♢♢♢

 お互いの事情を話してから、僕たちは境目がなくなってきていた。確かにいちばんそばにいた。話す内容も一緒にいる時の距離感も変わらないが、冬哉のことを深く理解できた気がしたんだ。


「流星群?」

「そう。もうすぐ流星群がピークなんだって。晴れ予報で都会でもよく見えるらしいし、ここならベランダからでも少しくらい見えるんじゃないかな」

「じゃあついでに夜通しゲームしよう。一緒にできるやつ買った」

「いいね。ピザでも取るか。……あと、妹の病院に……」

「春瑠ね。早く行かないとクリスマス終わるのに、いつになったら行くんだろうと思ってた」

 お菓子の入った小さなブーツは冬哉の家に置きっぱなしにしていた。春瑠はまだ目を覚ましていないけど、会いに行かなくてはならない。

「おばあちゃんが車出してくれるみたいだから、ついてきてくれないかな」

「当たり前じゃん。約束だろ」


 肌を刺すような冷たさ。曇った空。昔から病院を前にするとめまいがして現実と乖離するような感覚に襲われる。僕は正しく呼吸をしていて、臓器は正しく機能している。でも、人間はほんの些細なことで身体が動かなくなることだってある。人は、こんな脆い入れ物には抱えきれないほどの感情を持って歩いているのだろう。

「夏希、そんな難しい顔してると春瑠も怖がるんじゃねぇの?息しろよ」

「息はしてるよ、大丈夫だ」

 ダボっとしたパーカーに黒髪、キャップをかぶってレンズの入っていない銀のフレームの伊達メガネまでかけた冬哉の姿を見るとどこか気が抜ける。帽子が似合わない人だなぁ。

「春瑠の病室は三階だよ。ナースステーションで面会希望と伝えてから部屋に行きな」

「おばあちゃんは病室に行かないの?」

「私は一階でコーヒーでも飲んでるから、ゆっくり会っておいで」


 言われた通り、ナースステーションで話をしてから病室へ向かう。重圧感のある扉。この扉の向こうには2年ぶりに会う妹がいる。僕のせいでひどい目に遭った妹。……指先が冷たい。

「なーつき」

 バンっと背中をたたかれる。冬哉は何故か自信満々の顔でこちらを見て、有無を言わさず扉を開けた。


 薄いカーテン越しに差し込むほのかな光がサイドテーブルの上の果物を照らしている。まだ新しくてつやつやと淡い光を受けている果物は、両親が持ってきたものだろうか。ツンとする消毒液の香りのする病室にカチカチという秒針の音だけが響く。色々な機械が繋がれたベッドに真っ白なシーツ。そこには、春瑠がいた。眠っている。白くて骨と皮しかないような細い腕、身体に繋がれたチューブが痛々しい。青白い肌なのに、頬だけは少し血色がある。

「……春瑠、ごめん。ごめんな……僕のせいで本当にごめん。また春瑠と話したいよ。僕は、友達ができたよ。排他的で人に興味がないお兄ちゃんにも友達ができたんだ。春瑠はきっと喜んでくれるだろう?冬哉っていうんだ。生意気なガキだけど、人の痛みがわかる優しいやつだよ。春瑠もきっと仲良くなれると思う。春瑠は誰とでも仲良くできるけどさ。だからきっと、あんな糞野郎にも優しくしてしまったんだろうね。君の優しさを少しも曇らせたくなかった。だまされることも、人の悪意に傷つけられることも今までなかっただろうから。ちょっと過保護にしすぎたのかな?みんながみんな君の優しさや明るさを同じ温度で受け取ってくれるわけではないんだと、この世にはどうしようもない悪も存在するんだと、教えておかなければいけなかったのかもね。あぁ、やっぱり、僕のせいだ。ごめん、本当にごめんな。」

 すっかり瘦せてしまった春瑠の手は変わらず暖かい。その暖かさに涙が止まらなかった。痛くて苦しい思いをしただろう。春瑠はもしかしたら目を覚ましたくなんてないのかもしれない。それでも僕は君が生きていてよかったと思う。

 少しだけ太陽の光が射す窓際に黄色とピンクの花を飾る。どこか春を彷彿とさせる匂いと色は春瑠にぴったりだと思った。その横にお菓子の入った小さなブーツを置いた。

「ギリギリになってごめん。これを君に渡したかったんだ。今年はホールケーキはないけど、サンタの砂糖菓子は今でも春瑠だけのものだよ」

 

 もしも目を覚ましてくれたら、クリスマスの砂糖菓子なんていくらでも、いや、僕があげられる物ならなんだって君にあげるよ。僕はもう何もいらないし、今後春瑠に降りかかる不運は全部僕が受け止めたい。一生僕のことを恨んでくれ。そんなことで許されようとは思わないけれど、だけど、どうか、目を覚ましてほしい……。

 きっと中学校のセーラー服もよく似合うだろうし、料理の腕もどんどん上がるだろう。そのうち恋人なんかを連れてきて、僕は不機嫌を飲み込んで貼り付けた笑顔で「よろしくね」だなんて言うんだ。愛されるべき女の子なんです。神様、お願いだ。

 病室の中は暖かくて、曇天の下の寒さを忘れてしまうほどだった。僕はしばらく握った春瑠の手を離せなかった。冬哉はただ黙って近くにいてくれた。


 ナースステーションに面会が終わったことを伝えに行くと、キリっとした眉毛の看護師が怒ったような顔でじっとこちらを見る。

「お見舞いに来ないなんて薄情なお兄さんだと思っていたの。でも、そうよね、あなたも色々乗り越えてきたのね。春瑠ちゃんはあなたが来てくれて嬉しいと思うわ。大丈夫だから、また来てあげて」

 そう言って僕と冬哉に飴をくれた。子ども扱いだな、と少し恥ずかしくなると同時に、加賀屋先生の熱いスピーチを思い出した。僕たちはまだ子どもなのかもな。


「大丈夫だっただろ?春瑠はお前を責めたりしない」

 冬哉はもらったアメを口の中で転がしながら窓の外の曇天の空を見上げている。ハッカ味じゃん、いやがらせかよ、と顔をしかめる様子に口角が緩む。

「どう、なんだろうな。でも僕は今日春瑠に会えてよかったと思ったし、これからはあいつのことを守っていこうと思ったよ。自分の罪悪感を減らしたいだけかもしれないけどな」

 重いと思っていた扉は、自分で重くしていただけだったんだろう。冬哉に背中を押されなかったら、あの部屋に入ることさえできなかったかもしれない。冬哉がずっと当たり前みたいな顔で僕の横にいるから、「付いてきてくれてありがとう」だなんて言うのが少し照れ臭い。

「おばあちゃんお待たせ!」

 すっかりおばあちゃんと仲良くなった冬哉は、珍しく人懐っこい笑顔でおばあちゃんのところに駆けていった。僕が学校に行っている時間に、おばあちゃんはたまに冬哉の部屋でボードゲームやカードゲームをやっているらしい。チェスや花札や人生ゲームなんかもやるそうだ。冬哉は、「おばあちゃん何やっても強すぎるんだけど」とぼやいていた。僕の知らないところで二人が仲良くなっているのを見て最初は驚いた。これが少しでも冬哉の救いになっていたらいいけど。

 

「夏希、いい顔になったじゃないか」

 おばあちゃんに頭を撫でられる。過去は消えないし、僕の罪悪感も未だに胸を掬っている。家族との関係も戻らないし、別に春瑠の目が覚めたわけではない。僕はもう髪を切らないしピアスも外さない。店も決して継ぐことはない。それでも、少し、前に進めた気がする。僕の気持ちが変わるだけで、世界はこんなにも色を変える。捉え方次第でまるで違う景色だ。

 


 僕は無事二学期の終業式を終え、加賀屋先生と一緒に冬哉の家に向かっていた。

「岬にはまだ言わないつもりなんだが、岬の父親と校長が会って話をしたらしいんだ。」

 冬哉のおびえた顔が脳裏によぎる。あの日、彼はずっと自分の震える指先を見ながら感情を乗せないように淡々と話していた。どんな言葉も正しくない気がして、僕は何も言えずにいた。

 言葉が感情を凌駕することは決してない。月や星が綺麗で安心することや、雨の日や深い夜に言いようがない寂寥感に襲われることのように、ある次元から感情を言語化できないことがたまにひどく苦しい。あの時から、冬哉にかけるべき言葉をずっと探している。僕の中に答えがないのは知っているのに。春瑠のこともあって、性犯罪については結構調べたり勉強もした。でも身近に男性から性被害を受けている男性がいるなんて思いもしなかったし、ネット上の知識は何の役にも立たない。

「あいつの父親は……本当に危ない奴だ。叔母さんに書いてもらった一人暮らしを許す署名を見ても、虐待のことをほのめかしても、ずっと張り付けた笑顔を崩さなかったそうだ。校長は人のことを滅多に悪く言わず、人を見る目も確かなんだ。そんな校長が、対面して鳥肌が立つというほどの男だ。児童相談所と教育委員会にも話を挙げたから職員がきっとすぐに双方に話を聞きに行くだろう。あいつの父親が逆上したら何をするかわからない。だから岬が家を出る時は俺やお前のおばあさんでもいいから、本当に信頼できる人間を必ず呼べ。校長や児童相談所の人も協力してくれる。あいつを二度と父親の手に渡さないように守ろう」

 守るだなんてまっすぐに言えて、実際にそのすべもある先生に少し嫉妬する。僕がいちばんあいつを守りたいと思っている自負はある。でも結局僕は何もできない。でも、あいつを一人にしないことだけはできる。あいつは僕のそばにいれば大丈夫だと思う。あの笑顔を守れるならいくらでも自惚れよう。

「そんな眉間にしわ寄せてあいつの前に立つなよ。お前が力不足なんじゃない。俺らはただお前のことも心配なんだ」

 加賀屋先生は眉を下げて微笑む。ジャージで隠れていてもわかる筋肉質な腕をほれ、と見せてくる。その明快な態度に思わず頬が緩む。

「冬哉は筋肉のきの字もないから、代わりに僕が筋トレしますよ」


 加賀屋先生は本当に冬哉の様子を見にきただけなのに、ついでにとピザを頼んでくれた。

「加賀センは結婚しねぇの?」

「脈絡がないなぁ……」

「いや、ありがたいけどさ、しょっちゅう俺らのとこ来てるじゃん?もうおっさんだし結婚しないのかと思って」

「先生泣いちゃうぞー?……先生の立場も仕事も理解してくれるいい恋人がいますよ」

 冬哉の遠慮にない質問に、チーズを伸ばしながら屈託のない笑顔で加賀屋先生が答える。

「まじ?どんな人?」

「なんかなぁ、凛とした人だよ」

「凛とした?」

「柔らかく見えるのに絶対に折れない自分の芯があって、周囲でどんなことが起こってもそれが揺らがない人」

 照れくさそうに、でも誇らしそうに恋人のことを話す加賀屋先生は、なんだか知らない人みたいだった。そのたった少しの言葉でも、本当にその人を大事に思っていることがわかった。

 この先生の、裏表がなくまっすぐで少し恥ずかしくなるような言葉の選び方が僕は結構好きだ。まだ何も解決していないけれど、こんな風に三人で話す時間は純粋に楽しい。

 

 加賀屋先生が帰った後、僕たちは約束していた流星群を見るために部屋中の電気を消してベランダに出た。

「寒すぎねぇ?ヒーターと毛布もってくるわ」

 この家は、数週間ですっかり「人が住む家」になった。物も増えたし、そこら中に冬哉の住んでいる形跡がある。極力家を出ずに過ごしているのだから当たり前か。冬哉は毛布とヒーター、ホットカフェオレを用意してくれた。

「コーヒーメーカー、絶対インテリアになると思ってたんだけどあると便利だね」

「まぁ、俺はあんまり飲まないけどお前が結構コーヒー飲むし」

 彼の生活に、今当たり前のように僕がいる。この恥ずかしいような嬉しいような心が弾むような感情を何と呼べばいいのだろう。暖かいカフェオレが体中に染み渡る。冷えた指先がじん、と暖かくなる。

 

 澄んだ空気の空を見上げると、薄いレースカーテンのように揺れる雲の中で星は輝いていた。ふと横にいる冬哉を見ると、ただただまっすぐに、この瞬間を何も取りこぼさないように、瞬く光だけを見ていた。瞳がキラキラしている。僕にとっては、いやきっと冬哉にとっても愛せない物のほうが多いこの世界で、醜いものを見ないことは簡単ではないし、美しいものを探すのは案外難しいことでもある。世界をあるがまま捉える冬哉は美しい。


「今!流れたよな!見た!?」

「見たよ、一個流れたね。ちょっと曇ってたけど見られてよかった」

「昔、母さんは夏の大三角とか、オリオン座とか、有名な星だけは教えてくれたんだ」

 冬哉はただただ、懐かしそうに目を細めて、愛おしそうに話していた。

「星を結んでモチーフを作って、物語を紡ぐ人間のロマンチックさが好きだって言ってた。俺はあんまり星とか興味なかったけど、市営のプラネタリウムとかは何回か行ったことあって。ふーん、くらいに思ってたんだけど、本物の流れ星は別格だな。母さんが星を好きっていう気持ちも今なら本当によくわかる」

「好きな人と好きなものが一緒って嬉しいよね」

 僕を目に映し、嬉しそうに笑って、またその瞳は星を捉えた。

「母さんは星もだけど冬も好きらしくて、雪って光るんだよとか言ってたな。光るものが好きだったのかも」

「雪が光る?」

「雪自体が発光するっていうか、雪が反射で光るって意味かも?たぶん」

「この辺はあまり雪が降らないから、わからないね」

「いつかかまくらとか作りたい」

「あ、ちょっとわかるよ。スキーとかしたくない?」

「いいね、スケートとかも」

「来年はスキー場でも行くか。スケートってどこでできるんだろう」

「来年になったら、俺らは自由かな?」

 それは問いかけではなく、願望に近い響きだった。

「……実はさ、あいつに殴られたり、その、ひどい目に遭ってから、身体を売ってお金をもらおうと考えたことがあった」

「.......え」

「俺はもう汚いし、母さんのおかげで見てくれはいいから需要あるんだよ。たぶん。人間って綺麗なものを汚したい願望があるらしいよ。ネットでそういう相手を探したらすぐにいろんなおじさんが引っかかるんだ。面白いくらい。3万出すって言われた。相場がわからないけど、そんなにもらえるんだって驚いたよ」

 淡々と笑って話す横顔が痛々しい。寒さで鼻の頭が赤くなっている。

「痛みも恐怖も、日常になれば何も怖くないと思ったんだ。どうせ暗くて寒いところにいるのなら、もういっそ二度と戻れないくらい沈んだら自然に溶けてなくなることができる気がしてた。そう思って約束したのは茹だるほど暑い夏の日で、あの日は学校が終わったらそのまま繁華街で知らない男と待ち合わせする予定だった。写真では普通のサラリーマンって感じの人で、ハゲのおじさんよりはいいかと思ってさ。.......けどすっぽかしたんだよな」

 黙って聞いていたけれど、最後の一言に安心して大きく息を吐いた。そんな危ないことをするなと怒りそうになったがぐっとこらえる。

「なんで辞めたの?行かなくてよかったに決まってるんだけどさ」

「夏の希望に引き留められた」

「.......ん?」

 それは僕のことを意味しているのか、別のものを指しているのか、なんだかよくわからなかった。

「よくわからないけど、もうそんなこと考えないでくれよ。一緒にバイトでもするか?」

「いや、バイトはいいや。やりたくない」

 冬哉は手元のトイピアノの鍵盤を指でポーンと弾きながら柔らかく笑う。ベランダに出した丸いサイドテーブルにピッタリ収まるくらいの大きさのピアノだ。赤くてリンゴのようにつやつやしている。子供用の小さなおもちゃだが、音は普通のピアノと遜色ないように感じる。

「何か弾いてよ」

「いいよ。鍵盤少ないからあんまり弾けないけど」

「ドビュッシーとかがいいな」

「お前ドビュッシーなんて聞いたことあるの?言いたいだけだろ」

 呆れた声でそう言いながらも、少しだけ弾いてくれた。何かどこかで聞いたことがあるメロディだ。たぶん有名な曲なんだろう。音楽の授業なんかは真面目に受けたことがないから教養がない。彼の言う通り、ドビュッシーも言いたかっただけだ。こんなに寒いのによく手が動くな。

 静かで切なく、暖かさを孕んだ優しい音。冬哉は黙っていればピアノがすごくよく似合う。このトイピアノは冬哉が自分でネットで見つけて買ったものだ。「母さんが部屋で子守歌代わりに弾いてくれてたピアノに似ている」と言っていた。

 ぽつぽつと過去のことを話してくれるようになった冬哉は、理不尽に苛まれることの多いこの世界で、暖かく美しい記憶を取りこぼさないようにしているようだった。

  

 結局僕たちは二時間粘って、たった三つしか流れる星を見られなかった。まぁ都会だし仕方ない。でも冬哉がひどく嬉しそうにするから、寒空の下で2時間空を眺め続けた甲斐はあったな。ツンと冷たい空気とは裏腹に、暖かい気持ちを抱えていた。妹の未来と両親からの期待をすべて失った僕が、こんな穏やかな時間を過ごすなんて許されるんだろうか。何かを達成するために必死になるわけでもなく、何かに責め立てられることもなく、ただただ何億光年も離れた場所にある星を眺めていた。美しい人の横で。夢を見ているみたいな日々だ。


 お風呂から上がると、夜通しゲームをしようなんて言っていた張本人が小さな寝息を立てて眠っていた。彼の過不足のない造りの容姿を見ているとたまにゾッとする。「綺麗なものを汚したい願望があるらしい」と言っていたが、それは誰の受け売りなんだろうな。そんな汚い欲望の果てに彼はひどく傷ついている。僕は綺麗なものは恐ろしくて触ることもできない。だって冬哉は爪の先まで綺麗で、まばたき一つにさえ見惚れてしまうほどだ。ソファに転がって眠る彼のまつ毛を眺めていると、月明りできらきらと輝く雫が流れる。……そうだよな、傷は何一つ癒えていないよな。僕はこれ以上傷が増えないように逃げ場を与えただけで、過去の傷をいやすことはできない。化膿したその傷に消毒することも、恐ろしくてできないんだ。

 何年かかってもいいから、いつか本当に冬哉が恐ろしいと思うものすべてがこの世からなくなればいいと思う。金輪際、理不尽に苛まれることなんてなく、穏やかに生活してほしい。


 

 

 刺すような冷たい空気に肌がひりつく。冬哉の家から自宅に帰る途中、黒いバンがゆっくり後を着いてきていることに気が付いた。細道とはいえ、車が歩行者に合わせたスピードで走行するなんて不自然だ。僕の手は少し震えている。

 『ばれたら俺らはもう二度と会えない』と、彼は言った。「冬哉の脅威」が危害を加えるのは何も冬哉だけではないだろう。わかっていた。あいつを助けようと思ったあの瞬間から、自分の何を捨ててでも絶対に守ろうと思っていた。

 ふと加賀屋先生の涙ぐんだ顔と、春瑠の病院で飴をくれた看護師さんの顔を思い出す。僕はまだ子供で、自分一人では何も解決できない。ただその事実を悲観するのではなく、周りに助けを求めるべきなんだよな、きっと。加賀屋先生に電話しようとスマを取り出す。


 

 次の瞬間、目を開けると知らない天井があった。……僕は確か、先生に電話をしようとして。

「橘夏希くん」

 冷たい、低い声が僕の名前を呼んだ。心臓がばくばくしているのがわかる。声を聴いただけで体が硬直する。恐る恐る声のほうに目を向けると、高級そうなスーツに身を包んだ背の高い男が立っていた。口角が上がっているが全く笑っていない。何の感情もない、光のない瞳。一瞬で理解した。『あいつ』だ。こいつだ。こいつが、冬哉を傷つけた元凶。怒りで震える。身体が熱い。……頭が痛い。脳みそをガンガンとハンマーで叩かれているようだ。僕は、何をされた、?


「男の子だからって、あんな暗い夜道を一人で歩いていたら危ないよ。ところであのお人形はもう味わった?どうだった?私の趣味が入っているが、かなり楽しめたんじゃないか?美しいものを穢すのは男の本能だからね」

 その男はベラベラしゃべりながら、僕が寝かされているベッドに腰かけた。慣れない香水の匂いに目眩がする。こいつは何を言っているんだ?知っている言葉なのに内容が全く理解できない。

「人のものに勝手に手を出しちゃいけないんだよ。あれは私だけのおもちゃだからね。多少のことでは壊れないけど、自分以外がつけた傷を見ながら抱くなんてたまったもんじゃないだろう」

「お、まえ……」

 うまく喋ることができない。今すぐにこいつを殺したい。殺したい。薄ら笑いを浮かべているこいつを、殴り殺したい。

「ごめんごめん。薬だけじゃ心配だったからちょっと何回か頭叩いちゃってさ。でも、痛めつけるなら起きてる時のほうがいいよね。私が私のお人形にしたこと、知りたくないか?希に似て美しいくせに、男だからなかなか壊れることもなくて……つい遊びすぎちゃったんだろうね。でも、正直まだ私から逃げようとする気力があるとは思ってなかったよ。何もかも諦めるように育ててきたつもりだったのに。なぁ、お前が私のお人形に希望とかいうやつを与えたんだろ?」

 これはやばい、本能でわかる。逃げないと、身体が動かない。頭も動かない。どうしよう、逃げないと。動こうとして初めて、手も足も拘束されていることに気が付いた。……逃げられない。

 ガンっとした衝撃とともに視界が揺れて、頬に痛みが走った。口いっぱいに血の味が広がる。地獄の味がする。

「なぁ、お前は冬哉をどんな風に抱いた?」

「ぼ、くは、あいつにそんなことしないっ……いっしょに、するな……」

 喋ると口の端がびりびりと痛む。男は僕の言葉を聞いて一瞬目を見開いた後、ゲラゲラと笑った。

「あー、可笑しい。プラトニックな関係ってやつ?青いねぇ、あいつはとっくに穢れてるのに」

 

 僕は抵抗できず、何度も何度も何度も殴られた。顔もお腹も頭も全身が痛い。

「うっ……やめろっ……」

 これが、冬哉の日常?こんな地獄の中で過ごしていたっていうのか?なんで、なんなんだよ。なんでこいつはこんなに人をめちゃくちゃにできるんだよ。


「よし、じゃあ二度と冬哉に近づこうなんて思えなくさせようか」

 ガチャガチャと金属音が聞こえた次の瞬間、下半身に激痛が走った。

「うっあああああ」

 身体が裂けそうで、内臓が潰れそうで、苦しい。僕は、気が遠くなる痛みの中で、冬哉のことを延々と考えていた。


 何時間、何日経ったんだろう。繰り返し浴びさせられる終わりのない暴力。


 春瑠や冬哉の痛みが少しわかった。僕はわかったつもりで何もわかっていなかった。人は自分が経験したことしか真に理解はできないんだ。あぁ、愚かだ。守りたいだなんて言って、戦うべき対象も知らずに、本当の地獄も知らずに、自分が立ち向かえるだなんて勘違いしていたんだな。レプリカの剣を掲げ、架空のゲームの敵と戦うような覚悟しかなかった。

「殴る、蹴る、焼く、どれがいい?」

 うっすらと聞こえる声に応える気力も湧かない。

 

 冬哉の寂しそうな、遠くを見つめる瞳を思い出す。彼は、苦しみや痛みや悲しみを、不甲斐なさや行き場のない怒りを、たった独りで抱えていた。いつまで続くのか。なんのために痛みを刻まれているのか。大切な思い出や積み重ねてきた自尊心までもが崩れ落ちそうになる中で、気力だけでどうにか立っていたんだろう。息をするのも精一杯なのに。

 月の光も届かない、冬の海の底みたいな生活。

 

 「拘束を解いてもうんともすんとも言わないし、そろそろ反抗する気力もなくなってきた?あの子を返してくれるなら、別にこのまま見逃してもいいんだけど。殺すほどではないというか、死ぬなら自分で死んでほしいというか」

 真っ暗な部屋の中で、テーブル横のぼんやりとした明かりが忌々しい男を照らしている。まるで友達と冗談を言い合うかのような軽い口調だ。すべてがどうでもいい。この世の全員が死ねばいい。僕が死んだほうが早いか。あぁでも、家族や冬哉は生きていてほしい。明るい場所で、暖かい場所で、生きてほしい。こいつが存在していたらそれは叶わないだろう。

「……ここで死にたい」

「そうかぁ、何がいい?首吊り?飛び降り?服毒とかはつまらないからやめて……」

 話し終わる前に、テーブルライトを思いっきり憎らしい頭に打ち付ける。

「あ?何するんだお前!」

 床に倒れはしたが、一回の衝撃じゃ死なない。そりゃそうだよな、こういうやつほど世に蔓延るんだよ。死ねばいい。死ねばいい。二度と口を開くな。目を開けるな。死んでほしい。転がる男を何度もライトで殴る。


「ぐっ、あ、お前、許され……るとでも……う、あ」

 ギャーギャー喚いていた男が血をまき散らし、うめき声しかあげなくなる。でも生きている。部屋を見渡し、カーテンをまとめているビーズとワイヤーの紐を取る。


「冬哉は絶対に返さない。代わりに僕が一緒に地獄に行ってやるよ。僕だって、汚れた手で暖かい場所に帰るわけにもいかない」

 転がる男の首をワイヤーで締める。ひゅうひゅうと、まだ呼吸をしている。頭を足で押さえつけ、ワイヤーをぐっと手で引っ張る。目の前の男の息が途絶えるのを必死でまった。

 痛みを与えられ、服従させられ、尊厳を奪われ、なぜ冬哉はこいつを生かしていたんだろう。恐怖で支配されていたのか。何をしても敵わないと思い知らされたのか。僕もおとなしいお人形だと油断したのが運の尽きだな。


 身体じゅうが痛い。ワイヤーの摩擦で血まみれになった手を見る。正直もう動く気力も体力もない。このままここに倒れていれば僕もそのうち死ねるんだろうな。『あぁ、僕の人生なんてこんなもんだよな』と思い続けてきた。でも、春瑠に会いに行けた。冬哉と幸せな時間も過ごせた。好きな人に好きだとは言えないままだけれど。この男を地獄に送ることができただけで充分じゃないか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る