第26話 モコ、二股!?

 「できたぞ」


 キッチンからその一言が聞こえたとき、リビングの空気が一瞬でざわついた。

 というか、ざわつかせているのは一名、モコだった。


「モモモモモ!!!(できたぁぁぁーー!!)」


 尻尾ばたばた。

 鈴ちりんちりん。

 耳が上下にパタパタ跳ねて、もはや飛べそうな勢いである。


 テーブルの上に、誠司がそっと置いた皿。

 それは、見ただけで甘いと分かる、完璧な黄金色だった。


 誠司特製即席デザート《バナナ蜂蜜パルフェ》、相沢家ver。


 見た目はシンプルだった。

 だが、そのどれもが反則じみていた。


 まず土台。

 樹上で完熟させ、皮に細かな黒いシュガースポットが浮くほど育てたバナナを、低温でじっくり潰してクリーム状にする。

 それを生クリームと合わせ、ふわふわのムースに仕立てた。砂糖は一切使っていない。

 それでも、熟れた甘い香りだけで、もう胃袋を掴んでくる。


 その上に、とろりとかかった濃密な黄金色。

 日本ミツバチの百花蜜。

 季節の花を全部まとめて溶かしたような香りがふわりと広がる。

 尖った甘さじゃない。丸い。やさしい。喉の奥まで春になるような甘さ。


 さらに、その上から、琥珀色に近い滴が細くかけられている。

 これは、キラービーの巣から採れた“クイーンビー・ロイヤル蜜”。

 いわば女王蜂専用の蜜。

 濃度、栄養、香り、どれも桁外れ。

 空気そのものが甘くなるほどの濃香。

 普通は市場にまず出ない。国が買い上げるレベルのやつだ。


 トッピングには、バナナを軽く炙ってカラメリゼしたものを薄い羽のように並べ、

 さらに刻んだ、謎のクリーミーな白果肉のフルーツが散らされている。


 芳子が目を細める。

「その白いの……まさか?」


「ちょっとだけだ」

 誠司はすました顔で言う。

「味の調整だ」


 “調整”と言っているそれは、ダンジョン深層五十階層でしか採れない果実だ。

 香りはライチにも似て、でも後味は桃に近く、舌の上で溶けるように消える。

 甘みだけではなく、喉に残らない透きとおった冷たい甘さがある。

 市場に出ることはまずない。

 仮に市場に出れば、一個で数百万円。

 社会の支配層や上級冒険者でも“特別な記念日用”にしか食べられない、そういうレベルのもの。


 それを惜しげもなく刻んで混ぜている。


 ふつうは、そのままガラスケース入りで祀るようなものなのに。


(……これで“趣味のデザート”という名目は通らないわね)

 芳子は内心でため息をつきながらも、もう笑っていた。


「モコ。お前が先に食べていいぞ」

「モモモモモモモモーーーーーー!!!(はいっーーー!!!)」


 モコは正座した。

 ものすごく正しく正座した。

 両前足を揃え、背筋を伸ばし、真剣な眼差し。

 空気が一瞬だけピリッと神聖な感じになった。


 誠司と芳子は思わず見守る。


 そして、モコは、そっと、そっとスプーンを入れ、バナナと白果、百花蜜とクイーン蜜をうまくすくい、ゆっくりと口へ運ぶ。


 ぱく。


 ……世界が止まった。


 目が見開いた。

 耳が凍りついた。

 尻尾が途中で固まった。

 一切動かない。


「モコちゃん?」

 芳子がちょっと心配そうに声をかける。

 反応なし。


「おい。大丈夫か?」

 誠司も少し身を乗り出す。


 そして、

 ゆっくり、ゆっっっっくり、モコの口が開いた。


「……モモ(……い、いまの……)」


「モモモモモモモモモモモモモモモモモモモモーーーーーーーーーー!!!!!(なにこれ!? すごいのきたーーーーー!!)」


 悲鳴に近い雄叫びが、リビングに響いた。


「モモモモモモモッ!!!!(いま! いま!! わたし!!! しんだけど!! しんでないけど!! てんごくさんとけっこんしたーーーー!!!!)」


 盛大にひっくり返る。

 床の上でゴロゴロ転がる。

 スプーン離さないまま転がる。

 まったく中身をこぼさずに転がる。

 意味がわからない次元の執念。


「ちょっ……ぶはっはっはっは!!」


 芳子はそこでもうダメだった。

 涙を流して笑いながら、テーブルを叩く。


「てんごくと結婚ってなにそれ! ちょっ、待って、苦しい、あはははははは!!」


 誠司はというと、肩を震わせて笑いを噛み殺そうとしていたが無理だった。

 ぷっと吹き出し、そのまま腹を抱えた。

「さすがに天国と婚姻届は出せないぞ」

「モモモモモ!(だす!!)」

「そうか」

「モモ!!(いま!)」


「今出すの!?」と芳子がさらに崩れる。

「住民票どこに置くの!? 雲の上!? あはははは!」


 そして、ふと気づいたように声を上げた。


「ていうか!! さっき結婚したのマンゴーじゃなかったの!?

 相手変わってない!? マンゴーは!? あの子いまどこに!?」


「モモモモ!?(マンゴー!? あっ……その……それはそれ! これはこれ!!)」

「完全に二股だぞ」と誠司が真顔を装って言った。

 言った瞬間、自分で吹いた。


「食べ物と天国に二股ってなに!?」

 芳子はテーブルに突っ伏して笑い転げる。

「倫理観どうなってんの!! あははははは!!」


 モコは床で転がりながら、スプーンは離さない。

「モモモモーー!!(どっちもすき!! どっちもけっこんする!!)」


「モモ……(あしたから、わたし、“あいざわ・てんごく・マンゴー・モコ”……)」

「名字どうなってんだ」と誠司は言った。

 言った瞬間、本人も耐えきれずに声を出して笑った。


「多夫多妻制にもほどがある」と誠司が肩を震わせた。


 リビングは幸せで埋まった。

 甘い香りと笑い声と、ちりんちりんという鈴の音。

 戦場の匂いなんて、どこにもなかった。



 やがて、モコがようやく落ち着いて再びスプーンを手にしはじめると、芳子は感心しながら言った。


「……これ、本当にすごいわね。この蜂蜜、女王蜂のやつでしょ? 百花蜜も使って……バナナの香りも普通じゃないし。あと、この白いの」

 彼女は少しだけ表情を変えてから、さらりと言った。

「やっぱり“アレ”を入れたわね?」


 誠司はぴく、と目尻を動かした。

「……ああ、バレたか」


「そりゃわかるわよ。食べた瞬間、舌が驚くんだもの。最初にふわって花みたいな香りがきて、あとから冷たい甘みがするの。あれ、普通の果物じゃないわ」


「ちょっとだけだ」

「ちょっとでも、あれはちょっとじゃないのよ」


 芳子は肘をテーブルにつき、じっと誠司を見つめる。

 穏やかな顔を崩さず、しかし目は実に真剣だ。


「……あれ、五十階層の実でしょ?」


 空気が、ほんの少しだけ変わった。

 それは責めでも咎めでもない。ただの事実確認。


 誠司は視線を外すこともできたが、そうしなかった。

「……そうだ。深層五十階層の樹から採ったフルーツだ。正式名は長いから、うちでは“白果”って呼んでる」


 その名前は、彼らの間でだけ通じる愛称だ。


「一個で何百万とかいう、あれね」

「ああ」

「……それ、さっき《収格納ストレージフィールド》から出してきたとき、見たのよ」


 芳子はゆっくり言った。

「うちのハウスの立ち入り禁止の区画にある一本の木。あれにそっくりな実がなってたわ」

「…………」


「ねぇ、誠司」

「…………」

「もしかして、あの木も、“あそこ”から持ってきたの?」


 芳子は、冗談のような声で聞いた。

 けれど、目は優しかった。

 責める気はまったくない。ただ「知りたい」という顔。


 誠司は、ほんの少しだけ間を置いてから答えた。

「……似たものだ。偶然だ」


「偶然ねぇ」

 芳子は笑った。

「じゃあ、他の木も“偶然”かしら。あの冷蔵庫に入れなくても冷たいままの柑橘とか、かじると頭が冴えるやつとか、食べると肌が若返ったようにハリが出てくる月光色の実とか、食べた瞬間機嫌がよくなる赤い実とか」


 それを聞いた瞬間、誠司はわずかに黙った。

 その沈黙は、完全に「図星だ」の沈黙だった。


「ふふ」

 芳子はもうそれ以上追及しなかった。

「まぁ、いいわ。あなたの“趣味”ってことでしょ?」


「……ああ。趣味だ」


 その言い方があまりにも真顔だったので、芳子は吹き出した。

「あなたの趣味は桁が違うのよ、いつも」

「趣味だ」

「はいはい、趣味ね」


「モモ!(しゅみ、すごい!)」

 モコは口の周りをテラテラに光らせながら賛同してきた。

 頬にハチミツをつけたまま胸を張るので、説得力が妙にある。


 笑いと甘さの中で、食後の時間はゆっくりと溶けていった。



 その夜。


 モコは満腹と幸福の余韻でもう立てなくなり、

 誠司の膝の上にまるくなって眠った。

 鈴が静かに呼吸に合わせて揺れる。


「……寝たな」

「ええ。今日はがんばったものね、待つの」

「待つのはがんばりに入るのか」

「入るわよ」


 芳子は、湯呑を置きながら小さく笑った。


 誠司は、珍しくアルコールを出していた。

 琥珀色の液体が揺れる。

 国産超高級ブランデー《崎山・100年》。

 赤坂三郎商店の株式上場祝いとして、三郎が送ってきたものをずっと開けずにいた。


 香りが鼻を抜け、喉の奥に静かに降りていく。

 晩秋の夜に合う、深い甘さと渋み。


「ねぇ、今日のこと。どんなだったの?」

 芳子が静かに尋ねる。

 それは、問い詰めではない。

 ただ「聞かせてほしい」という声。


「ただのゴブリン退治だ」

 誠司は、いつも通りの調子で答えた。

 だが、わずかに息が重い。


「あしたも行くことになった」


「……失敗したの?」

 芳子の声に、少し驚きが混ざる。

 あの誠司が“明日も”と言う。それは珍しい言い回しだったから。


「いや。俺は失敗していない」

 誠司はブランデーを揺らした。

「……失敗したのは、国かもしれない」


 芳子は、それ以上は聞かなかった。

 長年の勘で分かるのだ。

 詮索すべきでないものがそこにあること。

 そして、それが“明日の命”に関わるものかどうか。


 彼女は小さく頷いた。

「明日も、無事に帰ってきてね」


「帰るよ。必ず」


「じゃあ、マンゴーまた切ってあげるわね」

「頼む」


 ほんのそれだけでよかった。



 夜更け。

 モコはすっかり寝息を立てている。

 小さな寝息と、たまに「モモ……(てんごくさん……)」と幸せそうに鳴く声。


 誠司は膝の上のその重みをそっとソファに移し、

 立ち上がった。


 部屋の明かりを少し落とす。

 自室に戻る。

 棚の上、あまり触らない引き出しから、古い手帳を取り出した。


 黒ずんだ革カバー。

 指の跡で、角が少しだけ艶を持っている。

 何度も戦場に持って入ったものだ。


 手帳を開き、ある番号で指が止まる。


 しばらく見つめていた。

 呼吸が少し変わる。


(……今回俺が動いたから間に合った。

 でも、もし間に合わなかったら?

 あのゴブリンの“軍隊”が山を越えてきたら?

 この街を飲み込んでいたかもしれない。

 その時、母さんは? モコは?

 “無事だったはずだ”なんて、言えるわけがない)


 『許せない』


 そういう感情が胸の奥で静かに凍っている。

 怒鳴ることも、机を叩くこともない。

 ただ、きれいに冷えていく怒り。


(……これは俺ひとりで全部抱える話じゃない)


 誠司はスマートフォンを取り出し、その古い番号をゆっくりと押した。


 ダンジョン省でも、市役所でもない。

 もっと昔からの番号。

 “荷物持ち”として同行したときからの縁。

 今はたぶん、首都側のかなり上のほうにいる連中。


 コール音が部屋の静けさに響いた。


「……相沢だ」


 短く名を告げ、彼は続ける。


「少し話がある。急ぎだ」


 それは、相沢誠司が“主査”ではなく、“現場の怪物”として声をかける時の口調だった。


 明日も帰るために。

 この町を守るために。

 そして、家の食卓を守り続けるために。


 電話の向こうが、ゆっくりと応答する気配を見せた。


 誠司は目を閉じて、一度だけ深く息を吸った。

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