『声の届かない部屋』
るいす
第1話:引っ越しの夜
家具を運び終えたトラックの音が遠ざかると、部屋の中に静寂が落ちた。
咲良は玄関のドアを閉め、深く息を吐いた。
新しい暮らしの始まり。そう思えば、多少の疲れも心地よい。
駅から徒歩五分、築浅のワンルーム。
家賃は少し高いが、防音がしっかりしているのが決め手だった。
――もう、隣の生活音に怯えなくて済む。
そう思っていた。
荷解きの途中、ふと時計を見ると午後十一時を過ぎていた。
外はまだ冬の匂いを残していて、冷たい風がベランダの隙間を鳴らしている。
電気ポットでお湯を沸かし、インスタントのスープを口にしたとき、
小さく「カチリ」と音がした。
電気かと思ったが、違う。
もっと近い――壁の向こうだ。
耳を澄ます。
……声、のようなものが聞こえる。
ぼそぼそとした、誰かの話し声。
けれど、不思議と怒鳴り声でも笑い声でもない。
何かを、淡々と語るようなトーン。
引っ越したばかりの隣人かもしれない。
咲良は気にしないようにスープをすすった。
けれど、次の瞬間、背筋がわずかに強張った。
――その声、聞き覚えがある。
音は途切れ途切れだが、確かにどこかで聞いたことのある抑揚。
短い間を置いて、「うん」と相槌を打つ癖。
……自分だ。
それは、自分の声だった。
笑ってしまうほど馬鹿げている。
咲良は苦笑しながらテレビをつけ、音を被せた。
新しい環境に神経が過敏になっているだけ。
壁が薄いのか、共鳴して変なふうに聞こえただけ。
そう思い込もうとした。
しかし、寝る前に電気を消したとき、また、あの声がした。
今度ははっきりと――
「……ここ、思ったより静かだね」
ベッドの中で固まる。
まるで、彼女が部屋を見回すように喋っている。
言葉の内容も、自分が数時間前に言ったことと同じ。
“思ったより静かだね”――引っ越してすぐに呟いたそのままの言葉。
布団の中で心臓が鳴る。
やめよう、考えすぎだ。
でも、耳を塞いでも聞こえる気がする。
あの声は、まるで壁の向こうにもう一人の自分が住んでいるみたいだった。
やがて、眠りに落ちる直前。
壁の向こうから、もう一度、自分の声がした。
「咲良、ちゃんと聞こえてるよ」
目を開けたときには、部屋は静まり返っていた。
ただ、壁紙の継ぎ目が、どこか微かに震えているように見えた。
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