第5話 偽モノでも生きたい
奈落が近いと空も灰色になる。風が吹けば錆びた鉄骨の軋む音が混じる。地面のひびには雑草が根を張り、アスファルトはもう舗装の意味を失っている。
崩れた街の片隅、臨時の任務拠点。その中だけはまだ、生活の匂いがあった。
仁が拾ってきた酸化したコーヒー豆を鍋で煮出していた。焦げた匂いが古本のように鼻に染みる。生活感の犯人はこいつだった。
「うん、最高」
仁は満足そうに言いながら、ほとんど泥水のようなコーヒーを見つめた。
「よくそんなものが飲めますね」
ラグナが眉をひそめた。
「気分の問題。死んでるから味覚ないんだよ。だから“気分”で飲む」
「理屈になってませんね」
「理屈なんて世界崩壊と一緒に壊れたよ」
「……早いものですよね。崩壊したのは……平成28年でしたか? もう十年近く経ちますね」
「世界崩壊と言うより世界断絶だな。 崩壊前を知らない世代も増えてくる」
「増える前に滅びそうですけどね」
ラグナの声は乾いている。仁は苦笑しながら、煮詰まったコーヒーを啜った。
「ここは灰野だったか?」
「ええ、そうですね。正確には第九限界汚染圏A-9。灰野は通称ですね」
ラグナは本当に記憶力がいい。誤解の無いように言うがA-9に灰野の名前が付いたのは一昨日だからな。俺の記憶力の問題ではないぞ。
灰野はこの前ゾンビの大量発生があった場所だ。基本的に限界汚染圏には名前が付いてない。灰野ならA-9だけだった。大きな事件があると名前が着くことがある。前回の大量発生に上がそれなりの危機感を持った証だろう。
「明日は汚染地帯での特殊第一級任務だったな。準備は?」
ちなみに第一級は偵察任務で、“特殊”が付くと強行偵察になる。
今回の目的は、ゾンビ大量発生の原因調査だ。灰野で少数のゾンビが確認された。だが大量発生源は不明だった。そのため灰野より奥の汚染地帯の強行偵察が決まったわけだ。
「完了済みです。あなたが泥水を飲んでる間に終わりましたよ」
「ラグナも飲むか? まぁいいや」
ラグナが本当に嫌な顔をするので辞める。続けて
「ラグナはここで待機。何かあったら頼む」
ラグナは人間だ。人間が汚染地帯に行けばそれだけで肺が腐って死ぬ。それに強行偵察は危険だから待機人員は必要だ。
「了解です。2人ともご無事で……泥水を煮出して待ってますよ」
「コーヒーなんだがな……」
仁は情けなさそうに呟いた。
乾いた笑いが二人の間を抜けた。風が窓枠を叩き、鉄骨が低く唸る。夕陽が差し込むと、埃が金色に浮かび上がった。
その光の中で、光が静かに息をついた。古い布でコップを拭きながら、壊れた窓の外を見つめる。奈落近くの空は、昼でも夜でも灰色だ。
――生まれるはずだった命に、見せたかった空とは違う。
胸元にそっと手を当てる。そこに痛みはない。膨らみもない。けれど温かい。胸の奥にはあの子がいる。
崩壊の夜。産声をあげるはずだった命は、この胸の奥で静かに眠っている。
この子は母を見捨てなかった。形を失いながらも、光の傍に戻ってきた。
光は微笑む。声は聞こえないけれど、確かに感じる――かすかな光の鼓動。まるで胸の奥で小さな灯火が揺れるように。
「光さん、どうした?」
仁が尋ねる。
「いえ……動いた気がして」
「動いた? そうか……」
珍しく仁の舌が止まる。
「大丈夫ですよ……ここにいますから」
光は自分の胸に手を当てた。
仁は少し考えてから話し始める。
「光さんと一緒なら安心だね」
「罰かもしれません」
「罰?」
「……産んであげられなかった」
仁は目を細めた。光の声の震えに、言葉を選ぶ。
「……仕方なかった……では納得できないか?」
「……あの人もあの時に亡くなりました」
いつも優しい人の本性はやはり優しいんじゃないかな? そんな事を仁は思う。
「……そうか、なら後悔し続ければ良い……光さんには後悔が繋がりなんだろう?」
何かを思い出すように続ける。
「無理に後悔をやめることは無い。ゆっくり戻れば良い。危なくなってもその子が居れば大丈夫だろう」
「……はい……ありがとう」
「人をやめた筈なのに後悔はやめられない。俺たちは本当に〝偽モノ〟だな」
亜人が自嘲して言う〝偽モノ〟。人でもない。化け物でもない。いつまでも中途半端な俺たちには相応しい名前だ。
その言葉に、ラグナが壁にもたれながら口を開いた。
「……あなたたちを見てると、人間と亜人の定義が分からなくなりますね」
「人間と化け物の境界線なんて、あの時に滅びたんだろう」
仁がホッとした様に笑う。
「腐るのは人間。腐らないのはゾンビ。変われないのは亜人……ってな」
「仁くん……いい事を言ったって思ってません? 昔の言葉を借りると〝草〟の一言ですよ」
「コーヒー飲むと知性が上がる筈なんだがなぁ?」
「それは、コーヒー風泥水です」
「おっさんも飲んでみるか?」
「いりません。あと私は40前です。おじさんではありません」
「おじさんじゃん」
いつもの2人のやり取りを見ながら光は力を抜くように笑った。胸の奥で微かな鼓動を感じる。それは心臓の拍動ではない。あの子が笑っている。
――ねえ、ママ。まだ生きてるよ。
そんな声を聴いたような気がした。
彼女は静かに目を閉じ、胸元を撫でる。手のひらに感じるぬくもりは、命の証のようで、あの子との確かな繋がりだった。
「さて、明日はゾンビの調査だ」
仁が言う。
「光さん無理すんなよ」
「無理しません。この子が居ますから」
「うん、大丈夫そうだな」
仁が笑う。
壊れた窓の向こうで、風が鈍く唸った。瓦礫に反射した夕暮れの光が、光の頬を照らす。彼女はそのぬくもりを胸に感じながら、静かに呟いた。
――見ててね。ママは最後まで生きるから
その瞬間、彼女の胸の奥が鼓動した。まるで返事をするように。
夜が降りる。明日、彼女たちは灰野の奥へ踏み込む。静かに、息を整える音だけが拠点に残った。
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