迷宮の朝と幻獣の息――少し不思議な毎日
@U3SGR
第1話
オルドリア大陸に並び立つ四強国の一つ、聖弦アルマシア皇国の東境には、グラナ樹海窟と呼ばれる地下迷宮が口を開けている。
迷宮は“天の造営”と伝わるが、真偽を確かめる術はない。地の底だというのに草木は芽吹き、霧は昼夜を隔て、岩肌には雨の痕が残る。現在の術式工学を総動員しても、この循環は再現できない。
——討伐依頼を終え、ようやく皇都に戻った。
馬車の揺れに慣れない身体は、石畳に降りた瞬間ほっと弛緩する。ギルドへの報告は明日に回そう。今夜の仕事は眠ることだ。
鍵の甘い我が家の扉を押し、靴音を黙らせる。狭い室内に、安い葡萄酒の栓を抜く音が小さく跳ねた。
「やれやれ……」
無意識に漏れた中年じみた声が、自嘲めいて耳に戻る。
机の上に、帝都大学の名のある学匠が著した新刊がある。受付のイレーネ・マルセルが「ご興味あるかと」と差し出してくれた一冊だ。
だが、迷宮の核心に触れる頁は一枚もない。どの本も、森の匂いを知らない。
「私が理解していないと思われているのは、少々心外だな」
リヴィオ・アストレイ——ランクAに限りなく近いと言われるこの俺は、活字よりも足で核心に近づくべきだと知っている。
——
午前六時半、二つのアラームが競い合うように鳴いた。
「……うるさい」
布団の縁を掴んで目覚ましを手繰り寄せ、スイッチを手探りで押し込む。システムエンジニアとしての朝は容赦がない。障害監視のメールをスマホで確認、赤い通知は——ない。胸の奥がようやく解ける。
古びたアパートの階段は今朝もぎしぎし鳴る。手すりの塗装は剥げ、粉が掌に残るから触れない。扉を閉める前に、もう一度通知を確認する癖が抜けない。
二年前まで、妻が肩を揺すり「起きて」と笑っていた。離婚してから、朝は無音のまま増幅する。
間違えていたもう一つのスイッチを切ると、ようやく静寂が戻った。布団の温もりを剥がすたび、生活の継ぎ目が露わになる。
——
夜。窓の外で、皇都の灯りは霞んだ金粉のように瞬いている。
グラナ樹海窟の“天候”は、規則と逸脱の間で揺れる。晴れは三刻続き、雨は一刻で終わるはずなのに、今日は逆だった。
規則がねじれた時、地表の苔は逆向きに光り、足音は半拍遅れて耳に届く。核心は、偶然に見える反復に宿る。
記録帳に印を付ける。苔の発光が反転した時刻、霧の厚み、風が右から左へ抜けた回数。明日、イレーネの前でわざと薄く笑って見せよう。「またくだらない統計ですか」と言わせておいて、地図の白を一つ埋める。
安い酒をもう一口。舌に小さな刺が立つ。
——眠ろう。眠らねば、次の一歩を間違える。
——
朝。歯磨き粉の味を飲み込みそうな慌ただしさで、シャツの第二ボタンを留め損ねる。
「眠い……」
鏡に映る腹を撫で、ため息を小さく一つ。
出勤前、未練がましく本棚から一冊抜く。迷宮の本だ。
“核心には触れない”。それでも、ページの端に自分で貼った付箋が昨夜の自分からの伝言のように見える。
——規則がねじれた時、苔は逆向きに光る。
文字は記録にすぎない。だが、記録はいつか地図になる。地図は、迷いを奪う。
玄関を出て、踊り場に差し込む朝の光を睨む。
アラームを止め、メールを確認し、鍵を掛ける。いつも通りの三拍子。
それでも今日は、踊り場の空気が少し軽い。掌に残る付箋の紙質を、ふと思い出した。
世界は別の場所でも、規則と逸脱のあいだで同じように揺れているのかもしれない。
——
夜。
皇都に戻った俺は、イレーネ・マルセルの机に記録帳を置いた。彼女は面倒そうに、それでも興味を隠せない指先で頁をめくる。
「また核心に触れていない、と笑うか?」
「いいえ、触れ方の話です。触れるには、積み重ねが要ります」
どの世界でも、きっと同じ台詞だ。
俺は頷き、記録帳を受け取り、灯りを落とす。
別の場所の、別の朝に向けて——リヴィオ・アストレイとして。
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