第34話 変化
六回表、マウンドの上で智久はゆっくりと左肩をぐるりと回した。
連戦の疲れというよりは、気温の急激な変化による疲労の方が大きかった。
スコアは一対一。消化試合とはいえ、球場には思ったより客が入っている。
九月も半ば、どのチームの順位もほぼ固まりつつあるこの時期はスタンドのざわめきもどこか緩い。そんな空気とは裏腹に、智久の胸の内には緊張が残っていた。
(あともう少し、この回を抑えれば……)
捕手がサインを出す。外角のストレート。智久は頷き、力まず指にかけた。初球はベースの端ぎりぎりに決まる。
オールスターの後半戦以降、明智久は明らかに変わったものがあった。
仲里から教わったスプリットだ。あの日、三十分程度でものにした球種が、夏の終盤には立派な決め球として智久を助けた。
ボール自体の質が劇的に変わったわけではない。
だが、空振りを圧倒的に取りやすくなった。
二球目、捕手がカットボールのサインを出す。智久は小さく首を振り、スプリットを要求した。
捕手が頷いてコースを指示する。
振り下ろす腕の感覚は軽い。指先から抜ける感触は、既に智久のものとなっている。落差と球速、どちらも自信があった。
バッターは泳ぎ、ボールはミットに吸い込まれる。
空振り。
(これだよなぁ)
オールスター後からこの感覚を何度味わっただろう。シーズンの前半は、決め球を求めて苦しんでいた。
カットボールは確かに通用したが、それで空振りを取れるほどにはならなかった。カーブは緩すぎ、カットも曲がりが小さく、チェンジアップはタイミングをズラすだけ。典型的なグラウンドボールピッチャーだった。
だがスプリットが加わってから、配球のパターンが替わった。ピンチの場面、三振が欲しい場面で三振を奪う、投手としてはらに磨きがかかっていた。
三球目、外角高め。カットボールでカウントを作る。打者は手を出したがファウル。
そして四球目、追い詰めてからの決め球。外ギリギリのストレートに見せかけて、最後の最後でストンと落とす。
スプリット。
また空を切る音。
スタンドが小さく沸く。九月の空気にしては熱い拍手だ。
(よし。六回、あと二人)
ここまでに許した得点は初回の一失点のみ。内容としては十分。勝ちはつかなくてもいい。だが、この試合を形にしたいという思いは強かった。
チームは現在五位。前半戦の壊滅寸前の状態を思えば、奇跡的な浮上だった。
怪我で抜けていた中継ぎ陣も徐々に戻り、先発陣も本来のローテーションに近い形に整いつつある。七月前半まで自分の登板間隔は中五日、中四日が続き、疲労が積み重なっていた。
(よく持った方だと思うんだけどな)
八勝四敗。防御率は2.70まで良化した。二年目にしては十分上出来なライン。
規定投球回に届くか届かないかギリギリだが、それももう一試合でというところまできている。
二桁勝利も、可能性はゼロではない。ただ残りの登板は二つ。よっぽどのことがなければ届かないだろう。
勝ち星としてはチーム内二位。ここまで来たら、行けるとこまでという思いが強かった。
二人目の打者がインコースのストレートを詰まらせてセカンドゴロ。
(あと一人……)
六回の最後の打者はベテランの左打者。選球眼がよく、追い込んでからの勝負が難しいタイプだ。
智久は初球を外角いっぱいのストレートで入る。ボールでもいい、という気持ちで投げたがこれがストライクと判定された。
捕手が内角のサインを出す。智久は頷き、小さく息を吐く。
二球目、胸元へのカットボール。打者は避けるようにしてバットを引いた。
三球目、スプリット。あえて浅く握り、ストライクゾーンギリギリに決める。打者は完全に見逃した。
四球目、外角低め。チェンジアップで様子を見る。わずかに外れた。
ツーエンドツー。
(最後は真っ向勝負でいい)
捕手の要求はストレート。智久は迷わず頷いた。ここまで六回を投げて失点一。球数も八十球ほど。まだ腕に重しはかかっていなかった。
振りかぶり、踏み出す。重心が前に流れすぎないように意識しながら、左腕をしならせる。
ズバン!
ミットが強く鳴った。外角ぎりぎりのストレート。
バッターは見逃す。
だが、主審の右手が上がった。
六回一失点。十分すぎる内容だった。
「ナイスピッチ!」
内野陣が駆け寄り、軽く背中を叩く。
軽くガッツポーズを決めてゆっくりとベンチに戻る。
ベンチでは監督が小さく頷いた。
「よく投げた」と言葉は短いが、智久には十分伝わった。
その背中に、スタンドから拍手が降り注ぐ。
(これで今季……九勝目はお預けか。でも悪くない)
規定投球回は微妙。二桁勝利も遠のいた。だが、それでもいいと思えた。数字ではわからない成長が、確かに今年の後半にはあった。
仲里にもらったスプリットが、自分の武器を広げてくれた。三振を奪う快感を覚え、ほかの変化球も活きる、最高のスパイスだった。
(とにかく残りを走り切る)
そう思いながら、智久はゆっくりとタオルで汗を拭いた。
残りわずかのシーズン。その先にある、自分が投げたい未来を想像しながら。
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