第28話 閑話【玉山市長視点】
私の名前は玉山俊哉。
この街の市長になって、もう3年になる。
この街を取り巻く状況は、他市と比べれば恵まれている方だ。人口は緩やかに増加し、若い家族連れが引っ越してくる数も少なくない。
理由は単純だ。国営第七ダンジョンがあるからだ。
ダンジョンは、危険でありながら富を生む異常な存在だ。魔物、素材、魔石、深層物資。それらは経済の中心となり、街に雇用と金、技術と人材をもたらす。
だが同時にダンジョンは災害の源でもある。
《スタンピード》
ダンジョンの魔素流動が崩れた時、魔物は雪崩のように地上へと出現し、街を呑み込む。
この国では、かつての震災や戦火と同じように語られる災害だ。
だが、この街ではもう30年近く起きていない。
若い世代の中には、スタンピードは“歴史の中の出来事”、“他の地域での出来事”だと本気で思っている者さえいる。
危機感がない、というわけではない。
ただ、それほど思わせるほど長い間、何も起こっていないのだ。
理由は……
“相沢誠司”がいるからだ。
本人はたぶん深くは考えていない。
ただ淡々と仕事の後に“散歩”と称してダンジョンへ行き、魔物を狩り、深層へと歩き続けているだけなのだろう。
しかし、それこそが我が街の防波堤だった。
魔素流動の偏りは、魔物の分布によって生じる。
深層・中層・浅層が歪めば、それはまるで川の流れがせり上がるように、地上へ噴き出す。
相沢が毎日歩くということは、ダンジョンの流れが、常に整えられているということだ。
それは、専門家に言わせれば「人によるダンジョン制御」。
しかし、そんなものができる人間など、世界に何人いるだろうか。
彼は覚えていないだろうが、私は、彼に返しきれない恩がある。
⸻
あの日、35年前。
私はまだ高校生で、受験前の焦燥に追われながら机に向かっていた。
寒い冬の夜だった。
突き刺すような風が鳴り、遠くで警報と怒号が聞こえていた。
すぐに気づいた。
スタンピードだ。
父が叫んだ。「家を出るぞ、逃げるぞ!」
母は震えながら仏壇の前で祈っていた。
私は、ただ呆然と窓の外を見た。
……黒い影が街路を埋め尽くしていた。
獣の形、異形の形、腐りかけた兵のような形、炎の目を宿す鳥。
その全てが、生きた怒りのように家々を裂き、破り、飲み込んでいた。
父の腕を引っ張られながら、私は走った。
走ったが追いつかれた。
背中に何かの息がかかる。
骨のような手が首に伸びる。
母の悲鳴が震えた空を切り裂く。
……死ぬのだと思った。
その瞬間。
世界が凍りついた。
いや、世界という表現が大袈裟ではないほど、一面が冷たい光に染まった。
魔物たちが、動きを失ったかのように固まり、次々と輝く氷像となり、そして砕けた。
粉雪のように、静かに。
そこに立っていたのは、中学生くらいの少年だった。
黒い髪。
感情のない目。
無駄のない呼吸。
剣も、盾も、魔具も持っていない。ただ手だけで。
恐ろしいほど静かな姿だった。
私は声を出せなかった。
少年はただこちらを一瞥しただけだった。
その顔を……私は生涯忘れなかった。
相沢誠司。
あの頃から彼はずっとこの街を守っていたのだ。
⸻
今回の野良魔物大量発生。
いや、もうあれは“野良”ではなかった。
ゴブリンキングとクイーンを含む軍団。
数は二千を超え、しかも繁殖し、兵種が組織化されていた。
たとえ軍が出たとしても、犠牲は避けられなかっただろう。
最悪、我が街の市街地に届いた可能性が高い。
だが……
相沢がひとりで終わらせた。
いや終わらせてくれた。
いつものように淡々と。
もし彼がいなかったら。
もし彼が動かなかったら。
この街は……いや、私の家族は……
……とても考えたくない。
⸻
市長に就任した日、前市長と副市長、市議会議長、そして部長級以上の幹部が揃って私に一つだけ告げた。
「相沢誠司の邪魔をするな」
その声音には冗談も曖昧さもなかった。
同席していた赤坂三郎もまた、静かに頷いていた。
街一番の事業家であり、地域経済の柱。彼が言葉を添えた。
「この街が今日まであるのは彼がいたからだ」
私はその言葉にただ深く頭を下げるしかなかった。
そして、胸の奥にしまっていた出来事を話した。
「……私は彼に命を救われたことがあります。
邪魔など、するはずがありません」
しばらく沈黙があった。
やがて幹部たちはそっと息をついた。
誰も誇張せず、誰も言い足さなかった。
ただ、そこにいる全員の表情が、同じ理解を共有していた。
この街の有力者は皆、知っている。
相沢誠司を守れ。
彼の道を塞ぐな。
彼の背中に余計な影を落とすな。
なぜなら、彼がこの街を守っているのだから。
誰よりも静かに。
誰よりも確かに。
気づかれない場所で。
誰にも褒められず。
それでも、ただそこに立ち続けて。
彼が望まなくとも。
彼が語らなくとも。
彼が自分を「しがない公務員」だと言おうとも。
私たちは知っている。
気づいている。
そして、感謝している。
返しきれない恩を。
⸻
若い連中は言うだろう。
「なんであの人は主査止まりなんだ」と。
「なんですぐ定時で帰れるのに評価されてるんだ」と。
「ただの冒険者上がりの職員じゃないか」と。
……何もわかっていない。
この街の静かな繁栄は、
この街の平凡な朝は、
この街の笑い声の続く日々は、
彼の“散歩”の上に成り立っていることを。
彼は街を守るために戦っているのではない。
ただ、大切なものを静かに大切にしているだけなのだ。
その行いが、いつの間にか街を救っている。
だから、私は今日も市長として胸を張って言える。
「相沢誠司の邪魔をするな。
彼の帰る家と彼の守りたい日常を守れ。
それがこの街の最優先事項だ」
彼は知らないだろうが……
この街は、彼を守るために存在している。
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