第4話 癒しの歌

 浮世離れした美しさとはこのことを言うのだろう。詩音は突として現れた男性に息を呑んだ。


 月明かりを受けて照り輝く漆黒の髪。すらりとした長身を包むのは黒地に金糸が編み込まれた人妖警視局の制服。何より精悍な面立ちを構成する碧瞳と尖った両耳が、彼が人ならざる者であることを如実に語っていた。


 ――妖……⁉


 詩音が驚きを隠せないでいると、警視局員の男性は冷厳な視線で詩音を見据えた。


「その人魚に何をするつもりだ」

「え? あ、手当をしようかと……」


 おそるおそる詩音が答えると、男性局員は胡乱げに凝視した。冷艶清美な美貌がさらに畏怖の念を強くさせ、詩音は身動き一つすら取れない。

 ほどなくして、男性局員は小さく嘆息して詩音から視線を逸らした。


「確かに貴女あなたの言っていることは嘘ではなさそうだ。見たところ、武器も持っていないようだし」

「武器?」

「俺はこの近くにある人魚の集落を襲った人間の賊を探している。この海辺に来た時、被害を受けたその少女を見つけ駆けつけてみれば、人間である貴女がいたから賊かと思ったんだ」


 疑ってしまい、申し訳なかった。


 言って、男性局員は詩音に対し頭を下げた。

 誰かから謝罪され、あまつさえ頭を下げられることなどなかった。それゆえ詩音は男性局員の誠意ある態度に困惑してしまう。


「そんな、頭をお上げください。疑わざるを得ないご事情があったのですから、仕方ありません」


 男性局員は顔を上げて、微笑を浮かべた。


「寛容な心遣い、感謝する」


 先ほどとは打って変わった柔らかい表情に惹きつけられた。


「人魚は水棲の妖だから陸には上がれない。医療班を呼んですぐに応急処置をさせる。俺が戻ってくるまでその少女を頼んでもいいだろうか」

「もちろんです」

「ありがとう」


 謝意を述べ、男性は背を向けて街のほうへと駆けていった。


「ん……」


 小さな吐息が鼓膜を震わせ、詩音は人魚の少女を見る。彼女はぎゅっと双眸を閉じた後、ゆっくりと瞼を持ち上げた。その瞳は男性の碧眼よりももっと深い、濃藍の色をしていた。


「大丈夫。すぐに助けが来るからね」


 詩音が声をかけると、少女はひどくおびえた面差しになってすぐに海へ引き返そうとした。しかし、負傷で詩音から距離をとることさえままならない。


「待って! 今は動かないほうがいいわ」


 少女を抱きかかえ、自身の膝に上半身を乗せる。

 少女は苦悶しながらも、いまだ隠せない恐怖を滲ませたまま詩音を見上げた。


「怖がらせてしまってごめんなさい。でも、わたしはあなたに危害を加えるつもりはないわ。それに、もうすぐ警視局の方々も来てくださるから」

「警視局……」


 その言葉を聞いて安心したのか、少女は再び瞑目した。


「……お母、さん」


 閉ざされた少女の双眸から透明な雫が伝う。その後、少女はか細い寝息を立て始めた。


 ――この子のお母さんは、もう……。


 先ほどの男性局員は人間の賊が人魚の集落を襲ったと言っていた。周辺を見渡しても少女以外に人魚の姿はない。もしかすると、少女の母親は儚くなってしまったのかもしれない。


「おかあ、さんっ……」


 少女は涙声で母を呼んだ。

 その痛ましい声音が胸を強く締めつけ、詩音は少女の頭を撫でた。そして瞑目し、気づけば百合がよく歌ってくれていた子守歌を口ずさんでいた。



『ざぶんざぶん ざぶんざぶん 母の 子に安らぎを与えん 母に抱かれて眠れ 青海の子たちよ』



 どうか、今だけは心穏やかに眠れるように。

 少女の心を蝕む悲しみが少しでも和らぐようにと願いながら、詩音は子守歌を紡いだ。己の希死念慮はとうに消え、今はただ目の前にある小さな命を救いたい。その一心で歌声に祈りをこめた。


 すると、あろうことか少女の裂傷に光の粒子が集い、瞬く間に癒えていった。やがて青ざめた顔色さえも血色の良いものになっていき、少女の悪夢も霧散した。

だが、詩音は両目を閉じて歌うことだけに集中しているため、治癒の術式が働いていることに気づいていない。


「彼女は一体、何者ですか」


 歌で傷を癒やすという神々しい光景を目の当たりにし、医療班の男性局員は愕然とその場に立ち尽くしていた。先ほど詩音に声をかけた美麗な彼もまた大きく目を見開いて詩音の歌唱に釘付けになる。


「たった一度の術式で傷を跡形もなく完全に癒やすなんて……。これほど高度な治癒術式は見たことがありません」


 警視局の優秀な医療班であっても、数回の術式を付与しなければ傷は完治できない。重傷であれば長期的な術式付与が必須となる。だからこそ、両者は詩音の秘められた力に驚かざるを得なかった。


 ――それに、何だか力が湧いてくるような……。


 妖である男性局員はそっと自身の胸に手を添えた。

 心なしか体内に宿る妖力が漲ってくるように感じられる。


「隊長?」

「いや、何でもない」


 医療班の部下に対してかぶりを振り、彼は詩音に歩み寄った。



 子守歌を歌い終え、詩音は目を開けてふうと息をついた。

 昔から歌う時は両目を閉じるのが詩音の癖だった。視覚を遮断し、自身が紡ぐ音だけに集中することで、より歌いやすく、想いを昇華しやすくなるからだ。

 だからこそ、少女の容態を確認した時は息を呑んだ。


「えっ……⁉」


 先ほどまであったはずの傷がすべて消えている。少女の寝息も規則正しく、健康的なものになっており、顔色もすっかり良くなっていた。


「どうして……」

「どうやら君自身も、己の力についてすべてを把握できていないようだ」


 聞き覚えのある低声が響いて、詩音は咄嗟に振り返る。

 医療班の男性局員を連れて、端麗な妖が戻ってきた。


「〈歌〉の術式ということは、君は歌川家の人間か?」

「え、ええ。そうです。でも、わたしは術式が使えなくて……」

「使えない? そんなことないだろう。音衛は娘もいずれ警視局に入り、頭角を現すと豪語していた」

「どうして父の名を……! あの、あなたは……」

「ああ、そうか。まだ名乗っていなかったな」


 かの人――いや、妖は胸に手を添えて名を明かす。


「俺は人妖警視局第一部隊隊長、鬼海きうみれん。またこの北島を治める黒鬼――鬼海家の当主でもある」

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