千草な君

蟹文藝(プラナリア)

千草の君

 初恋は千草色ちぐさいろの声をした子だった。色白で、ほんのり手が冷たくて。


「てんのおとうさま、おかあさま」と意味もわからず

 雨粒の黒い涙をこぼ石膏せっこうのマリア像に手を合わせると、

 腕に抱かれた幼子おさなごイエスの頭越しに彼が見える。


 じっとりと冷たい大理石だいりせきの床にペタっと座り込み、二匹の金魚をでる君に、

 輝く七色のあぶくを教えてもらった。


 夏は風を送り合い、冬は身を寄せ合って透明世界の住人を眺めていた。


 喘息ぜんそく伝染うつると言われ、皆に避けられても。

 親と離れた恐怖で泣き叫んでいても。

 ずっと私の左手を握って、ただ隣に座っていてくれた君。


 すごく繊細で、優しい男の子だった。


 蜘蛛くもの巣にかかって死んだアオスジアゲハ。

 そのはねからベタつく糸を取って墓を作った君。

 栗色の瞳に青緑が舞って、美しかった。


 一年半経って、金魚が死んだ。



 それでもわたしたちは変わらなかった。

 弧を描く水槽すいそうの前から階段の踊り場へと場所は移ったものの。


 階段の踊り場でステンドグラスを通り抜けて広がり、揺れる光と過ごした。

 淡い紫の葡萄ぶどう瞳孔どうこうの細長い灰色の羊。純白のレースカーテン。


 君が歌う鼻歌に合わせて、私は舞った。

 レースカーテンを身にまとって。

 彼はそんな姿をお嫁さんみたいだと褒め、微笑んでくれた。

「およめさん?」

 そう聞き返すと、彼は何を思ったのか

「ううん、ぼくはおむこさん。」と笑っていた。


 思い返すと、彼の歌はいつも三拍子だった。

 私がいつもワルツステップを踏むせいで。


 揺らぐ水面とレースカーテン。

 揺蕩たゆたう金魚と舞う女。


 君には同じように見えていたのだろうか。

 私は今でもカーテンを引く音と君を繋げてしまう。


 八月の遠い日。夏休み。じっとりとした暑さ。叫ぶセミ。電話の音。母の声。


「〇〇くんね、亡くなったって。」

 母は言う。私は答える。

「なくならないよ、ずっとあるよ。」

 困った顔で母は私に制服を着させる。通夜つやに行くために。


 部屋に何百冊とある本。全部読破した三歳児には見慣れた表現。

 理解できなかったのではない。理解したくなかったのだ。


 私は馬鹿でいたかった。無知でいたかった。


 木魚と仏、いつも手を合わせるマリア像はそこにはいない。

 私には「おとうさま」も「おかあさま」も居ないのだ。とその時悟った。


 みんながいた。親も、友達も、先生も。

 でも、私の左の席はだれもいない。

 全部がある。でも、君が、ない。どれだけ泣いても私の左手は温かいまま。


 君に会えた。白い箱の中の君。思わず手を取る。硬い。冷たい。

 でも、いつもの冷たさではない。


 いつもの寝顔。髪に触れる。ゆらりと崩れた。


 花、人、声、物音。

 もう静かな場所に手を引いて行ってくれる人はいない。


 胸のひまわり、紅白の金魚の折り紙。最後のプレゼント。

 君の歌を呟く。君は眠る。


 箱は閉じて、君は遠くへ行ってしまった。

 もう千草色は見えることはない。



 後に聞いた、君が事故死だったこと。

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千草な君 蟹文藝(プラナリア) @planawrites

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