十月の約束

未人(みと)

第1話

 十月の風は、夏の名残と冬の兆しを一度に運んでくる。

 街はその風の中で、笑い声と光をこぼしていた。

 提灯の橙が並び、ショーウィンドウのガラスに幾つもの月が映る。

 子どもたちの仮装が跳ね、遠くではカボチャの被り物をした青年たちが写真を撮り合っていた。

  夜は祝祭に浮かれていた。

 けれど、雲の切れ間から覗いた月は、光を惜しむように街を撫で、静かな寂寥を撒いていた。


 僕は聖者の仮装をしていた。

 白いマントを羽織り、胸に金の十字架。

 通りの灯りが布の縁を照らして、金糸の刺繍が一瞬だけ生を得たように輝く。

 この白い装束は、迷える魂を正しい場所へ送り届けるためのものだ。

 けれど今は、僕自身が誰かに導かれている気がした。


 その輝きもすぐに風に消え、僕の影だけが石畳の上に取り残された。


 ハロウィンの夜だけ、彼女に会える。

 それが僕に残された、ただ一つの約束だった。


 広場の噴水は止まっていた。

 水盤に浮かぶ落ち葉が街灯を映し、揺らぎながら光の破片を散らしている。

 その水面の向こうで、彼女が立っていた。

 白いワンピースに銀のリボン。

 花飾りのついたカチューシャが風に揺れ、影が頬にかかっていた。

 灯りの層が彼女の輪郭を柔らかく溶かし、まるで現実よりも穏やかな絵画のようだった。


「あなた、今年も来てくれたのね」


 彼女の声は、風に混ざって一瞬遅れて届いた。

 その響きに重なるように、どこかの店から音楽が流れてくる。

 子どもたちの笑い声、駆ける靴音。

 世界のすべてが祝祭の膜の向こうでゆらめいている。

 僕は微笑み、歩み寄って手を取った。

 彼女の指先はひどく軽く、まるで風のかたちを掴んでいるようだった。


「今年の街はにぎやかだね」

「ええ、まるで誰もが死者の仮装をしているみたい」


 彼女は少しだけ笑った。

 その笑みを、街の灯が掬い上げて淡く照らす。

 光の粒が空気を漂い、頬の線をやさしく撫でた。

 僕はその一瞬を、ひどく懐かしく感じた。


 通りを歩くと、焼き菓子の甘い匂いが流れてくる。

 パンプキンパイ、キャラメル、香ばしいナッツ。

 そのどれもが、遠い昔に知っていた気がした。

 子どもの笑い声が跳ね、仮装したカップルがすれ違う。

 誰も僕たちに目を向けない。

 いや、見えていないのかもしれなかった。

 祝祭の光の輪から、僕らは少しだけ外側を歩いていた。


 焼き菓子の甘い匂いも、人々の吐息も遠のいていく。

 残ったのは、風の冷たさと、湿った苔、落ち葉の深い匂い。

 それらが夜気と混ざり、まるで、自分が今いる場所が夜明け前の墓地の土の上であるかのように、その匂いが僕の輪郭を静かに溶かしていった。

 

「あなた、もう帰らないと」

「もう少しだけ、一緒にいたいんだ」


 彼女が立ち止まり、街の灯を見上げる。

 風が強まり、紙のランタンがいくつも揺れた。

 光が波のように広場を渡り、彼女の影を細く引き延ばす。

 僕はその影の端に立ちながら、言葉を探していた。

 あの頃、彼女を迎えに行く途中で、何かがあった――。

 信号の赤。ヘッドライトの白。雨の粒がガラスを叩く音。

 思い出すたびに、世界の色が薄くなる。

 街の喧騒も遠ざかり、音が一つずつ消えていく。


「来年も……来てくれる?」


 彼女の声は、まるでガラス越しのようにかすかだった。

 頷こうとしても、首がうまく動かない。

 風が吹き抜け、マントがはためく。

 その布の影が、彼女の足元まで届いた瞬間、世界が滲んだ。

 光と音と匂いがすべて一度に遠のく。

 最後に見たのは、彼女の目の中の、僕の影だった。



 朝。

 祭りの残骸が街を覆っていた。

 破れた仮面、紙吹雪、空になったカップ。

 広場の噴水に残った水の上で、陽光が小さく揺れる。

 彼女は静かにランタンを手にしていた。

 ガラスの中で燃える火が、淡い橙を灯している。

 彼女はその灯を玄関の前に置いた。


「また来年も、あなたの魂がここまで来られますように。」


 光は小さく脈打ち、風に揺れながら形を変える。

 やがて陽光に溶ける瞬間、ほんの一瞬だけ、その炎の中に、白い外套をまとった影が、涙のように揺れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

十月の約束 未人(みと) @mitoneko13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ