第26話 揺らぎ



 福岡ナイターズの本拠地──満員のスタンドから、白い照明がマウンドに降り注いでいた。智久はゆっくりとロジンを握り、指先を確かめるように擦る。だがその感触は、どこか心許なかった。


 シーズン序盤、ここまで不調を、空位感を変えたい。智久はそう思っていた。

 事実、4月は三勝一敗とチームでもトップの勝利数を上げている。


 しかし今日は、ブルペンで投げた時からどこか違和感がつきまとっていた。


(指が掛からない)


 ストレートに指がかからない。押し込む感覚が足りない。

「疲れ、か……?」と頭のどこかでぼんやり思ったが、言い訳にしたくなくて黙殺した。


 そして、初回。

 最初のバッターはナイターズの俊足リードオフマン。

 いつもなら外角いっぱいに決まるはずのストレートがわずかに高く浮き、あっさりレフト前に持っていかれた。


 智久は思わず眉を動かす。

 普段なら詰まらせられる球だ。それが鋭く内野を抜けていく。


 続く二番はしぶといことでで知られる左打ち。

 初球、カットボールが真ん中高めに入り、打球はライナーで一塁線を破る。

 わずか二球で無死二、三塁。


 敵地の歓声が、波のように押し寄せた。


「ちょっと高いよ! 落としてこう!」


 キャッチャーの田岡がマスク越しに声を張る。


 しかし智久は、首で返事をしながらも、腕に力が戻らないのを自覚していた。


 三番打者──昨年の首位打者。

 追い込んでから勝負にいったストレートは、またしても高め。

 打球はセンター深くへの犠牲フライとなり、先制を奪われる。


(甘いところに行く......)


 体のズレを直そうとするほど、余計な力が入ってリリースがバラける。

 修正しようとすればするほど別の箇所が更に危険を発する。

 智久もその罠に引き込まれつつあった。


 初回は四番がボールを叩きつけたため最小失点で切り抜けたものの、ベンチに戻ると椎葉監督が静かに腕を組んでいた。叱責ではない。ただ、状態を見極めるような真剣な目。


(まだ大丈夫。修正できる)


 そんな自分への言い聞かせだけで、なんとか次の回へ踏み出した。

 しかし違和感が確信へ変わる


 二回のマウンド。

 マウンドに立った瞬間、智久は悟った。


(あ、やばい)


 ストレートが140前半しか出ていない。

 キレがなければ、カットもチェンジアップも生きない。

 そして相手はプロ。見逃してくれない。


 先頭は五番のパワーヒッター。

 外角のチェンジアップを狙い澄ましたようにライト前。


 続く六番にはバントを決められて得点源にランナーが進む。


「タイム!」


 中川が素早く駆け寄ってきた。


「坂井、しんどいなら言ってくれよ」


「まだ投げられます。次こそは低めに集めます」


「……わかった。でも無理すんなよ」


 マスク越しでも分かる、仲間としての不安。

 しかし智久にはその気遣いに応じられる余裕はもうなかった。


 七番に死球を与えてしまい、ピンチが広がる。

 そして八番への二球目。

 明らかに高めへ抜けた球を痛打される。


 外角低めを要求したカーブが、抜けて真ん中高めへ。

 打球はライト前へ抜けていく。

 ナイターズにとっては二点タイムリー。


 一気に二失点。

 敵地の大歓声が揺らぐほどの音量で爆発した。


(マジか……全部浮く……)


 智久は思わずグラブを握る手に力を込めた。


 三回。

 智久は最後の意地で、腕を振った。

 だがボールは裏切るかのように高めに浮き続ける。


 九番に再びヒット。


 二番は粘られ、フルカウント。

 甘く入ったボールを振り抜かれる。

 だがいい位置にいたショートの有薗がジャンピングキャッチを見せた。


(とにかくゴロを......)


 そう思ったその時、田岡のミットが構えられた。


 三番は典型的なパワーヒッター。

 前回の打席でもセンター後方への犠牲フライを打っていた。


 初球はストレート。

 智久は思い切り腕を振り抜く。

 だがストレートは打者のベルト線、ホームランコースに抜けていく。


 打った瞬間に分かる打球。

 大きなアーチを描いた打球はレフトスタンドへ。

 智久は手をがっくりと膝につく。


 そして、椎葉監督の声が届いた。


「交代だ」


 その声は強くも弱くもない。

 ただ決断としての声。


「まだ、まだ......」


 半ば強制的に智久はゆっくりマウンドを降ろされる。

 スタンドからは容赦ないブーイングと、わずかな拍手。

 ベンチに戻る途中、腕をぐるりと回すと、肩の奥が重く軋んだ。


 ベンチに戻った瞬間、重さが襲う。

 誰も責めない。

 誰も励まさない。


 プロの世界にあるあの空気。

 結果だけが全てで、打たれた投手にかける言葉はほとんど存在しない。


 中川だけが、そっと近くに座る。


「……坂井、肘の位置がだいぶ高かった。疲れか?」


「分かってる。全部浮いた。全部……」


「とにかく休め。まだ次がある」


 その声が唯一の救いだった。




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