32 なにかがおかしい
ロジェ兄様にチケットを貰った舞台は、非常に楽しかった。
事前に予習もしっかりしていたし、舞台化するにあたって削られた設定もあるが、さすがは長く愛されている古典名作、安定した面白さがあった。
エリックも楽しんでくれたかどうか不安だったけど、彼の方からも感想を振ってくれて安心した。観劇後は少しお茶をして、その後馬車で屋敷まで送り届けてもらう。その間もエリックと舞台の感想を言い合う程度には満足した舞台だった。
やっぱりエリックと出かけるのは楽しい。
ドキドキして、どうしたらいいかわからなくなるけど、それだけじゃない。穏やかな気持ちにもなるし、胸の内がじんわり温かくなったりもする。
にこにこと私の話を聞きながら微笑むエリックに見つめられるのは、まだ少し気恥ずかしくて、でも嬉しい。
何度目かの確認になるけれど、やっぱり私はエリックが好きなのよ。屋敷に到着した馬車を降り、別れの挨拶をするのが惜しいくらいには。
いずれ結婚することについても、以前よりも抵抗感がない。もちろん不安はあるわよ? でもそれだけじゃない。
時間をかけても何も解決していないし、何なら結婚のことを考えたら余計に上手くできるか不安が増えた。大丈夫、だと思いたい。根拠のない自信を何とか生み出そうと苦心してばかりいる。
クルミさんや、今後現れるかもしれない不安になるような存在と、どう折り合いをつけていくか。エリックにとって大切な存在を否定したいわけではないのよ。
だったら、やっぱり当たり障りなく関わる程度に収めるのが一番いい。
幸い話を聞いてくれる人たちはいる。
ロジェ兄様も、ちょうど庭で何かしらの仕事をしているスタンリーだっている。皆には申し訳ないけど、適度に話して発散して、あとは自分の中で呑み込んでしまうのがきっといい。
「今日はとっても楽しかったです。またご一緒してくださいますか?」
あまり引き留めるものではないと、社交辞令にも似た問をして、別れの挨拶をしようとしたところ、急にエリックに手を握られた。何事?
エリックを見れば、「もちろん」と返してくれてはいるものの、どこか表情は硬く。なんだか困っているみたい。
「エリック」
「どうかした?」
「その、手を」
「え、あ! すまない! つい!」
慌てたように声を上げるも、手は離されない。むしろさっきよりも手首を掴む力が強くなっている。
最近こういうことが多いけど、本当にどうしちゃったの?
「本当にすまない。何故だかわからないが離したくないんだ」
離したくない、とは。
力が強いが、痛いほどではない。多分、振り払おうと思えば私でも振り払えてしまえるくらいの力。でもその行動がけして嫌ではないから余計に困ってしまう。
旅から帰って以来、なんだか甘やかな言動が多かった。最近は特にそうで、いつもより近かったり、不意に触れてきたり。この人は私に何を求めているのだろう。どうして欲しいのだろう。
「もう少し、このままでもいいだろうか?」
「それは構わないのですが……」
「うん」
「その、恥ずかしいです」
熱心に私を見つめる青い瞳から逃げることもできず、じっと見つめ返す。顔に熱が集まってくるのを感じながらも、なんとなくぽつぽつと話を続ける。正直、何を話しているのかは全然頭に入っていない。
遠くでスタンリーやメイドたちの話し声が微かに聞こえる。こんな状況を見られてしまうのではないかと思うと、どんどん心臓がうるさくなる。
なんでいつも私ばっかり、いっぱいいっぱいにならないといけないのよぉ。恥ずかしいのと嬉しいのと苦しいのでわけがわからなくなる。
「最近可笑しいんだ」
エリックが、呟いた。
なんだか苦しそうな声だと思った。多分、本人も困っているのは間違いないと思う。この前だってエリック自身も、なんでそうなっているのかわかっていないみたいだったし。でもその行動のおかげで私はどうしようもなくなっているのだけど、本当にどうしたらいいの!?
「どうしようもなく、君に触れたくなる時がある」
「それは、いったい……?」
「君が、私を見ていない時」
いえ、タイミングの話ではなくて! 見てないって何? 私ここしばらくあなたに振り回されてばっかりなんだけど! これ以上どうしろと?
それに触れたくなるって何なのよ。俗に言う世の恋人たちはそんなに触れ合いたくなるものなの? 確かにエリックに触れられるのは最近ちょっと嬉しく思っている私もいるけど、さすがに公衆の面前でお父様とお母様みたいにいちゃいちゃする勇気は私にはないわよ?
言いたいことは色々あるはずなのにどれも言葉にできず、何度も口を開けては閉じてを繰り返して、結局押し黙る。
「すまない」
短い謝罪の後で、エリックが離れていった。それ以上特に何も言葉がないまま、馬車に乗り込む姿を、私も何も言えないまま見送る。
どうしたらいいかも、何を言えばいいのかもわからないまま。
大きな手で掴まれていた手首の熱が冷えて覚めるまで、屋敷の中にも入らずにぼんやりととっくに小さくなった馬車の背中を眺めていた。
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