幻獣と暮らす迷宮ライフ

@U3SGR

第1話

 オルドリア大陸を束ねる四大国の一つ、聖弦アルマシア皇国。その東辺、森の地表が沈み込むように裂けた先に、グラナ樹海窟は横たわっている。最古の伝承では、迷宮とは神々が己の威権を刻むために穿った“署名”だという。岩肌は古い祈りの痕でざらつき、枝葉は地中へ逆さに伸び、風の代わりに脈動だけが奥から押し寄せる。人はそれを畏れ、同時に資する——皇国は迷宮の周りに町を築き、地図と祈祷と税の網で封じようとしてきた。


 その封じ目の一つに住む私が、ようやく家に辿り着いたのは、月が屋根の端をかすめる頃だった。靴底は樹液で重く、指先には灰色の土の匂いが残っている。扉を閉めると、迷宮の鼓動が遠くなる。静寂が耳の内側へ染みこんでくるたび、今日いくつ目の分岐を見逃したか、暗がりに置き去りにした微かな足跡が脳裏で並び直る。湯を沸かしながら、私は地図の余白に印を一つ、薄く付けた。明日、もう一段深く潜るための小さな旗だ。


 目を閉じるまでは、容易かった。眠りは落下のように速く、だが底は浅い。——そして六時三十分。目覚まし時計とスマートフォンが、合奏というには無作法なベルを競い合う。起きられない自分への対策として重ねた音の壁は、今朝に限って刃のように鋭い。こめかみが釘で打たれるみたいに疼き、私は枕元の画面を指で探る。静けさが戻ると同時に、迷宮の脈動がまた思い出される。昨夜の印は、現実になりたがっている。痛む頭を押さえつつ、私はカーテンを開けた。東の空、皇都の塔の向こうで、光が地表へ沈み込みながら、樹海窟の口元だけを淡く照らしている。


“起きられない”から始まる朝は、いつだって一日の最初の難所だ。だが、神々の署名は待ってくれない。湯気の立つマグを両手で囲み、私は印の上にもう一度指を置く。今日潜る理由を、一つだけ言葉にするために。昨夜の静寂も、今朝の騒音も、すべてはそこへ線で結ばれている。さて——下へ行こう。頭痛は、入口で払う通行税だ。


 グラナ樹海窟は、地の底でありながら空を持つ。広間の天蓋には葉脈の薄膜が張り、そこから淡い光が滲む。風は根の迷路をくぐって香りを運び、どこか遠くで雨粒が苔を叩く音がする。地下だというのに季節が巡り、芽吹きと枯れが重なり合う。この循環を説明できる者はいない。最有力と呼ばれる仮説は「神々の威権の名残」だが、仮説はいつも入口で立ち尽くすだけだ。再現はおろか、構造に触れようとする学者の名すら挙がらない——名を呼んだ途端、洞は口を閉ざすと信じられているからだ。


 それでも私たちは潜る。樹液の甘い匂いと、魔物の血の鉄の匂いをまといながら。数日に及ぶ討伐任務を終え、私はさきほど皇都の門をくぐった。石畳の乾いた響きに、地底の湿りがほどけていく。肩の革紐が肌に擦れ、そこに残るわずかな痛みが、まだ終わっていない仕事の印のように思えた。報告書、分配、そして——明朝の打ち合わせ。休息と日常が、次の潜行の助走になる。


 だからこそ、今朝だけは時間を前に倒した。いつもより三十分早い設定。眠りの底から浮上する最初の綱として、私は枕元に“騒音”を二重に仕込んだ。鐘のように甲高い目覚まし時計と、容赦のないスマートフォンのベル。半分眠った指先が卓上をまさぐり、冷たい金属縁に触れる。スイッチを押し込むと、部屋に静けさが戻る——代わりに、こめかみの奥でまだ鐘が鳴っている。


 無理矢理にでも起き上がるために選んだ音量は、確かに効く。隣室にまで届くほどに。私は背筋を伸ばし、窓の鍵をそっと外した。朝の空気が細い管のように流れ込み、胸の奥のざわめきを冷やしていく。苦笑しながら思う——これは作戦としては成功、近所づきあいとしては失点だ。けれど、今日のミーティングは樹海窟の“空”の由来に触れるかもしれない。謝る言葉を一つ用意し、報告の一文を頭の中で組み替える。鐘の残響が消える頃、私は靴紐を結び直した。次の潜行は、もう始まっている。


 未知を切りひらくのは、疑い深さと執念深さだ——頭では分かっている。グラナ樹海窟の秘密にこそ、誰も見たことのない発見が眠っているだろう。けれど、その発想に到達し、さらに踏み出せる者は少ない。文句は言えても、踏査記録を研究計画に変える胆力は、今の俺にはない。そう認めたところで、目の前のまぶたの重さは一向に軽くならない。


 揺られ続けた馬車の余波が、まだ背骨の奥でたゆたっている。石畳の段差一つぶんの疲労が積もり、報告書の文字列は砂粒に見えた。俺はギルドへの報告を明日に送ると決め、靴を蹴り脱ぎ、ベッドへ身を投げる。決断は簡潔でいい。今日は眠り、明日、語る。それだけだ。そう思えば、布団の弾力さえ味方に変わる。


 枕元で震える気配。手探りでスマホをつかみ、アラームを切る。まだ耳の奥で鈴の尾が揺れているうちに、画面を開いてメールを呼び出した。指先に残る馬車の振動が、スクロールのたびに微かに蘇る。障害検知のアラート——なし。胸の奥の結び目が一つほどけ、天井の闇がいくぶん広がって見えた。


 良かった、と息を落とす。ならば今夜は、責め立てる通知も、追い立てる任務もない。ここでいったん眼を閉じよう。研究を語る前に、歩ける身体を取り戻すために。明日の報告で埋めるべき空白は、眠りの底で静かに形を揃えはじめている。


 今しがた読み終えた本も、核心には触れないままだった。頁は丁寧に迷宮の周縁を撫でるばかりで、グラナ樹海窟の喉奥へは決して指を差し入れない。誰もが傷を避けて包帯の巻き方だけを語る——そういう書きぶりだ。だからこそ、閉じた表紙の重さが、未解明の空洞をいっそう際立たせる。


「——帝都の著名な研究者が執筆された書物でしたが、お気に召しませんでしたか?」


 ギルドのカウンター脇、牛乳をコップ一杯で喉に流し込み、煙草に火を点けたところで、マルセル嬢が件の本を抱えて近づいてきた。彼女の仕草は本に敬意を払っているのに、視線だけは私の表情をじっと観察している。私は煙の輪を一つ、天井の梁へと置き、正直に頷く。——周縁の描写は美しい。だが、中心に踏み込んだ足跡がない。そう伝えると、マルセル嬢は「だからこそ、次の任務で——」と小声で言いかけて、受付に呼ばれて去っていった。残ったのは、温い牛乳の甘さと、言いかけの約束だけ。


 夕暮れの路地を抜け、私は古びたアパートに戻る。腐りかけた手すりは、触れれば剥がれそうな色をしている。だから触れない。階段は、踏むたびに骨の鳴るような音を立てる。鍵穴に鍵を差し、回す。戸が開く瞬間、外気の湿り気が背後へ流れ落ち、部屋の乾いた空気が胸に入ってくる。その落差が、今日の一日を区切ってくれた。


 ——ほっと息を吐いた刹那、再び目覚まし時計が喚き出す。ああ、さっき寝ぼけてスイッチを間違えたのだ。私は時計をひっくり返し、正しい方のレバーを落とす。ベルの尾が部屋の隅でほどけ、静けさが戻る。静けさは、代わりに自分の鼓動を際立たせる。


「……眠い」


 声に出してしまえば、眠気はたしかな形を取る。長く続くシステムエンジニアの生活で、座りっぱなしの時間が増え、緩み始めた腹に手を当てる。現実は、迷宮より容赦がない。布団の温もりは、今すぐにでも私を捕まえに来る。けれど、アラームを正しく止めた今夜くらいは、眠りに負けたことを勝ちとして受け取ってもいい。布団の端を指でつまみ、深く潜り込みながら思う。周縁をなぞるだけの書物では、眠れない夜は埋まらない。ならば明日、私が一歩、中心へ踏み込めばいい。そう決めると、温もりは急に、味方になった。


「仮にも、ランクAに限りなく近いと言われるこの私——リヴィオ・アストリヴィオが、この程度の記述を理解していないと見なされるとは、さすがに心外だ」


 口にしてみれば、言葉は鋼のように響く。任務の最前線で磨かれた自負は、簡単には鈍らない。——けれど、その鋼を包む鞘は、今夜に限ってやけに薄い。自尊の硬さが、帰路に溶け残った疲労と擦れ合い、きしみを立てる。


 玄関を開けると、狭い土間に夜気が溜まっていた。自分へのささやかな褒美として買った安酒の瓶を片手に、「ああ——疲れましたね」と思わずこぼす。自然に漏れた言葉が、壁で一度跳ね返り、もう一度こちらに戻ってくる。その往復が、この部屋の広さと静けさを、ためらいもなく測ってしまう。


 二年前までは、朝になれば肩を軽く揺すってくれる人がいた。目覚ましより先に、柔らかな声が一日の始まりを告げた。——離婚ののち、すべては一人の手に戻った。食器も、鍵も、書類も、そして起き上がる理由も。静かな玄関に、安酒の栓が抜ける音だけが小さく鳴る。硬い自尊と、やわらかな不在。そのあいだに身を置きながら、私は今夜の休息を、明日の戦いの準備としてのみ味わうことにした。

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