第3話 海洋事故
夕方5時過ぎ、西浦和駅前のロータリーで、佐藤さんは静かに頭を下げた。「お先に失礼します」—今日も定時で退社だ。彼のビジネスバッグの中には、見慣れた書類の代わりに、銀色の日本刀が収まっている。
西浦和の平和が保たれた数週間。しかし、佐藤さんは自宅でニュースを見ていたとき、日本の南の離島、小笠原諸島近海で発生した不可解な「海洋事故」の報道に目を留めた。貨物船が突如消息を絶ち、現場海域の海水温が異常に上昇しているという。
「これは…」
空間の歪みと異界の瘴気は、ついに海を侵し始めたのだ。
翌日、佐藤さんは会社を有給休暇で休んだ。
彼は特殊なルートで手配した小型の潜水艇に乗り込み、小笠原諸島の事故現場の海域に潜っていた。 水深約50メートル。深海の色が混じり合う、冷たく暗い水中だ。潜水艇のソナーが、巨大で異常な生体反応を捉えた。
その直後、凄まじい衝撃が潜水艇を襲った。船体が激しく揺さぶられ、計器盤の警告ランプが点滅する。
「やはり、ただのサメではないな」
佐藤さんは落ち着き払っていた。すでに異界の力によって、生物兵器と化した"それ"と戦う覚悟はできていた。
彼は急いで潜水艇のハッチに移動し、耐圧スーツを着用した。そして、ビジネスバッグ—特殊な加工が施された防水ケース—から、愛刀を抜き出す。鈍い銀色の刃は、深海でもわずかに光を反射していた。
佐藤さんは潜水艇の外へ飛び出した。
冷たい海流がスーツの周りを巡る。視界は青と黒のグラデーションに染まっていた。周囲に音はほとんどなく、自分の呼吸音と心臓の鼓動だけが響く。
そして、暗闇の中から、巨大な影が現れた。
全長10メートルを超える、異様に肥大化したホホジロザメ。その皮膚は昨日のコンビニの男と同じく硬質化し、目からは血のような赤い光が漏れている。通常の生物の域を超えた、紛れもない**「モンスター」**だった。
サメは、潜水艇から出てきた佐藤さんを一瞬で獲物と認識した。
鮫は巨体を翻し、時速60キロメートルを超える速度で突進してきた。その口からは、通常のサメとは異なる、異界のエネルギーが混じった粘性の液体が噴出している。
佐藤さんは、深海の水圧と水の抵抗の中、驚異的な体術を発揮した。彼は海水を蹴るように体を回転させ、突進をギリギリでかわす。サメの巨大な顎が、佐藤さんがいた空間を一瞬で噛み砕いた。
「くっ…水の中では、地上と同じようにはいかない!」
水の抵抗は刀の速度を著しく鈍らせる。一撃の威力を最大化するためには、水の抵抗を味方につける必要があった。
鮫は再び佐藤さんに向かって向きを変えた。今度は、尾ひれを激しく振り、水中に強力な渦を発生させた。佐藤さんの体が渦に巻き込まれ、身動きが取れなくなる。
(チャンスだ!)
渦に囚われ、獲物が無防備になったと判断したサメは、勝利を確信したかのように大きく口を開け、再び突進してきた。
その瞬間、佐藤さんは動いた。
彼は渦の流れに自らの体重と刀の重さを乗せるように、渾身の力を込めた。水圧を逆手にとり、遠心力のように刀を振り抜く。
「三の太刀・
刀は、水の抵抗をほとんど感じさせずに一筋の銀の光となり、サメの顎の下、唯一の弱点となりうる柔らかい
強靭な硬質皮膚を避けたその一撃は、深々とサメの体内に食い込んだ。
「グオオオオオオッ!」
断末魔の咆哮が、深海に轟いた。サメの巨体が痙攣し、硬質な皮膚がひび割れていく。赤い眼の光が消え、全身から光の粒子となって深海に散っていった。
光が消え、海は元の静寂を取り戻した。残されたのは、わずかに上昇した海水温と、深海を漂う細かい光の粒子だけだ。
佐藤さんは刀を鞘に収め、潜水艇へと戻った。彼は酸素ボンベの残量を確認し、そっと海面へと上昇を開始した。
船に戻った佐藤さんは、スーツを脱ぎ、ビジネスバッグに刀をしまう。疲労は感じていたが、彼の表情に安堵の色はなかった。
「異界のゲートは、もう場所を選ばない…」
西浦和の静かなロータリーから、遠い海の底まで。彼の戦いは、日本の平和が続く限り、終わることはないだろう。明日、彼は東京湾アクアラインを通って出勤するかもしれない。そして、海の下を通過するとき、今日の戦いを思い出すだろう。
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