♢♢♢

 俺はこの世界が嫌いだ。蒸し暑いだけの夏も、自己主張の激しい蝉も、同年代の人間を狭い部屋に詰め込む頭のおかしいシステムも、ゴミみたいな家族もどきも。何もかもが気に食わない。敵だらけだとすら思う。だからと言って、他に行ける場所もない。家にはいたくないし、学校にも居場所なんてない。

「岬、今日は調子どうだ?」

「落ち着いてるよ。起きられなかったのはちょっと夏バテっぽかったからかも。加賀セン、今日の映画はー?」

 担任の加賀センとしか口を聞かない日だってある。結局は先生だし、ただの大人に気を許しているわけではないけれど、この人は俺に映画という逃避の仕方を教えてくれた。それは素直に助かったと思う。

 加賀センが俺を気にかけてくれるのは、入学式の日に中庭で一人で過呼吸になっていたのを見つけてくれたことがきっかけだ。あの日は初めての場所に来るということに加えて、暖かくてざわざわした空気や、パリッとしたカッターシャツ、はらはらと目障りな桜、春にしては強い日差し、色々なものに目がくらんでしまったんだろう。立つこともできなくて、呼吸の仕方がわからなくなり、息が苦しくて涙も鼻水も止まらなくて、「あぁ俺はここで死ぬんだ」なんてどこか冷静に考えていた。でも、小さい紙袋を持ったジャージの先生が来て、背中をさすって呼吸をさせてくれた。生徒はもう入学式で講堂に集まっている時間だったし、過呼吸の対処の仕方もわかっていなかったから加賀センが来てくれなかったらどうなっていたかわからない。先生はその時、さぼって煙草を吸いに行ったらたまたま俺を見つけたんだと後になって聞いた。確かに煙草臭かった気もする。本当は初対面の人間に触られるのは不快で苦手だけれど、あの時はそんなことも気にできないくらいとにかく必死に呼吸をしていた。息を吸って吐くという無意識の行動があんなに生命維持に支障をきたすだなんて考えもしなかったのに。

 その後も、教室に行きたくなくて門の前をうろちょろしていた俺に保健室という逃げ場を作ってくれたし、授業時間にきちんと課題を提出すればなんとか単位をくれるように他の教科の先生にかけあってくれた。理由も深くは聞かずに適度な距離を保ってくれているし、なんだかんだかなり恩は感じている。この先生がいなかったら今頃学校にも来なくなっていた気がするしな。

 

「なんかまたちょっと痩せたか?ご飯ちゃんと食べてるのか?食べて寝ないと夏バテしちゃうからな?今日は新しいジャンルの映画を持ってきたぞ!岬はたぶん好きだろ」

「人の返事も聞かずにめっちゃ畳みかけるじゃん……。面白くない映画だったらコーラ買って」

「その前に課題やれよ。お前が授業に出なくても単位を落とさないように、先生結構頑張ってるんだからな?」

「えー……加賀セン教えてよ」

「これから受験生の授業行くから無理だけど、お前そんなのすぐ終わるだろ」

「高1の範囲なんてどの教科も余裕すぎて逆にだるいんだよ、そのまま書くから答え教えてって意味」

「腹立つ天才だな。ちょっとは頑張ってくれよ!岬のオアシスがなくなってもいいのか?」

 オアシス……とは言い難い消毒液の匂いが充満した狭い部屋。でも、確かに俺にとってはオアシスだな。保健室の先生はいい意味で俺を空気扱いしてくれるから、こっちも気を使う必要がない。最低限しか人と関わらなくていいし、プリントさえ提出すればだるい授業も出ずに映画見て過ごせるし。時間割通りに並べられた6教科分の課題を眺める。今や無駄になった英才教育のおかげでこれくらいの課題なんて目を瞑ってでもできる。だからこそ授業に出なくてもなんとかなってるんだよな。加賀センは、俺が嫌々課題プリントをめくって手を動かす様子をコーヒーを飲みながらしばらく黙って見ていた。


 課題を終え、学校で貸し出される画質の悪いDVDプレイヤーで映画を一本見終わった頃、野球部がちらほらグラウンドに出てきていた。このくそ暑いのによく運動なんてできるよな。太陽の光が嫌いな俺はほとんど引きこもりだから、肌は引くほど白い。もはや生気のない土気色?自分の手を窓から差し込む光にかざす。幽霊みたいに、透ければいいのに。こうやって景色と同化して消えてしまえばいいのに。俺は、生きているのかな。

「や、岬くん。コーラとポテチ買ってきた。コンソメで良かった?」

 聞きなれない声に少し驚いて振り向くと、保健室のドアの前にコンビニ袋を持った夏希が立っていた。肩につくくらいまっすぐ伸びた黒髪。細くてキリッとした目に薄い唇。鼻筋は通っていて骨格が綺麗なことがわかる。シルバーのピアスが印象的だ。さっぱりした顔とは裏腹に肩幅があって身体はがっしりしている。鍛えているんだろうか。なんかホストみたいだな。制服似合わないし。

「なつのきぼう」

 本当に彼が保健室に訪れたことに対してなんだか恥ずかしくなり、名前を茶化してしまう。『物語に救われる』と言った奴の話をもう少し聞いてみたいと思ったが、正直口だけで本当には来ないと思っていた。普通、教室に行ったこともない保健室登校のクラスメイトなんて得体が知れないし近寄りたくないだろ。相当暇なんだろうか。

「夏希な。夏生まれだからね。君は冬のはじめだね」

「冬のはじめ?」

「冬哉の哉は、感嘆詞だけど『はじめ』という意味もあるんだよ」

「そんなこと初めて聞いた。産まれたのは冬のはじめってか全然真冬だけど。」

「まぁ今はそんな意味では使われないからね。親御さんがどういう意図で君の名前をつけたか知らないが、綺麗な名前じゃないか。冬哉」

 ひどく落ち着いた、子守唄のようなトーンで自分の名前を呼ばれるとストンと体に名前が馴染む。あぁ、その響きは俺の名前だったな。初めて音に意味が宿ったような、不思議な気持ちだ。自分でも考えたことがないような名前の意味を読み取ってくれたことはくすぐったいけど嬉しいと思った。

「じゃあさ、岬じゃなくて冬哉って呼べよ。苗字嫌いだし」

 

 その日から、放課後になると、夏希はほぼ毎日無機質な白い部屋に顔を出してくれた。加賀センは「問題児が保健室に増えた!」と嘆いていたが、それでも毎日俺らに映画を持ってきてくれた。夏希なんてピアスが開いていてちょっと口が悪いだけで、別に問題児ってほどじゃないだろ、と加賀センに言うと、大きなため息をついた。

「あいつはニコニコしてるだけで岬と本質は変わんねーんだよ」


 「たまにはジャズも聞こう!」という加賀屋先生の勧めで、薄暗い店でスーツを着た人たちが演奏している動画を見たりもした。少しピアノは弾けるけれど、ジャズなんて初めて聞いたから結構新鮮な体験だ。その他の時間は、俺たちは大概どうでもいい話ばかりしていた。ポテチはコンソメ派かのり塩派かとか。夏希はスポーツは嫌いだけど、筋トレは欠かさずやっていて、フィギュアスケートを観るのだけは好きだとか。駅前のハンバーガー屋のコーヒーシェイクが美味いとか、ドーナツはココナッツがかかってるやつしか食べないとか。当たり障りのない、どうでもいい話だ。それでも俺は本気で、映画よりも自分を救ってくれるものに出会ったと思った。夏希と話してるだけで気がまぎれるし、安心する。人といて安心するなんてあるんだな。

 茹だるほど暑くても、夏希の隣は空気が綺麗だった。顔がさっぱりしてるからかもしれない。静かに話す声のトーンが落ち着くからかもしれない。ぐいぐい距離を詰めてくるくせに、変に干渉してこないからかもしれない。

 同じ目線で喋れる人間がいるだけで、気に障るものばかりでいいことなんて何一つない退屈な日々に少し世界に色がついた。空にも色があって、風には匂いがある。雨には音があって、空気には温度がある。そんな当たり前のことに初めて気が付いた。


「もうすぐ文化祭があるけど、君はどうする?一応うちのクラスはお化け屋敷をやるって決まったみたいだけど」

「どうするって、俺はここにいるけど……。でもうるさそうだな。休もうかな」

「僕も当日はさぼれるように、ありえない量のダンボールを真っ黒に塗る作業を請け負ったんだけどさ。終わる気がしないから手伝ってくれる?一応クラスの一員だし」

「お前一人でそれやってんの?いじめられてる?」

「いや、ずっとぼっちの冬哉じゃないんだからさ……」

「俺は自分で選んでぼっちでいるからいいんだよ。孤高の冬哉くんだろ」

「まぁ喋らなければそういうキャラかもね?」

 軽口をたたきながら、夏希はいそいそと絵具を広げ始めた。

「橘くん、汚れるからさすがにここで絵具広げないでくれる?」

 サボる云々の話を聞いても黙って放っておいてくれる保健室の裕木先生も、さすがに苦言を呈した。女性なのにいい意味で貫禄があるというか圧がある。基本的に優しいけれど、言うことはぴしゃりと言う人だから、保健室でサボる生徒は少ない。

「そんな、冬哉は保健室を出られない引きこもりな上に、同学年の生徒に遭遇したら倒れてしまうのに……」

「ありもしない設定をつらつら並べんなよ」

「ふふ、仲良しねぇ。いつも暇そうな加賀屋先生に社会準備室開けてもらったらいいんじゃないかしら?」

 裕木先生はいつもにこにこして柔らかい雰囲気をまとっているが、加賀センには少し当たりが強い。仲が悪いのかと思ったこともあったが、加賀センは暇な時はよく保健室に来るし、裕木先生とも結構楽しげに話しているからお互いに気を許しているのだろう。


 俺たちは施錠されていない社会準備室に勝手に入り、数えるのも嫌になるくらいのダンボールの束をひたすら黒く塗りつぶしていた。

「え、これなんのためにやってるんだっけ?苦行?」

「冬哉、我に返ったら負けだよ」

「本当になんでこれを一人でやることになったんだよ……。よっぽど立派なお化け屋敷にでもならないと気は済まない」

「当日お忍びで見に行ってみるか?」

「お忍びって、俺はともかく、お前は友達の一人や二人いるだろ」

「まぁ、みんなの輪に入るだけが正しいわけじゃないってことだよ。同じぬるま湯に浸かって、自分も同じ温度になった瞬間、違和感に気付けなくなるから。少し離れて俯瞰しているくらいがいいんだ」

 夏希は作業の手は止めず、淡々と言葉を落とす。悲しそうでも寂しそうでもなく、ただそういうふうにできているんだよ、という具合に。集団の中でまともに生きたことがない俺は、夏希の言葉の意味が半分くらいしか理解できなかったけれど、なんとなく大きな水槽に入れられたたくさんの魚たちのイメージが浮かんだ。本来は広い海で生きる魚たちが、誰かの都合で狭められた世界を「世界のすべて」だと認識する。それはどこか学校というシステムに似ているよな。


「お前ら……これはどういう惨状だ……」

「あ、加賀センおかえり」

 声の方に目をやると、ノートの束を抱えて、見たことないくらい口を四角く開けている加賀屋先生が立っていた。

「せめて、せめて新聞紙とか敷いてくれよ!」

「鍵はきちんと閉めないと不用心ですよ。貴重品とか持ち歩いてますか?」

「勝手に入って好き勝手やってるやつが何を言っているんだ……」

「保健室で作業しようとしたら裕木先生に止められて、社会準備室を貸してもらえば?と提案されたので」

「許可を取れ!」

「いや、いなかったので後からでいいかなと」

「屁理屈ばっかり……」

 加賀センは、夏希の悪びれない様子に頭を抱えて大きくため息をついた。あぁもう好きにしろ、と新聞紙を広げて渡し、諦めたようにタバコに火をつけた。

「タバコ臭いけど、安息の地ゲットだね」

『ニコニコしているだけで本質は問題児』だと言った加賀センの気持ちがよくわかった。これは相当生意気だ。しかも最後は許されるのをわかってやっているから質が悪い。

 保健室の半分くらいの狭さの準備室は、資料やら地図やらが無造作に置かれている。壁は茶色くて、ところどころ壁紙も剥がれているような年季が入った部屋だ。小さな窓から西陽が刺して、少し涼しい風が部屋を横切る。

 穏やかな風がタバコの煙を揺らして、微かにコーヒーの香りを運んできた。黙々と黒を塗りたくる夏希の頬にまつ毛の影が落ちている。少しずつ陽が短くなってきて、夏ももう終わる。


「僕たちの苦行は無事立派なお化け屋敷になったよ」

 何日もただ黙々とダンボールを黒く染める作業を終え、俺はやっと保健室で映画を見る時間が戻ってきた。夏希が本当に段ボールの黒塗りをすべて終えたので、クラスメイトからは感謝されて大袋のお菓子をもらっていた。「あんなに大量にあったのに一人で終わらせたなんてすごい」と絶賛されたらしい。俺がそそくさと好きな味を3つ選んだ後、仕方ないから山分けしよう、と言って裕木先生と加賀センにも2袋ずつ分けていた。イチゴと抹茶とバナナのチョコ、どれから食べようかと机の上に並べる。

「いや、本当に一時はどうなるかと思ったよな」

「どうなるかと思ったのは先生なんだけどな?お前らが血迷ってダンボールの上にペンキぶちまけようとするから……」

「あれをちまちま絵具で塗るのは無理だった」

「ペンキと刷毛という存在に早く気付くべきだったよね」

「刷毛じゃなくてぶちまけようとしてただろ!?危なかったなー。準備室の床が真っ黒になったら学年主任に何言われるかわからん……」

「あら、ついでにタバコもばれて少しくらい怒られたらいいんじゃないかしら」

 裕木先生の刺々しい言葉に加賀センは大きくため息をついた。加賀センはちょこちょこ学年主任に怒られているらしい。

「いいか、お前ら。社会は喫煙者に厳しいんだ……」

「まぁそれはいいんだけどさ、冬哉もお化け屋敷見に行かない?」

 先生を適当にあしらった夏希の思いがけない提案に返答ができず、つい目をそらす。教室に行けない、というか大勢の人間が苦手な理由を話したことはまだなくて、どう言い訳しようか考えを巡らせていると、ふと視界が開けた。

「生徒が帰って、加賀屋先生が戸締りする直前に少しだけ内装を見に行こうよ。お化け役はいないから何も面白くないかもしれないけどさ」

 夏希が下を向いた俺の前髪を指でかきわけ、前髪切れば、と柔らかく笑った。


 チョコが俺ら4人によってすっかり空っぽになったころには部活も終わり、保健室は施錠された。外は真っ暗で、廊下もところどころ電気が消されている。

「この時間は少し寒いから気を付けて。私は先に帰るから、きちんと駅まで加賀屋先生に送ってもらってね」

 俺は夏希の提案に何も言えなかったが、とんとん拍子でいつの間にか教室を見に行くことになった。冷たい廊下を歩くと、静寂に上履きのぺたぺたした音が響く。加賀屋先生は今月は見回り当番だから、回る手順とかが色々あるんだと言って別行動だった。

「僕は文化祭当日休むんだ。だからその前に君と回っておきたくて。無理言って連れ出してごめんね」

「いや……別に無理じゃないし、ちょっと興味はあったから」

 入学してから初めて来る自分の教室は、入口に重々しいカーテンがつるされていた。血のりで彩られたお化けのお面などが飾られていて、思っていたよりもポップな雰囲気のお化け屋敷だ。

「中は迷路みたいになっていて、そこに僕らの怨念のこもった壁が使われているんだ」

 ドアを開けると、段ボールで仕切られた道が広がっていて、奥には檻のようなものも見える。

「檻の中にお化け配置するのか」

「そうそう、ゾンビ?だったかな。設定は、なんだっけな」

「興味なさすぎだろ」

「冬哉には言われたくないね」

 いくつか仕掛けがあったり人形が置かれたりしてはいるものの、人がいないから、お化け屋敷というよりはただただ暗い迷路を歩いているだけだった。文化祭って初めてだけど、当日は比にならないくらい騒がしいんだろうな。騒がしいところよりも、静かな空間や一人の空間のほうが俺は好きだ。夏希も休むなら、当日は自分も休もう。もう最近は既に学校全体がなんとなくせわしない空気だし、保健室もきっと安息の地ではいられないだろう。

「マンガとかドラマとかでは、文化祭ってすごく眩しいものとして描かれることが多いよね。例えば恋愛が進展したり、クラスで孤立していた子が輪に入るきっかけになったり」

「あぁ、そうかも」

「でも現実はそんな簡単にはいかないと思わないか?僕みたいにクラスメイトと浅い付き合いしかしていない奴は、校内イベント一つで関わり方を変えられるわけではないし、冬哉もせっかくの文化祭だから当日は参加してみようかななんて思わないだろ。根付いたものはそう簡単には変わらないし、変わることが必ずしも正しいとは思わない」

「まぁ、そうだけど。何の話?」

 斜に構えた言葉は何時も通りだが、語尾が少し震えているのが気になり、顔を覗き込む。重々しいカーテンからうっすらと差し込む月明りで照らされた彼は眉間にしわを寄せ、薄い唇をかみしめていた。いつも飄々としている夏希が今にも泣きだしそうな顔をしていて、自分の鼓動が早くなるのを感じる。小さい子供を慰めるように、とっさに手をつかんだ。

「俺は普段保健室に引きこもっているし、明るい場所に連れて行くなんて気概はないけど、暗いのが怖いなら手ぐらい引いてやるから」

 

「おーい!そろそろ帰るぞー!」

「……加賀屋先生は無駄に声がでかいね。図体もでかいし」

 遠くから聞こえる太い声にふっと笑って、いつものように軽口をたたく様子にほっとした。出口につくと、眩しい蛍光灯が俺らを照らす。夏希はもうすっかりいつもの表情だ。明るい場所に連れてきてくれた奴が根明だとは限らないし、もしかしたら暗闇の中でしか見えないものもあるのかもな、なんて考えながら、加賀センのところまで歩いていた。

「どっちが怖がり?」

 にやにやとそう聞かれるまで、手を繋いだままだったことを忘れていた。お互いにお互いを「こいつが怖がってた」と指をさしたら加賀センはひとしきり声をあげて笑ってから、目を細めてゆるく夏希の頭を撫でた。

「車出してくるから昇降口で待っててくれ」

 外には下弦の月が出ている。薄い雲に覆われてはっきりは見えない。


 夜もすっかり更けたころ、ベッドに入って騒がしい保健室と雲の隙間からうっすら見える星と月を思い出す。自分の家なのに足音に耳を澄まし、眠れない夜を過ごしている。俺は学校も人混みも嫌いだけど、家がいちばん居心地が悪い。基本は一人で過ごしているから、無駄に広い家を持て余している。家の中にいても結構暇で、だだっ広いスペースを使うために誰もいない時間に家の中を散歩したり、たまに庭の噴水の中に足を突っ込んだり、生い茂る草をちぎったりと無駄な時間を過ごすこともある。ただ時間をつぶすために。

 基本は一人で生活をしているから、毎月食費や雑費として十万ほどを手渡され、三万は使って七万くらいは貯めている。もう四年くらいはそんな生活をしているから、口座には300万くらいは貯まっているだろう。週に一回か二回のペースで家事代行のおばさんが来て、家の中を掃除してご飯を作り置きして帰っていく。学校に行っている時間だからほぼ会うことはないけど。私立の高校に通わされているし、食費も過剰でお金だけは湯水のように与えられている。愛なんてあるわけがないし、俺もそんなものは求めていない。ただ平穏だけがほしい。何も奪われず、怯えることなく眠りにつきたい。

 

 暗がりの中で見た夏希の顔を思い出すと少し動悸が収まった。明快で温度のある言葉を使う人でも、何も抱えていないわけではないんだ。俺が駅でぶつかって睨んでしまったあのおじさんも、街でナンパしてきた化粧の厚い女の人も、誰かにとっては大事な人で、きっと癒えない傷やなかったことにしたい過去を抱えて平然と生きているんだろう。

 俺は教室に行くことすらままならないのにな。寝返りを打つと、サラサラとした生地のパジャマで肌が擦れる。「小さなころのように、ごわごわのタオルでくるまれて、陽だまりの中で昼寝をしたい」なんて考えていたらいつの間にか外は明るくなってしまっていた。もう4時か.......。今日も学校に行けば夏希や加賀セン、裕木先生が笑いかけてくれる。夏希に勧められたゾンビの漫画でも読んで登校時間を待つことにしよう。

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