第5話






 ……笛の音が聞こえる。





 このまま周瑜が帰っていてくれないかなどと情けないことを考え、増々自己嫌悪になった孫策である。

 だがその耳にも、美しい音色だった。


 すっかり暗くなった林を、その音に誘われるように抜ける。



 ――月明かりが差し込んだ。



 青白い光の中、周瑜がそこにあった大きな岩に腰掛けて、笛を吹いていた。


 草を掻き分ける音に、目を閉じて吹いていた彼は唇を笛から離した。


 ゆっくり振り返ってそこに孫策を見つけると、孫策は視線が合った瞬間、驚いたような表情を見せた。

 それからすぐに、バツが悪そうに首を反らした。

 その仕草には、少年らしい誇り高さが見え隠れしている。


 それ見たことかと勝ち誇るに違いないと思っていたのに周瑜は孫策を、一瞬優しい表情で見たのだ。


 まるで遅かったことを労うような表情で、尚更、本音を言えば逃げたかった孫策は惨めだった。



 孫策は歩いて来る。


 そこは開けていて、左手は崖になっていて、眼下に小川と、向こうまで続く草原が見えた。

 右手は更に傾斜があり、まだ遠く上った所に、周瑜の言っていた大樹らしき影がある。


 草原の方は、……綺麗だった。


 春に芽吹いた若草が一面に揺れている。

 

 孫策は崖の側に立って、しばらくその綺麗な景色を見下ろした。

 





「……随分遅かったな。迷ったのか」







 数分、少年二人は押し黙っていたかもしれない。

 何かをきっかけに、先に喋ったのは、周瑜だった。


「迷ってねえ。負けるのが腹立って仕方なかったから、下馬して寝てた」


 寝てた……、呟いて、笑い声がしたので振り返ると、周瑜が笑っていた。

 屋敷で見せた、ひやりとした笑みや、初対面の時の形だけ整えた綺麗な笑顔じゃない。

 本当に面白くて笑ったような、……少し幼い笑い方だった。


「変わってるんだな」


「う、うるせぇな……」


 容姿のせいか、孫策はまだ周瑜に慣れない。

 あのような本気の気配を纏わなければ、本当に少女のような美貌なのだ。

 笑われたことを怒鳴りたかったのに、可愛い顔で笑われて、怒鳴れなくなってしまった。


「お前こそ、……先に帰れば良かっただろ」


 うん、と周瑜は頷く。


「そうなんだが。君が来るかと思ったから」


 孫策は周瑜を見た。

 周瑜は笛を懐にしまっている。

「あのまま逃げ帰ったら、一生君を嘲笑ってやろうかと思ったけど」

「てめぇ……」



「悪かったな。」




 拳を握り締めて、それを振り上げたが、周瑜が突然謝った。


「……悪かったって……なんだよ」


「いや。君は義父上ちちうえの客人なのに、本気で挑発したりして大人げなかった」


「大人げないってなんだよ。俺とお前は歳同じなんだからな。年上ぶるんじゃねーよ」


 孫策が顔を顰める。


「それに、俺は周尚しゅうしょう殿の客人じゃねーよ。

 俺は本当はお前に会いに来たんだ」


 今度は周瑜が孫策を見る。


 ちら、とその夜色の瞳を見て、やはり月明かりにきらきらしているので孫策は狼狽を押し隠してそっぽを向いた。


 こいつの直視は心臓に悪い。


 狼狽を誤魔化すように、足元の小石を取って、孫策は草原に向かって思いっきり投げた。


「――親父が。……ここ半年くらい、ずっとお前のこと言ってるんだよ」


「孫堅さまが?」


「ああ。何かにつけて、周瑜ならもっと上手くやるはずだ、そんなことじゃ周瑜に負けるぞとか……この前お前に会って、なんかすげーお前のこと、気に入ったらしいんだよ。あのクソ親父、それで五月蝿くなりやがって……」


 周瑜は目を丸くした。


 それからまた彼は吹き出す。


「わ、笑うなよ! 俺は、すごく、嫌だったんだからな! この半年間、すげームカついてたんだよ! だから、お前のこと、ぶっ飛ばして……周瑜なんか大したことねえって言ってやりたかったんだけど……」


 敗北を思い出し、孫策は深い溜息をついた。


 別に、この勝負のことなど孫堅は知る由も無いのだから、黙っていればいいのではないかと周瑜は思ったのだが、孫策の落ち込みようは深いものだった。

 

 自分の知らない所でそんなことになっているとは、全く知らなかった。


「……だから、お前には八つ当たりしたんだよ。……………………わるかったな」


 最後は掻き消えるような小声だったが、周瑜には聞こえた。


「……。いや。私の方こそ、八つ当たりのようなものだよ」


 孫策が怪訝そうな顔をする。


孫堅そんけん様にこの前会った時、思ったんだ。こんな人が父親である、君が少し羨ましくね。

 孫堅様は君のことも話していたよ。自分の幼い頃に兄弟で一番似ていて、色々心配もさせるけど、好奇心旺盛で育ちざかりだから、見ていて楽しいと言っていた。

 戦場へは連れて行きたくない気持ちもあるけど、それ以上にいつか共に戦える日が楽しみだともね」


 孫策は驚いた。

 

 こいつにはそんなことまで話すのか、と思ったのだ。

 

 孫策は父親に、そんなことを言われたことはまだない。

 

「ここにいるうちは、剣術や、世のことや、色々なことを話して、教えてもらった。

 楽しかったんだ。

 私は父親がいない。義父上ちちうえは自分の子供のように私を扱ってくれるけれど、やはり遠慮もするものだからね。

 父親がいてほしいと、強く願ったことは今までにあまり無かったが、孫堅様に会って、こんな人が父親ならいいなとそう思ったんだ」


 孫策は、嬉しいような、嬉しくないような、複雑な気持ちだった。

 父親を誉められて、素直に嬉しい。

 でもあの父親の子供だから、苦労することもたくさんあるのだ。

 孫策自身、父親に腹が立つ以上に、あの父親に憧れがあり、目指していて、いつかは頼られたいと願っていた。


 だからこの非凡な周瑜が、そういう父親を慕ってくれたこと自体は、やはり嬉しかった。


「孫堅様の子供なら、いつか会ったら仲良くなりたいと思っていたけど。

 喧嘩を売られて、ついムキになってしまった。

 君に勝ったところで、あの人の子供にはなれないのにね。

 だから子供じみたことをしてしまったのは私だ。悪かったよ」


 周瑜は立ち上がる。


「君を苛めたと知られたら、嫌われてしまうかもしれないから、今日のことは秘密にしてくれると嬉しいな」


 側で大人しく待っていた馬の側に寄り、首筋を撫でてやる。


「すっかり暗くなってしまった。明かりはないけど、私はこの林では小さい頃からよく遊んでるから、目を瞑っても方向が分かる。

 わたしについて来てくれ」


「……ああ」


 周瑜がひらりと馬上に上がった。


 林の中では、二人は言葉少なだった。


 一度だけ孫策が、孫堅が来た時、何をしたのかと尋ねると、「釣りを教えてもらった」と周瑜が答えた。


「釣りはまだしたことがなかったから、楽しかった」


 周瑜は明るい声で、そんな風に答えた。






◇    ◇    ◇






 綺麗な客人用の寝室を用意してもらった。

 渡り廊下では繋がっているが、池に面した離れだった。



 屋敷に戻ると、随分遅くなったのに、周尚は怒らず、まず温かい風呂に孫策を入れてくれて、食事も用意してくれた。

 完全に屋敷の人間は食事を済ませた後だっただろうに、きちんとした食事を用意してくれ、夕食には周尚が同席してくれた。

 

 周瑜の姿は無かった。


 家の手伝いがあるらしかった。


 勝負のことは言わなかったが、遠駆けで林まで行ったと言うと、周尚は子供たちが、そうしているうちに仲良くなって、もう喧嘩は止めたのだろうと思ったらしい。


「今日はゆっくりお休みください。もし、時間があるのなら、明日一日くらいここに逗留されてはどうでしょうか。

 よろしければ舒の街でも、私がご案内しましょう」


 孫策は、あまり深く考えずその場で「うん」と頷いていた。

 頷いてから、頷いてしまった、と自分で気づいた。

 なんとなく、あと少しここにいたかったのだ。

 優しい周家のもてなしが心地いいから?

 美しい舒の風景を、もう少し見たいから?


 それもある。


 でも何より、……孫策はもう少し周瑜と話してみたいと思ったのだった。



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