雨のあとに、光るもの。

夕凪あゆ

第1話

六月の午後、校舎の窓を伝う雨粒が、音もなく落ちていた。

 その向こうで、ひとりの男子が傘を差しながらグラウンドを横切っていくのが見えた。

 傘の骨が少し折れていて、右肩が濡れていた。

 ――その姿が、なぜか気になった。


 彼の名は湊と言った。

 同じクラスだが、ほとんど話したことはなかった。

 黒髪が少し長くて、伏し目がち。

 笑ったとしても、どこか遠くを見ているような目をしていた。


 放課後、私は図書室で偶然、彼の隣の席になった。

 彼はノートを開き、数式を書いていた。

 ページの端には、細い線で描かれたギターの落書きがあった。

 それを見つけた瞬間、私はなぜか心臓が高鳴った。

 ――この人の中には、知らない世界がある。

 そんな直感だった。


 「それ、ギター?」と、勇気を出して聞いてみた。

 湊は少し驚いたように顔を上げ、「うん、ちょっとだけ弾く」と言った。

 その声は雨の音よりも静かで、でも確かに響いた。

 それが、私たちの最初の会話だった。


 その日を境に、少しずつ話すようになった。

 音楽の話、本の話、勉強の愚痴。

 彼は多くを語らないけれど、言葉を選ぶ人だった。

 沈黙の中でも、そこに優しさがあった。

 私はその静けさが好きだった。


 ある日、彼がイヤホンを片方外して、「聴く?」と言った。

耳にあてた瞬間、ギターの音が流れた。

小さくて、少し不器用で、でもまっすぐな音だった。

 「自分で弾いたの?」と聞くと、湊は照れたようにうなずいた。

 「夜、家で。うるさいって言われるけど」

 そのときの笑顔を、今でも覚えている。

 雨上がりの光みたいに、儚くて優しかった。


 夏が来る頃には私たちは毎日のように話していた。

 窓際の席でくだらない話をして、笑って、

 時には黙り込んで。

 その沈黙すら、心地よかった。


 でも、いつからか、私は怖くなっていた。

 この時間が永遠じゃないことを、どこかで知っていたから。


 ある日、放課後の駅前で、彼が別の女の子と並んで歩いているのを見た。

 女の子が笑い、湊も笑った。

 その笑顔は、私の知っているものより少し大人びて見えた。

 誰も、何も悪くない。

 そう思っても、胸の奥で小さく音がした。

 氷が割れるような音だった。


 次の日、彼はいつも通りに「おはよう」と言った。

 私は同じように返したけれど、

 その声の温度を保つことは出来なかった。

 笑い合いながら、距離ができていくのがわかった。

 彼の視線の先には、もう私ではない誰かがいる。

 それを、ちゃんと理解してしまった。


 秋が過ぎ、冬の風が冷たくなる頃、

 湊は転校することになった。

 「父親の仕事の都合で」

 ――その一言だけ、彼は黒板の前で言った。

教室の空気が静まり返る中、私は何も言えなかった。

 “行かないで”なんて、そんなこと言えるはずがなかった。


 最後の日、昇降口で偶然会った。

 「今までありがとう」

 湊はそう言って、小さく頭を下げた。

 私は笑って「元気でね」と返した。

 それしか言えなかった。

 彼の背中が校門の向こうに消えたあと、雨がまた降り始めた。

 私は傘を差さずに歩いた。

 冷たいはずなのに、どこか懐かしい雨だった。


 ――それから、二年が経った。


 高校三年の二月。

 受験も終わり、街は少しだけ春の気配を帯びていた。

 久しぶりに降った雪が、路肩で溶けかけている。

 私は電車に乗るため、駅のホームに立っていた。

 空は薄い灰色で、遠くの山が霞んで見える。

 ぼんやりと反対側のホームを見ると――

 そこに、湊が立っていた。


 イヤホンを片耳にして、手袋のない指で切符をいじっている。

 少し背が伸びて、声変わりもしたのかもしれない。

 けれど、立ち方も、うつむいた横顔も、あの日のままだった。


 息が止まった。

 足が自然に一歩、前に出た。

 名前を呼ぼうとした。

 でも、声にならなかった。

 喉の奥に、あの頃の空気が詰まっていた。


 電車の到着を知らせる風が吹き抜ける。

 湊が顔を上げた。

 その目が、私を見た――気がした。

 視線が触れた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 声を出せば、たぶん届く。

 でも、私はそのまま立ち尽くした。


 電車がホームに滑り込み、金属の音が鳴り響く。

 彼の姿が少しずつ隠れていく。

 名前を呼ぶ前に、彼は向こう側へ歩き出した。


 風が頬を撫でた。

 涙は出なかった。そう思い込みたかった。

 ただ、心の底、一筋の涙が静かに光っていた。

 まるで、雨上がりの水たまりに射す夕陽みたいに。


 ――きっと、このままでいい。

 届かない恋でよかったんだ。

 そう必死に思いながら、私は電車に乗った。

 ガラス越しに見えた景色の中で、湊の姿が小さく揺れ、やがて消えた。


 窓に映る自分の顔が少し赤く見えた。

 それが、涙の跡なのか、恋の残り火なのか。

 自分でもわからなかった。


 でも確かに、胸の奥で何かがまだ、生きていた。

 あの日の雨の匂いとともに。

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雨のあとに、光るもの。 夕凪あゆ @Ayu1030

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