29 心の栄養を一つまみ


 ロジェ兄様が帰って来た。

 話に聞いていた通り、兄様の方も騎士の仕事に一段して落ち着いたらしい。結局魔物の被害とほとんど関係のないところで暮らしていたので、何もわからないまま世界は平和になりつつあるらしい。


「お兄様も、しばらくはお休みですの?」

「そうなるな。ただ、この後しばらくはまとまった休みが無くなるが。……あぁ、安心するといい。今度の式典には警備として参加する予定だ」


 相変わらずカラリと笑うお兄様とサロンでお茶菓子を囲む。

 お兄様の買ってきてくれるケーキはいつも美味しい。騎士としてお城に詰めている時間の方が多いし、流行りのケーキ類は多分、全部婚約者のジゼル姉様のおすすめの気もするけど。

 でも、兄様が式典の警備をしてくれるなら安心よね。平和の式典だし、何よりエリックの晴れの舞台なのだし何事もなく成功してほしいわよね。


 温かく、香りの良い紅茶を楽しんで、一息つく。じんわりと胸の内が温かくなるのを感じる。

 そうよ、これよ。本来の私って、日々こういう穏やかな日常を送っていたはずなのに、一体何がどうしてこうなったのかしら。浮いたり沈んだり、まるで自分じゃないみたい。


「美味いか?」

「ええ、とっても! 紅茶の香りもいいですし、このチョコケーキもクリームの甘さとココアの苦みが美味しいです」


 少し前まではこうしてよく、お茶を楽しむのが趣味だったのよ。その後だって観劇にはまって原作を読んだり他言語を勉強したり。穏やかではないものの、楽しいドキドキと熱に浮かされていたように思う。

 それが、何故かこう、最近は上手くいかない。嬉しいような苦しいドキドキで頭がいっぱいになったり。ただただ息苦しくて、嫌な気持ちでいっぱいになって、心も体も重くて動けなくなる。

 そういうのが続いたせいもあるのかしら。ケーキと紅茶が身に染みる。やっぱり甘いものが心の栄養って本当だったのね。疲れとはまた違うものだけど、色々と吹き飛んだ気がするわ。


「ああそうだ。もう一つお土産をやろう」

「まぁ、何かしら」

「最近はまっていると言っていただろう? 次の公演のチケットだ」

「いいの!? ありがとうロジェ兄様! 大好き!」


 ぺらりと胸ポケットから出した封筒を兄様が机の上に置いた。今すぐ兄様に飛びつきたい気持ちを抑えてお礼を言う。

 そうよ、そう。心の栄養ってきっと大切なことだわ。私にとって観劇がそうだったように、エリックにとってトレーニングがそう。趣味でいっぱいになっている時って、嫌なことを考える暇もないじゃない? 実際、舞台に通い始めた時はそうだったし。


「少し、表情が明るくなったな」


 不意にロジェ兄様が笑った。


「元気がないようで心配していたんだ」

「ご心配をおかけしてしまって」

「いや、いいさ。それで? 何があったのか?」


 心配をかけてしまったようで申し訳ないわね。見てわかるくらいに表情が暗かったのかしら?

 確かに、最近ちょっと色んなことをぐるぐる考えて疲れてしまっていた。エリックの様子が変なのも気になるし、クルミさんについてもそう。

 ……ロジェ兄様は、何かいい考えを教えてくれるかしら?


「その、少し、苦手な方がいますの」

「ほう?」

「その方自体はとても素敵な方で悪い人ではないのよ? でも私がどうしても素直にその人のことを受け止められなくて」


 最近のエリックの可笑しな行動はともかく、クルミさんのことはちょっと苦しい。飲み込むにも、時間がかかってしまう。

 当り障りなく対応するか、完全に拒絶してしまうか。スタンリーは二つの方法を提示してくれたけど、簡単にこうすると言い切れるものでもないし、何より行動に移すのはそれなりに辛くて苦しい。


「どういうところが苦手なんだ?」

「それは、その」

「エリックの関係者か?」

「……」

「そうか」


 何とも答えつらいけど、実際そうなので無言で頷いておく。どういうところと言われたら、本当にさっき言った通り、エリックが語るクルミさんのすごいところを素直に受け入れられないってだけなんだけど。

 たったそれだけが、本当に苦しくてどうしようもないのに。なのに、なんで兄様はちょっと嬉しそうな顔でにこにこしているのよぉ。何か私、お兄様に失礼なことした? 意地悪しないで!


「マリーは、その人についてエリックにどうして欲しいんだ?」

「どうしたいとかはない、と思う。でも、ただ今は苦しいから、クルミさんについて考えたくないかな……」


 クルミさんを疎外したいわけではないのは本当よ? 私の受け取り方が可笑しいだけで、きっと普通の優しい女性のはずだし。

 ただ、クルミさんのことを上手く受け止める前に、なんだかエリックの様子もおかしくなってしまって、本当にどうしていいかわからないのよ。

 ふとした拍子に急に距離が近くなったり、腰を抱かれたり。嫌ではない、嫌ではないのよ? でも困る。


 エリックのことは、多分好きだし、嬉しい気持ちだってある。だからこそどう応えたらいいのかわからないのが苦しい。

 どうしたら、この気持ちと向き合っていけるんだろう。



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