タイム・アセットー時間の売買ー

ふじの白雪

前編 時間を売った男

「貴方の時間を買います。

​1分1万円。60分60万円。」

​そんな奇妙な広告のチラシが、雑踏の中、チラシ配りの手によって不動ふどうの手に渡った。

「時間を買う?」

​不動は思わず立ち止まり、その文言を二度見した。悪徳商法かと疑ったが、計算高い頭がすぐに弾き出した数字に、警戒心は脆くも崩れ去った。1時間で60万円。桁違いの金額だ。

​「(…遊ぶ金が欲しい。話だけ聞いて、ヤバい話なら逃げればいい。リスクはないだろう)」


​―好奇心と金銭欲―。この動機に突き動かされ、不動はチラシの住所に向かった。


​チラシの場所は、都心にあるごく普通のオフィスビル。エントランスの清潔感に、不動の警戒心は少し和らぐ。

​フロアは白を基調としたシンプルな内装。『株式会社タイム・アセット』のプレートがあった。

受付に促され待っていると、奥から一人の男が出てきた。三十代半ば、上質なスーツ。ごく一般的なビジネスマンといった風貌だ。ただ、その目が、不思議なほど『空虚』に見えた。

「お越しいただきありがとうございます。この事業の責任者の時田ときたと申します」

​「あの…時間を買いますって…どういう事なんでしょうか?」

時田は表情一つ変えず、淡々と言い放った。「そのままですよ。貴方の時間を、われわれが買うのです」

​「もし俺が時間を1時間売る。その時間はどうなるんだ?」

​「時間はなくなりません。貴方の活動が失われるのです。23時から24時までの時間を売ると…貴方はその間、行動ができなくなります。簡単に言うと、休眠してしまう、ということですね」

「(最初から…そう言え!)」不動は心の中で毒づきながらも、『休眠』という言葉に好奇心を刺激された。


​時田は一枚の赤い紙と朱肉を静かに置いた。

​「どの時間を売りますか?」

​「どの時間とは、どういうことですか?」

時田は空虚な目を不動に向け、淡々と言い放った。

​「売却の対象となるのは、貴方の人生における『時間の枠』そのものです。一度売れば、それは未来永劫、毎日、その一時間は貴方の活動から失われます。貴方が生きている限り、永遠にです。その対価が、1分1万円、1時間につき60万円、1度きりの支払いとなります」

「…たった一回、60万円の支払いで、俺の一時間が永遠になくなるのか?」

「はい。われわれが買っているのは、貴方が要らないとする、ただ休眠する時間の『権利』です。貴方にとって、その程度の価値しかない時間だ、ということですね」

時田は皮肉を込めた。

「(どうせ寝る直前の無駄な1時間だ。失ったところで実害はない。だが、60万円。悪くない取引だ)」

不動は言った。

「…じゃあ、23時から24時までの1時間を」

​「わかりました。では、契約書に時間を記入し、拇印を押してください。一度拇印を押せば、もう後戻りはできません」

不動は震える手で時刻を書き込み、拇印を押した。

「これで契約成立です」

​時田は60万円が入った封筒を静かに置いた。不動はそれを受け取り、急ぎ足でビルを後にした。


​本当に時間がなくなるのか?半信半疑のまま、その夜を迎えた。

​23時になろうとする瞬間、ベッドで意識を保とうとしたが、意識は秒単位で遠ざかり、突然途切れた。

次に目を開けたとき、窓の外はすでに24時を回っていた。身体はわずかに疲労感を覚えるものの、意識の途切れる直前の記憶は、綺麗さっぱり抜け落ちていた。

「本当に…消えたのか…」

​最初の『休眠』は、何の後遺症もなく終わった。手に入れた60万円の快楽が、彼の金銭欲に火をつけた。


​すぐに彼は考えた。

「(まだ売れる時間はある。どうせ睡眠時間だ。五時間くらい売っても、実害はないはずだ)」

不動は翌日、再び『株式会社タイム・アセット』を訪れた。

​今度は『24時から朝の5時までの五時間』。合計300万円。

「これで、合計6時間、毎日貴方の人生から活動時間が失われます」

​時田は淡々と言い、300万円が入った大きな封筒を不動に手渡した。

その晩、不動は二度目の『休眠』を体験した。23時に意識は唐突に途切れ、次に意識を取り戻したのは、朝の5時を少し回った頃。間の6時間だけが、彼の記憶から消えていた。

「(よし、完璧だ。これで360万円だ)」

​興奮しながらリビングへ向かった不動は、そこで小さな『実害』に直面した。

床に、インスタントラーメンの空の容器が転がっていた。その隣には、焦げ付いた電源コードと、溶けたプラスチックの残骸。安物の電気ヒーターのコードだった。コンセントに差し込む部分が、激しい熱で溶けて変形していた。

​彼は慌ててコンセントプレートを見ると、わずかに黒ずんでいた。接触不良で異常発熱を起こし、火花を散らしかけたらしい。幸い、大事には至っていない。

しかし、もしこれが火事になっていたらどうなっていただろうか?休眠時間中、彼は一切対応できなかった。

「そうか…俺の活動が失われたってのは、こういうことか…」

6時間は、『意識と活動の完全停止なのだ』。不動の顔から、一気に血の気が引いた。

​だが、金銭欲は恐怖すらすぐにねじ伏せようとした。

「(…いや、大丈夫だ。毎日こんなことは起こらない。たまたまヒーターの調子が悪かっただけだ。それに、まだ売れる時間はある。朝の5時から7時までの、どうせ二度寝している時間だ…)」

恐怖は、手に入る現金の確実な魅力の前では、まだ、取るに足らないリスクでしかなかった。


​恐怖を無理やり押さえつけ、不動は翌日、三度『株式会社タイム・アセット』を訪れた。


​今度は『朝の5時から朝の7時までの二時間』。これで合計八時間の休眠時間となったが、二時間分の利益、120万円が火災の恐怖をねじ伏せた。

「これで、貴方の人生から毎日8時間の活動時間が失われます」

​時田は淡々と言い、120万円が入った封筒を不動に手渡した。

その晩、不動は三度目の『休眠』を体験した。23時に意識は途切れ、次に目を開けたのは朝7時を少し回った頃。午後11時から朝7時までの8時間、彼の人生は完全に空白となった。


​「(よし、これが限界だ)」

​手に入れた総額480万円。不動は、最低限の『命綱』として確保した活動時間――朝7時から23時までの16時間――を守りながら、時間を売るのを最後にした。


数年後、不動は結婚した。妻には「23時から朝7時まで、薬のせいで深い昏睡状態になる」と説明し、8時間の活動停止を隠し通した。

問題は、待望の子供が生まれてからだ。8時間、完全に活動を停止する不動は、夜間の育児には一切関われない。妻の不満は、日を追うごとに『なぜ私だけが』という怒りへと変わっていった。夫婦の仲は冷え切っていった。


​子供が幼稚園に通い始めた頃、重大な心臓の異常が見つかった。海外での心臓移植手術が必要だという診断が下る。

​途方もない手術費用を捻出するためクラウドファンディングを募ったが、目標金額までには、あと数千万円足りなかった。

「時間だ…」

​彼は立ち上がった。自分の命綱として確保していた、残りの人生。

​電卓を叩く。朝7時から23時までの16時間。そのうち、朝7時30分から23時までの15時間30分を売る。

​残るのは、朝7時から7時30分までの、わずか30分。

​この30分こそが、彼が人間として活動できる、一日の中で唯一の時間となる。


​不動は意を決し、再びあのビルへと向かった。我が子の命という絶対的な重圧の前では、恐怖は取るに足らないものへと変わっていた。

『株式会社タイム・アセット』の扉を叩く。時田が、いつもの淡々とした表情で彼を迎えた。


​「残りの時間を、全て売りに来ました」

時田は事務的に答えた。

​「15時間30分で…合計930万円となります。よろしいですか?」

不動は、自分の残された人生の大部分が、一つの数字に換算されているのを見つめ、唾を飲み込んだ。

「はい…。それでお願いします」

契約書にペンを走らせる手が震えたのは、これから直面する、ほとんど『無』のような人生への恐怖からだった。

「これで、お客様は毎日、朝7時から7時30分までの30分間のみ、活動されます。それ以外の23時間30分は、全て弊社の資産となります」

時田は930万円が入った分厚い封筒を、静かに不動に手渡した。

​「ご忠告申し上げます。これは『睡眠』ではありません。文字通り、お客様の『活動』そのものが停止します。30分という極めて短い活動時間で、日常生活を維持できるのか。そして、もしその30分以外の時間に、何かあったとしても対処することができません」

忠告は、かつての火災の『もし』を呼び起こした。だが、彼はその恐怖を、子供の命という鋼の決意で押し潰した。


​不動は、重い封筒を抱え、ビルを後にした。あるのは、手に入れた金の重みと、人生のほとんどを失った虚無感だけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る