代行革命
ロンドン・カジキマグロ
宿題代行
1.琴奈の日常
別に文章を書くことが好きな訳ではなかった。子供の頃は、今よりいくらかは好きだったのかもしれない。本を読むことは割とすきだった。辛い時も、悲しい時も、何となく忘れることが出来た。いつでも近くに文章はあった。大人になってからでも、時間があれば、本を読んだ。好きだからなのか習慣なのか、自分でももう分かっていなかった。どことなく心が落ち着くことだけはわかった。
スヌーズはもう何回鳴ったんだろうか。冷たく一定のリズムが私の体を激しく揺らす。また、1日が始まる。いつもと同じ1日が。時計を見ると、7時半を過ぎていた。
「ヤバい。」
あと15分で家を出るはずなのに、何も準備が出来ていない。こんな時にだけ、家の狭さにありがたさを感じる。すぐそこにあった食パンを素早く口に運んだ。消費期限はもう2日過ぎている。昨日と同じ服に、昨日とは違うアウターを重ねて着た。もうメイクはいいか、マスクをしてしまおう。時間がなかったので、すぐに家を後にした。職場までは自転車で向かう。今日はちょっと家を出るのが遅くなったから、ずっと立ち漕ぎだ。そのせいか、いつもは20分くらいかかるが、15分ほどで着いてしまった。
東京の郊外にある、小さな職場だ。東京は東京でも、人に自慢できるような仕事じゃない。それどころか、友達にも親にも公務員だなんて嘘をついている。実は、私の仕事は「宿題代行」だ。最近話題になっている代行系の仕事の一種だ 。小・中学生や高校生、大学生の宿題、課題を代わりにやる、ただそれだけの仕事だ。シンプルに聞こえるが、案外これが難しい。字を似せたり、レベルを合わせたり、適度に間違えてみたりする細かい作業もある。もうこの仕事もかれこれ2年目に差し掛かるところだ。だいぶ仕事にも慣れてきた。私は文章を書くのが早かったから、何となく、文章担当みたいになっていた。毎日2つくらいの作文や論文を代行して書く。その後、上司に確認してもらって、OKが出たら依頼者へと送る。論文1つだと1万円弱くらい、作文1つだったら良くても5000円弱くらいだろう。最初は割に合わない気もしていたが、最近じゃもうただの作業だ。まだ割に合わないだなんて思えていた方が毎日が新しいことだらけで、幸せだったのかも、なんて考えてみたりもする。
9時には仕事が始まる。今日の依頼は、論文と作文だった。いつものように淡々と作業をこなしていく。論文は教育学がテーマの大学生のものだった。論文はあまり考える必要がないから助かる。だいたい3、4時間で書き終わり、いつものように上司の稲川さんに確認してもらう。
「多田さんは、いつも仕事が早くて助かるよ。」
なんてよく言ってくれる優しい上司だ。稲川さんは5年くらいここの会社で働いているらしい。くしゃっとよく笑う、優しいおじいちゃんってイメージだが、意外にもまだ50代後半らしい。稲川さんの一言が、案外、2つ目の仕事に勢いをつけてくれたりする。昼休憩を軽く済ませて、次の仕事に取り掛かる。次は、中学生の作文で、テーマは「家族」だった。このテーマで作文を書くのは初めてではなかった。ただ、あんまり得意なテーマじゃない。別に、家族と私に大きな何かがあった訳ではない。本当にただ、あまり思い入れがないだけだ。
私の母親と父親は共働きで、毎晩夜遅くに帰ってきていた。私が小さい頃からだ。私が寝たすぐ後くらいには帰ってきていたのかもしれない。姉も1人いた。両親が居ない分、一緒にいる時間が長かったから、仲は良かった。ただ、6つも歳が離れていたせいで、私が小学校を卒業をする頃には、大学に行き、一人暮らしをするために家を出てしまった。そこから私は、基本的に毎晩一人で過ごした。両親が早くに帰ってくる日もたまにあったが、月に1回とか2回だった。大して会話もしないせいか、あんまり仲が良い訳ではなかった。中学卒業からから高校卒業くらいまでは、私が反抗期になってしまった。高校卒業した後は、偏差値45くらいの大学に入ったから家を出た。
こんな感じであんまり家族との思い出がない。だからか、この手のテーマはかなり手こずってきた。もうでも慣れたもんだ。今まで書いてきた「家族」がテーマの作文を思い出しながら、書き進めよう。ただの作業だ。そう思っていたが、今日はなぜか頭がモヤついていた。朝のパンのせいかななんて思ったりしたが、答えは出なかった。この頭のもやもやを、どうにかして吐き出してしまいたかった。気づけば時間はもう14時になっていた。早く終わらせてしまおう。とりあえず作文に取り掛かった。目の前の原稿用紙に向かううちに、頭のもやもやいつの間にか晴れていた。
書き終えた頃にはもう16時半を過ぎていた。稲川さんにOKをもらったら定時には上がれそうだ。小学生の漢字ドリルをしていた稲川さんに声をかけて、確認をしてもらう事にした。大体、15分から20分くらいすれば、読み終えた稲川さんがOKをくれる。でも、今日は少し長かった。30分経っても稲川さんがOKを言いに来ない。頭のもやもやのせいで、誤字が多かっただろうか。気になって、とうとう稲川さんのところに確認しに行った。稲川さんのデスクに着き、
「すいません、何か問題でもありましたか?」
そう口にしかけたが、すぐに口を閉じた。泣いている。少し稲川さんが泣いている。
「あぁ、多田さん。遅くなっちゃってごめん ね。良い文だ。すごく素敵な作文だった。」
こぼれるように、言葉が出てくる。私はまだ頭の整理が追いついていなかった。初めてだった。すぐにOKが貰えなかったのも、ましてや稲川さんが泣くことなんて。まだ、少し涙ぐんでいる稲川さんがゆっくりと口を開く。
「こんな素敵な文章、久々に読んだよ。贔屓目かもしれないけど、感動しちゃってね。」
ここで私はようやく、稲川さんが自分の作文を読んで、泣いていたことに気づいた。心無しか、ちょっとだけ嬉しかった。ほんの少しの喜びと同時に、不安が襲いかかってきた。あくまで中学生の作文だ。稲川さんが泣いてしまうほどの文章を、課題なんかで中学生が書くだろうか。定時が迫っている。思い切って聞いてみることにした。
「ありがとうございます。でも、この作文、中学生のものなんです。書き直した方がいいですかね、、」
涙ぐんでいた稲川さんが、我に返ったように、少し黙り込んだ。少し経って、稲川さんはゆっくりと口を開いた。
「いや、このまま送ってみよう。」
私はホッとした。これで今日も、残業をしなくて済む。OKが貰えたので、依頼主に作文を送って帰ることにした。何やら、今日は満月らしい。お酒でも買って、オシャレにベランダで飲んでもいいかも。そんなことを考えながら、自転車を漕ぎ出した。
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