第36話 ハロウィン
10月31日、土曜日。
秋晴れの空を抜ける風は、ほんの少しだけ冬の匂いを含んでいた。
相沢家の庭には、朝露をまとった落ち葉が薄く積もり、栗の木の枝には最後の実りが小さく揺れている。
誠司は朝の散歩を終え、いつものようにモコと縁側でほうじ茶を飲んでいた。
「今日はなんだか、街が浮ついてるな」
「モモ?(なんで?)」
「ハロウィンだ。子どもたちが仮装して歩く日。お菓子をもらう日でもある」
「モモッ!!(おかし!?)」
モコは耳をぴん、と立て、尻尾が高速で揺れ始める。
「……そうなると思ったよ。お前は食い物のことしか考えてないな」
誠司は苦笑しつつ、湯呑みを置く。
相沢家の縁側には、ほうじ茶の湯気と秋の淡い陽光が落ちている。
誠司は湯呑を片手に、まだ眠そうなモコの額をやんわり撫でていた。
尻をぶんぶん振るモコを見て、誠司は小さく笑った。
その時……
ピンポーン。
長屋門の方から控えめながら上品な来訪の音。
「……マリアさんか」
誠司は立ち上がり、土間を抜けて門へ向かう。
木戸を開けると、そこにはスーツスタイルのマリアが立っていた。
「おはようございます、相沢さん。お休みなのに朝早くからすみません。お預かりした
凛とした立ち姿、ブロンドの髪が秋光を柔らかく返す。
しかし、その眼差しには見慣れた理知と……ほんのわずかな期待。
「マリアさんこそ、今日は休みじゃなかったか?
こんな朝から無理して来なくてもよかったんだぞ。……仕事熱心なのはいいがちゃんと休まないと倒れるぞ」
誠司は少し眉を和らげ、心底気遣う声音で言った。
マリアは瞬きし、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。
「……大丈夫です。相沢さんのところなら休みに来ても疲れませんから」
すぐに慌てて付け加える。
「い、いえ、その……! 仕事の報告があって……!」
誠司は苦笑しながら首を振り、柔らかい声で言った。
「無理に取り繕わなくていいぞ。ほら、外は冷えるから上がってくれ」
「……はい。お邪魔します」
家にあがった直後、モコが駆け寄る。
「モモ!(マリア!)」
「ふふ、会えて嬉しいわ。おはよう、モコちゃん」
マリアがしゃがんで抱きしめると、モコは彼女の胸にぐにゃりと埋まって「モモモ……(しあわせ……)」と溶けた。
玄関から居間へ通されると、すぐに芳子が明るく振り向いた。
「まあまあ、マリアちゃん。よく来てくれたわねぇ。今、お茶いれるから座ってて」
「ありがとうございます。どうか本当にお気遣いなく。あ、これ……オークションレポートと落札額の明細です」
マリアはかしこまった調子で、整然とまとめた封筒とタブレットを差し出した。
「結果から言いますと……《焔核石》は、現行市場最高額。
落札者は国営武装開発研究所。特別予算枠で購入したようです」
「予想よりも高かったな」
「相沢さんが“良い状態で保管していた”ことが評価されました。純度も、構造の歪みも皆無。……正直、私でも震えました」
「そうか」
誠司は余計な驚きも感情も見せず、ただ受け止める。
それを見て、マリアは胸の奥にぽっと灯るものを感じた。
(この人……本当はどれだけ上へ行けるんだろう)
⸻
お茶を淹れ終わった芳子は、湯呑を置いてにこやかに聞く。
「そういえばマリアちゃん、彼氏はいるの?」
「ぶっ……!? な、な、なんでその話に……」
「だってこんなに綺麗なんだもの。周りの人が放っておかないでしょう?」
「い、いえ、その……いません。あの、仕事が忙しくて……」
「じゃあ好きなタイプは?」
マリアの視線が、一瞬だけ誠司へ自然に吸い寄せられた。
(……しまった)
芳子 「……あらぁ」
その“あらぁ”は、50年間母親をやってきた女の勘が乗っていた。
誠司はというと何も気づかず急須を片付けている。
(……この人、ほんとに天然無自覚なんだからっ)
マリアは耳まで真っ赤になりつつ、どうにか答えを捻り出す。
「……静かで、頼れて、でも、あったかい人……です」
「それ、うちの子じゃないの」
「母さんやめろ、マリアさんが困っているだろ」
「モモッ!(せーじ!かっこいい!)」
「やめてくれ」
本気で困っている誠司。
しかし、その困り方は不器用な優しさの形そのものだった。
マリアは視線をそっと落とす。
その横顔は少しだけ笑っていて、少しだけ切なかった。
⸻
その時……
ガラガラッ!
「誠司くん! モコちゃん! ……あら、赤坂さんのところのマリアちゃん!? 久しぶりね、今日も相変わらず美人さんねぇ!」
「酒井さん、おはようございます……!」
玄関には、商店の女将・酒井さん。
両手に紙袋を抱え、いつもの調子で明るく笑っている。
「うちの店の前で『仮装パレード』するんだけどね、今年はモコちゃんに“特別ゲスト”になってもらおうと思って!」
「モモッ!?(わたしが!?)」
「……勝手に決められているな」
「いいじゃないの。町内の子たち、みんなモコちゃん大好きなんだから。そりゃもう、『会える神様』くらいの扱いよ?」
誠司はため息をつく。
否定はしない。いや否定できない。
実際、モコは子どもに大人気だった。
畑でモコに撫でられた子は風邪をひかないとか、落ち込んだ子がモフヒールされて泣きながら笑顔になるとか、そういう話が広まっていた。
(……まぁ、悪いことじゃない)
「モコ、行きたいか?」
「モモッ!(いきたい!)」
「なら決まりだな」
「よっ!話が早くて助かるわ!」
⸻
昼前。
芳子が押入れから箱を持ってきた。
「昔、お隣の子に作ってあげた仮装が余っててね。サイズも似てるし……ちょっと着てみる?」
「モモ?(きる?)」
芳子はにっこり笑い、箱を開けた。
中から出てきたのは、白くふんわりした“天使のケープ”。
「はい、モコちゃん、じっとしてね。……よいしょっと」
モコは素直に前足を上げ、芳子がケープをそっと羽織らせる。
ふわり。
白い羽根飾りが肩に沿い、モコの丸い背中を包み込んだ。
「あら、やっぱり似合うわね!」
「モモ……(てんし……?)」
「うちの子はもう天使みたいなものだからねぇ」
芳子は本気で言っている。
誠司は少しだけ咳払いし、目線をそらした。
「……まぁ、似合うな」
「モモモ!(にあう!!)」
ケープを翻しながら、モコは自分で一周回ってみせた。
純白の毛玉天使が完成した瞬間だった。
くるりと羽根飾りケープを羽織った瞬間、マリアと酒井、そして庭先の鳥まで固まった。
「「「かわいい……」」」
酒井はその姿を見た瞬間、「店が潰れるくらい人来るわコレ」とガチの声を出した。
誠司は小さくため息をつきながらも、
「……似合ってるぞ」
「モモモッ!!!(しあわせ!!)」
尻尾の振動で床が小さく震えた。
⸻
午後3時。
商店街は子どもたちの笑い声で賑わっていた。
手作りの飾り、南瓜ランタン、焼き芋の匂い。
「モコちゃんだ!!」
「ほんものだー!!」
ちびっ子たちがわっと集まる。
モコはちょこん、と座り、「モモ(こんにちは)」と喉を鳴らしただけで、
「「「かわいいいいいい!!!」」」
周囲から爆発するような歓声。
そしてお約束。
「なでてもいいですかっ!?」
マリアはモコの横で、にこやかに子どもたちへ声をかける。
「順番にね。押したらダメよ」
「「「はーい!!!」」」
その姿はまるで“モコの秘書”のようであった。
子どもはちゃんと一列に並び、一人ずつ撫でるごてに、「なんかあったかい……」、「元気でてきた……!」、「泣きそうだったけど、もう泣いてないや……!」という声がもれた。
モコはと言えば、「モモモ(がんばる……みんな……えがお……)」とちょっと誇らしげだった。
酒井は涙ぐんでいた。
「ほんとに……うちの街の神様だわ……」
モフヒールを受けた子はみんな笑顔になる。
街中の空気が“あたたかくなる”とは、こういうことだった。
「……これがあなたが守っている日常なんですね」
マリアが静かに言う。
「俺が守ってるんじゃない。みんなで守ってるんだ」
誠司はモコの頭を撫でながら答えた。
その横顔は、どこまでもまっすぐであたたかかった。
(……ああ。好きになるわけだ)
マリアはようやく、自分の感情を言葉にできた気がした。
⸻
夕焼け。
酒井さんが焼き芋を割る。
「モコちゃん、どうぞ」
「モモモモモ~~~~(しあわせ~~~)」
虹が見えた(誠司談)。
「モモ(せいじ)」
モコが顔を上げる。
「モモモモモモ!(モコつよくなる。せーじとよしことみんな、まもる!)」
誠司は一瞬だけ目を伏せ、そして微笑んだ。
「ああ、俺がおまえの隣にいる。好きに進め」
「モモッ!!!(うんっ!!!)」
⸻
モコはMOCO-LUXに沈みながら、心地よい夢の中。
その横で、マリアは玄関で帰り支度をしていた。
「今日は本当に……ありがとうございました」
「また今度な。モコのシェルター用の試作もまだ途中だろ」
「はい。期待していてください」
マリアは微笑んだ。
その笑みは静かで、けれど確かに温度を帯びていた。
“恋をしている人の顔”という言葉がふと浮かぶほどに。
「……気をつけて帰れよ」
「ええ。おやすみなさい……誠司さん」
言った瞬間、マリアはほんの一瞬だけ目を揺らした。本人も“相沢さん”と呼ぶつもりだったのだろう。しかし、口から零れたのは親しい距離の呼び方だった。
誠司は少し驚いたように瞬きをする。
マリアは気まずそうに、しかしどこか嬉しそうに小さく会釈した。
「……では、また」
車のドアが静かに閉まり、テールランプが夜道に溶けていく。
残された縁側には、ほんの少しだけ、彼女の香りと少しだけ近くなった距離の余韻が残っていた。
⸻
この日参加した子どもたちの間でこんな噂が生まれた。
「この街にはね、ふわふわの守り神さまがいるんだよ」
それはまだ世界には広がらない。
けれど、確かに根を張り始めていた。
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