ね上がったのはほぼ同時だった。


「モモッ!!(しろいの!!)」


 フロントガラスに細かな雪が当たり、すぐに溶けていく。


「雪か」


「モモモ(ゆき!ほんもの!)」


 サービスエリアの駐車スペースに車を停めるなり、モコは専用シートから飛び降り、誠司に抱えられて外に出た。


 冷たい空気。

 ふわ、ふわ、とゆっくり舞い落ちてくる白い粒。


「モモ……(つめたい……きれい……)」


 モコは前足をそっと伸ばし、空中で雪を受ける。

 手の甲に乗った雪は、触れた瞬間、とけて小さな水滴に変わった。


「風邪ひくぞ。ほどほどにな」


「モモッ(はーい)」


 目をきらきらさせて雪を追いかけるモコを見て、芳子は「かわいいわねぇ」と頬を緩ませ、誠司は少しだけ口元を緩めた。


 再び車が走り出す頃、山の斜面はところどころ白く化粧され始めていた。



 やがて、硫黄の匂いが車内にうっすらと入り込んでくる。


「着いたな」


 草津温泉街の入口に差し掛かると、湯けむりがあちこちから立ち上り、独特の湯の香りが空気を満たす。

 観光客向けの看板や土産屋の看板が並ぶ中を抜け、誠司の車は、坂道を上った先の一際大きな旅館の前で止まった。

 その瞬間、モコは目を丸くした。


「モモッ!?(なにこれ!?)」


 玄関前。

 旅館の従業員たちがずらりと整列し、その足元には赤い絨毯が玄関までまっすぐ伸びている。


「……やりすぎだ」


「ほんとねぇ……」


 誠司と芳子が揃って苦笑した。


「相沢様、ようこそおいでくださいました」


 上品な和服を纏った女将が、深々と頭を下げる。

 その背後で、若女将や仲居たちが一斉に会釈をした。


「モモモ……(すごい、えらいひとになったみたい……)」


 モコは尻尾を揺らしながら、胸を張って赤い絨毯の上を歩く。

 その姿を見て、従業員たちは「まぁ……かわいらしい」と小さくざわめいた。


「いつも大変お世話になっております。今年はお越しが遅いので、少し心配しておりました」


「ちょっと色々あってな。いつも通り、静かに過ごさせてもらえればそれでいい」


「とんでもございません。相沢様には、いつも“この街の守り”を……」


 女将はそこまで言って、言葉をそっと飲み込み、誠司へだけ意味深な微笑みを向けた。

 その視線には「“例のお部屋”をご用意しております」という静かな合図がある。


 誠司もまた、ほんのわずかに頷いた。


(……一泊、一千万円の特別貴賓室だな)


 モコは意味が分からず、きょとんと誠司の袖を引っ張る。


「モモ?(なに?)」


 芳子は女将の柔らかい所作を眺めながら、“そこそこ良いお部屋なのね”と勝手に脳内で計算していた。


(一泊百万円くらい……かしら?

 誠司もたまには散財するのねぇ……)


 誠司は女将にだけ聞こえる声で、小さく告げる。


「……いつも通りでいい。

 母とモコには、なるべく“細かい話”はしないでくれ」


 女将は慎ましく、しかしはっきりと頷いた。


「かしこまりました。どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」



 案内された部屋は、ため息が出るほど豪華だった。

 広々とした和室に、重厚なソファセットのある応接間。

 窓の外には雪をかぶった山々と、湯けむり立つ街並みが見下ろせる。

 奥には専用の露天風呂まであり、岩組みの湯船からはほんのりと湯気が立ち上っている。


「モモモーー!!(ひろいーー!!)」


 モコは畳の上をぴょんぴょん跳ねながら、部屋の隅から隅まで走り回る。


「こら、転ぶぞ」

「モモッ(だいじょうぶ!)」


 座卓の上には、既にウェルカムフルーツと上生菓子、そして高級そうな煎茶のセットが並べられていた。


「誠司。ほんとに……こんな贅沢、いいの?」


「年に一度だからな。それに、今年はモコもボスを倒した記念だ」


 そう言って、誠司はさりげなくモコの頭を撫でる。


「モモ……(えへ……)」


 尻尾がぱたぱたと畳を叩いた。



 夕暮れ時、まずは温泉へ。

 貸切の大浴場は、外の冷たい空気と湯気の温かさが心地よく混ざり合っていた。


「モモ〜〜……(とろける〜〜……)」


 モコは浅めの岩風呂で、半分溶けたような顔をして湯に浸かる。

 肩まで浸かると、ふわふわの毛が少しだけしんなりして、いつもよりひと回り小さく見えた。


「誠司、いいお湯ねぇ」


「あぁ。さすが草津だな」


 湯けむりの向こうで、芳子は頬をほんのり赤く染めながら、肩をぐるりと回している。


「モモ(よしこ、かお、まっか)」


「ふふ、温泉に入るとね、血の巡りがよくなるのよ」


「モモ〜(ふしぎ〜)」


 岩の陰では、モコのショルダーバッグが湯気にあてられながらちょこんと置かれていた。

 その中に入った地脈胎糸は、微かな土の光を宿しながら、温泉の熱をゆっくりと吸い込んでいた。



 夜。

 専用の食事処に案内されるとモコは思わず固まった。

 目の前のカウンターには白木の板場。

 握りたての寿司を用意する板前。

 その奥には、鉄板焼き専用の鉄板と腕の良さそうなシェフ。

 さらにカウンターの端には、琥珀色の液体を宿したボトルが一本。


「本日は相沢様のご来館と……モコ様のボス初踏破記念といたしまして」


 ソムリエらしき男性が恭しくボトルを掲げる。


「幻の国産ブランデー、《崎山百年物》でございます」


「幻の……? あら、赤坂さんからいただいたのと同じ名前ねぇ。あれって……そんなに高かったの?」


 芳子は目を丸くした。


「さすがに今日は特別だな」


 誠司が少しだけ肩をすくめた。


「モコ様には、温泉水を使った特製のフルーツカクテルをご用意しております」


「モモッ!?(なにそれ!?)」


 運ばれてきたグラスには、うっすらと湯の花の香りを纏った炭酸水に、細かく刻んだ果物が浮かんでいる。


「かんぱいしましょ」

 芳子がグラスを掲げる。


「今年も一年、無事に過ごせました。モコちゃんもボスを倒してくれて……ありがとうね」


「モモッ(かんぱい!)」


 グラス同士が軽く触れ合い、小さな音を立てた。


 寿司職人が握るトロは、口に入れた途端、溶けてなくなる。

 鉄板の上で焼かれるステーキは、表面は香ばしく中はとろける柔らかさ。

 旬の野菜を使った料理も並び、テーブルはまさに“贅沢の極み”といった様相だった。


「モモモモモ……(しあわせがくちのなかではじけてる……)」


 モコは、ひとつひとつの料理に目を丸くしていた。


「そんな表現どこで覚えたのよ」

 芳子が笑い、誠司もわずかに肩を揺らす。


 崎山百年は、琥珀をさらに深く煮詰めたような香りを放ち、ひとくち含んだだけで、誠司の心までもじんわりと温めていった。


 そして夜。

 ふかふかの布団に案内されたモコは、一度飛び込んでから、もそもそと起き上がった。


「モモ……(きもちいい……けど……)」


「どうした」

 誠司が枕を整えながら首をかしげる。


「モモモ(おふとん、すっごく、ふかふか……でも……)」


 モコは少しだけ遠くを見つめ、ぽつりと言った。


「モモ(やっぱり、モコラックスのほうが、すき……せいじがつくってくれたから……)」


「……そうか」


 誠司の声がほんの少しだけ柔らかくなった。


「帰ったら、またあのベッドで寝ればいい。ここはここで、温泉と飯を楽しめ」


「モモッ(うん!)」


 尻尾を一度ぶんと振り、モコは布団に潜り込んだ。



 二日目。

 朝風呂と豪華な朝食を楽しんだあと、三人は草津の町へ出かけた。


 車に乗り込むとき、モコはすっかりお気に入りになった専用シートに自分から飛び乗り、シートベルトをカチリと留めてもらうと、窓の外をわくわくした顔で見つめる。


「モモ(きのうのゆき、もっとあるかな)」

「湯畑のあたりは積もってるかもしれないな」

「モモモ!(ゆき!ゆき!)」


 湯けむりに包まれた湯畑に着くと、観光客たちのざわめきと、雪を踏みしめる小さな音が混ざり合っていた。


「まぁ、うっすら雪化粧ねぇ」

「足元、気をつけろよ」


 モコは、雪の上にちいさな足跡をぺたぺた残しながら、はしゃぎ回る。


「モモモ〜(あしあと、ならんでる〜)」


 ショルダーバッグに入った地脈胎糸が、雪の冷たさと、湯けむりの暖かさ、その両方を不思議そうに吸い込みながらかすかに脈打った。


 湯畑の脇では湯もみショーが始まっていた。


「それではご一緒に〜♪」


 湯もみ板を手にしたお姉さんたちが歌い出し、観光客も一緒に声を合わせる。

 モコはそのリズムに合わせて、前足をぱたぱたさせた。


「モモモ(ちゃっぽんちゃっぽん〜)」


「モコちゃん、リズム感いいわねぇ」


「モモッ(モコ、うたもおどりもすき!)」


 そのあと、射的屋に立ち寄ると、モコの目がきらりと光った。


「モモッ!(これ、やる!)」


 店のおじさんが目を丸くしたが、「お子さん用の軽い銃だ」と言って、おもちゃのゴム銃に変えてくれた。


 ちょこんと台に前足を乗せ、真剣な顔で狙いを定めるモコ。

 ぱすん、と放たれたゴム弾は、見事に景品のぬいぐるみを撃ち落とした。


「おぉ、やるじゃねぇか。ほら、これ持っていきな」


「モモッ!(やった!)」


 景品の小さな温泉まんじゅうのぬいぐるみを抱きしめて、モコは誠司の方を向く。


「モモ(せいじ、みた?)」


「ああ、よく狙えてたな」


「モモモ!(えっへん!)」


 芳子はその様子を見ながら、嬉しそうに目を細めた。


「こうして三人で歩くのなんだか夢みたいねぇ」


 湯けむりの向こうに見える街並み。

 雪の白と湯の湯気と人々の笑い声。

 相沢家のささやかだけれど贅沢な冬の時間。


 その夜もまた、三人は旅館の露天風呂に浸かり、星空を見上げながら他愛もない話をした。


 モコは湯船の縁に顎を乗せ、ゆらゆらと尻尾を揺らしながら言った。


「モモ(せいじ。モコ、ボスたおしてよかった)」


「そうだな」


「モモ(つぎはもっとつよくなる。せいじとよしこ、まもる)」


 誠司は少しだけ視線を横に向け、湯気の向こうのモコを見つめた。


「……頼もしいな」


「モモッ!(えへへ)」


 そんな他愛ない会話と湯の音と雪の静けさ。


 草津での一週間は、きっと、モコの心と相沢家の絆にやさしい“温度”として刻まれていくはずだ。

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