第34話 漆黒の魔石

 朝の空気はひんやりとして澄んでいた。

 吐く息は白く、指先に触れる風は少しだけ冷たい。秋が終わりに近づき、山の色は静かに深まっている。


 山の斜面には紅葉がまだ鮮やかに残っていた。赤、橙、金色。ひとつひとつが淡い朝陽を受けてやわらかく光っている。

 風が木々の隙間を抜けると乾いた葉がはらりと落ち、土の上に触れる小さな音がした。まるで季節の歩みそのものが耳元で囁いているようだった。


 誠司は、家の玄関に鍵をかけ、振り返る。


「行くぞ」


「モモッ!(うんっ!)」


 モコはすでに誠司の隣に陣取っている。尻尾がふわふわ揺れていたが、その奥にわずかな緊張があることを誠司は感じ取っていた。


 目的地は、先日、自ら殲滅したゴブリン軍の大規模集落跡地。


 あの時、誠司は即座に全滅させることが最優先だった。逃がせばスタンピートが起き、最悪の場合、人が死ぬ。

 だから余計な探索は最小限に留めた。


 だが……


(……何かがひっかかっている……)


 ゴブリンキングとクイーンの存在。

 あの数。

 異常な統制。

 そして、増え方の速さ。


 どれも理屈に合わない。


「……モコ、今日は慎重に行くぞ」


「モモ(わかった)」



 山の中腹。

 鬱蒼とした木々の奥に、灰色の空間がぽっかりと口を開けていた。


 倒れた小屋の骨組み、砕けた木柵、破れた皮袋や木箱の残骸。

 かつてここに暮らしがあったことを示すものは、どれも色を失い、土と同じくくすんだ茶に沈んでいる。


 血はすでに乾き、黒い斑として地面に染みついていた。

 風雨にさらされたはずの場所なのに、鉄の味とほんのわずかな獣の腐臭がまだ鼻を刺す。


「モモ……(……いやなにおい)」

 モコが鼻先をひくつかせ、耳を伏せた。


 誠司も、少し胸の奥がきゅうと締めつけられるような感覚を覚える。

 モコは土と癒しの魔力を持つ種族だ。

 生きていた痕と消えた命の“温度差”に敏感すぎる。


 ここに残っているのは死と怨嗟の余熱。


 ただ静かな廃墟ではなく、

 「ここで確かに“誰か”が生きていた」という記憶だけが、まだ消えていない場所だった。


「無理するな。嫌なら言え。」


「モモ……(大丈夫……わたし、つよい……)」


 小さな声だがしっかり前を向いていた。


 誠司はその背中をひとつ撫でた。


「……そうだな」



 二人は跡地を巡った。


 小屋の残骸。

 簡易の祭壇。

 地下室跡の穴。


 だが、どれも“表向きに説明できるもの”に過ぎない。


 決定的な異質さは掴めないままだ。


(……ここまで徹底されているのは逆に不自然だ。

 誰かが意図的に痕跡を消した……?)


 剣呑な思考が胸に落ちた、まさにその時だった。


「モモモモモッ!!(あっちから、いやなかんじするッ!!)」


 モコが走り出した。


「おい――!」


 誠司は即座に追う。

 足場は悪いが、モコは森の獣のような敏捷さで滑るように進んでいく。


 ほどなくして、モコは巨大な岩の前で立ち止まった。


「モモモモモ……(ここ……なんか、ヘン……)」


 誠司は黙って岩へと歩み寄った。

 見た目は、どこにでもある山肌の岩と変わらない。

 形も色も地質学的にも普通に見える。

 ただの岩だ。

 そう思った。思ったはずだった。


 手を伸ばし指先が触れた、その瞬間。


「……ッ!」


 冷たい悪意が背骨の奥を逆流した。

 骨の髄に、黒い泥を流し込まれたような重く濁った魔力の波動。


 誠司の呼吸が一瞬止まる。


「これは……呪詛か……?」


 なぜ、先日は気づけなかったんだ。


 いや…… 気づけなかったのではなく、“気づかないようにされていた”。


 誠司の眉間に深い皺が刻まれる。

「……調査隊もこれを見落としている。

 いや……“見た上でただの岩だと思った”のか」


 視界の端でモコが身を縮める。

 毛がふわりと逆立ち、喉の奥で小さな震えが漏れた。


「モ、モ……(こわい……)」


 誠司はゆっくりと手を離した。

 触れているだけで精神を濁らせてくる。


 この石は“存在を意識から外させる”。

 人の目と認識を鈍らせ、そこにあるのに“なかったこと”にする。


「……厄介な代物だな」


 森を渡る風がどこか遠くで低く鳴った。

 その時だった。


 腰に提げた《氷霞刀》が、かすかに音を鳴らした。刀身が青白い光をひと筋、吐くように揺らめかせる。


「……反応した?」


「モ、モ……っ……!(せ、せいじ…っ……!)」

 モコも戸惑うように毛並みがふわりと逆立ち、薄い光を放った。


 誠司たちは互いに目を合わせた。

 理由はわからない。ただ何かが刀とモコに反応した。


 その直後。

 “岩”の表面に細い亀裂が走った。

 音もなく崩れ、中から黒いものがコトン、と落ちる。


 漆黒の魔石。


 飴色の光も魔力の色も帯びていない。

 まるで濁った井戸底に沈んだ情念がそのまま結晶したような重く冷たい黒。


 誠司は息をひとつ飲む。

「……普通の魔石じゃないな」


 モコは小さく震えながら、誠司の足元に寄った。

「……モ……(こわい……)」


 誠司は刀に視線を落とした。

 氷霞刀はもう光を収めている。

 何故反応したのか、理由はまったくわからない。


 黒い魔石はそこにあるのに見ていると、視線が滑り焦点がズレ思考の外へ逃げてしまう。


「……“存在を意識させない”類の……」


 誠司は言いかけて口を閉ざした。

 言葉にするほど、この石が“こちらを見返す”気がした。


 誠司は《収格納ストレージフィールド》の補助機能として併せ持つスキルを起動する。


「《解析収納》」


 青白い魔力光が魔石を包む。

 魔素構造、属性圧、魔力履歴、余波となった感情波形……


 次々と解析情報が脳内に流れ込むが……


「……名前だけ……か」


 浮かび上がった銘。

黒淵核石こくえんかくせき


 ただし……

 構造不明

 用途不明

 魔力系統分類:未登録

 危険性:判定不能

 起源:不明


「……《解析収納Lv5》でもこれか。相当だな」


 誠司は眉を寄せた。


 このスキルは未知素材の分類さえ可能な研究・軍事分野でも重宝されるトップクラスの解析能力。


 そのスキルが“名前しか出せない”。


 ありえない。


「モ、モモ……(なんか、イヤ……きもち、わるい……)」


 モコが誠司の裾にしがみつく。

 モコは感受性が強く、とくに生命と感情波には敏感。

 そのモコが怯える。


「わかった、触らないよ。今は封じておく」


 誠司は即座に《収格納ストレージフィールド》へ封印した。

 魔石は虚空に吸い込まれ、存在の気配が途絶える。


「……帰るぞ」


「モモ……(……うん……)」



 夜、モコは誠司の膝に頭を乗せたまま眠っていた。

 安心を取り戻すと途端に甘える女の子らしい可愛さがあった。


 誠司は静かに頭を撫でる。

「……お前が嫌がった時点で普通の代物じゃないな」


 テーブルの上には魔石の解析結果が書かれたノートが開かれている。

 名称:黒淵核石

 構造不明

 用途不明

 魔力系統分類:未登録

 危険性:判定不能

 起源:不明


「……こんな魔石、俺も聞いたことがない」


 誠司は《収格納ストレージフィールド》の奥にある、大図書館も及ばぬ蔵書を抱えた私設書庫から、異なる分野の文献を一冊また一冊と呼び出し、静かに机上へ広げた。


 禁忌書、歴史資料、ダンジョン生態論。

 だが該当する記述はどこにもない。


「……完全に未知か」


 誠司は静かに息を吐いた。


 普通の研究者に聞かせるわけにはいかない。

 国に渡せば、おそらく隠蔽される。

 民間に出せば、必ず争いになる。


 頼れる相手は、ひとりしかいない。


 誠司は、黒ずんだ皮カバーの古い手帳を取り出し、ページの一箇所にだけある、直筆の番号に指で触れる。


 スマートフォンの通話ボタンを押す。


 数回の呼び出し音ののち。


『……相沢?』


 柔らかく、落ち着いた、低めの女性の声。


『珍しいわね。あなたから電話なんて』


 その声の主は、国立ダンジョン魔生研究所 所長 黒城 玲花(こくじょう れいか)。


 誠司が唯一、頭を下げることを迷わない研究者だった。

「急いで頼みたい調査がある」


『……あなたが“急いで頼む”と言う時点で、相当ね』


「詳しい話は直接する」


『場所はいつもの“あの家”で?』


「ああ」


『了解、一時間後に行くわ』


 通話が切れた。


 誠司は静かに目を閉じた。


 

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