BOA-ヴォア

 七月の夜、福井の山中はまるで水槽の中みたいだった。

 濃い霧がゆっくりと地を這い、濡れたアスファルトを這うと、そこら中でアマガエルの声が合唱のように重なっていた。

 中学の同級生、佐伯がこの村に引っ越したのは春だった。俺は夏休みの初日、ひとりで彼を訪ねた。


「家、近いから来いよ。夜の田んぼ見せてやる」

 そう言って送ってきたメッセージの「夜の田んぼ」という言葉が、なぜか頭に残った。


 佐伯の家は湿原の外れ、古い用水路に囲まれた集落にあった。

 玄関を開けた瞬間、鼻を突くような泥の匂いと、畳に染みついた湿気が身体を包み込む。


「すごいな……除湿機、ないのか?」

「動かすと母さんが怒る。『音で呼ぶから』って」


 母親の姿はなかった。夜勤だと聞いたが、家の奥から小さな足音のようなものが時折した。

 食卓の上に置かれたお茶は、湯呑ごと結露していた。


「行こうぜ」

 佐伯は懐中電灯を手に、外に出た。


 湿原は、まるで呼吸しているみたいだった。

 ぬるい風が吹くたびに、どこかでぷつん、と泡が弾ける音がする。

 足元のぬかるみに踏み込むと、ぐちゅりと泥が吸い付いて離れない。


「ここ、昔は沼だったんだとさ。村の人は“底なし”って呼んでた」

「危なくないのか?」

「大丈夫、昼は固いから。でも夜は――」


 佐伯の声が途中で切れた。

 懐中電灯の光が、揺れていた。

 湿原の奥に、人影のようなものが見えたのだ。


 腰ほどの水の中を、白い影がゆっくり歩いている。

 足音はしない。ただ、濡れた裾が泥を撫でる音だけがした。


「……母さん?」

 佐伯が呼ぶ。だが影は振り向かず、ゆらりと沈んだ。


「おい、行くなって!」

 俺の声も届かない。佐伯は足を取られて、水面に倒れ込んだ。


 光がひとつ、暗闇の底に吸い込まれていく。

 俺は膝まで泥に浸かりながら、必死で手を伸ばした。

 その時だ。


 水面の下で、何かが囁いた。


 ――たすけて。

 ――ここ、あたたかいの。


 耳ではなく、皮膚で聞いた。ぬるりとした感触が足首を這う。

 慌てて引き抜こうとしても、泥がまるで手のように締め付けてくる。


「佐伯! どこだ!」

 応えはない。ただ、泡の弾ける音が絶え間なく響く。


 ようやく足を引き抜いたとき、視界の端に光が見えた。

 懐中電灯が水面に浮かんでいる。

 その隣に、佐伯の顔が――あった。


 水に半分沈んで、目を見開いたまま笑っている。

 顔の下には、もう一つの顔があった。

 ぬるぬるとした皮膚の下から、女の顔が重なるように浮かび上がっている。


 佐伯の頬がゆっくり裂け、その女の口が、笑った。


 ――おいで。ぬくいよ。


 気づけば、自分の足元からも泡が立ち上がっていた。

 沈みかけの足首に、指のようなものが絡みついている。

 泥の中から何かが這い出そうとしているのがわかる。

 息を止めた。動けない。


 耳元で、佐伯の声がした。

「母さん、夜は沼に帰るんだ。音で呼ばれるから――」


 目を閉じた瞬間、ぬめった指が喉元まで伸びた。

 生暖かい匂いが、肺の中まで満ちていく。


 気がついたら、朝だった。

 湿原の水面は静まり返っていた。

 懐中電灯だけが、陽の光を反射していた。


 佐伯の姿はどこにもなかった。

 警察は「転落事故」だと言った。

 でも俺は知っている。

 夜、寝返りを打つたび、耳の奥で――泡が弾ける音がする。

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BOA-ヴォア @demiaoto

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