第2話 亜人は静かに暮らしたい
空は灰色だ。
今日も限界汚染圏に遠征している。位置的には汚染地帯の外側。
かろうじて人間が生きていける場所だ。ただしゾンビが多いから住むのはお勧め出来ない。
風が吹くたび遠くの瓦礫がカラカラと鳴る。早朝なのに太陽は雲の向こうでぼやけ、光とも影ともつかない薄闇が街を覆っていた。
辛気臭い風景だが、コーヒーを淹れるには悪くない朝だ。
缶コーヒーも嫌いじゃないが豆から挽くと気分がかなり違う。
前回の依頼は拍子抜けするほど雑魚ばかりだった。適当に鉄パイプ振り回していたら全滅していたからな。
血と埃の匂いがまだ残る街路を見ながら俺は乾いた笑いを漏らした。
まだ屋根がある、ぎりぎり建物と言える物件を無断借用中だ。
「これは、美味いだろう。ゆっくりドリップして香りも立ててるんだし……」
廃墟じみた部屋の中を湯気が立ちのぼる。その時、屋上で警戒中のラグナが声をかける。
「仁、そのコーヒー豆はどこで入手したんだ? あとそのでかいドリッパーか? どこから持ってきた?」
「ゾンビの巣。奴ら結構なコーヒー党でさ。器具も揃ってたよ。あとこれは業務用の水出しコーヒー用」
「ゾンビが? 冗談か?」
「……喫茶店がゾンビの溜まり場だった」
「どうりで……腐った臭いがすると思った」
「匂い?」
「臭いだな」
「…………」
おっさんの戯言を無視してゆっくりカップを傾ける。死んでると苦味も甘味も全部が記憶の味になるらしい。
「ふっ、俺は情報を飲んでるんだ」
うん、なんか頭が良さそうだな。馬鹿っぽいけど。
通りの向こう、割れたアスファルトの上で光がしゃがみ込んでいた。
彼女は俺たちの仲間で、年齢は三十くらい。死んでるようで生きていて、子供もいないのに母親っぽい顔をしている。ややこしい? この世界じゃ普通だ。
今回の依頼は正式には第3種任務、分かりやすく言うと事後調査だ。この前の雑魚狩りの結果調査だな。光さんは調査任務が得意なので同行している。
「……治してもいい?」
光さんが小さく呟いた。視線の先には無惨に食い荒らされた死体。
「いや……バラバラだろ」
ゾンビに噛まれたんだろう。咀嚼の跡がひどい。ゾンビは噛めるけど食えない。だから遺体と言うより肉片に近い。
「いえ、治るわ」
光の指先が触れた瞬間、肉片がつながり遺体になる。血塗れのボロ布も服になった。直るのもおかしいし汚れが落ちるのも意味不明だ。
俺の鉄パイプもお願いしたいもんだ。ついでに俺の愛棒も――いや、殴られるからやめておくか。
「なんで服まで直るんだ?」
「無機物も治るべきものなの」
「へぇ、服が治るなら俺の人生も治して欲しいよ」
「それは高くつくわね」
上品な微笑みだった。けれどその奥にあるモノは怖くも見えた。心を読まれてないよな……特に愛棒関連で。
光の癒しはやさしいが、どこか歪んでいる。俺たち亜人は生きてるのか死んでるのか分からない存在だ。
三大欲求もない。食う、寝る、やる――全部できるが、意味が無いから忘れた。光さんだけがまだ、それを覚えている気がする。
「なあ」
「なに?」
「もし俺を治したら、俺はどうなると思う?」
「元に戻るんじゃない?」
「元って、どの俺だ? 死ぬ前? それとも生まれる前?」
光は少し首を傾げた。
「――どれでも仁じゃない?」
その瞬間、彼女の笑顔の奥に“母親”の顔が見えた。優しさと怖さが同居する顔。ああ、あの人もそうだったな……
誰のことだ? あの人って? 記憶が曖昧だ。
屋上のラグナが叫んだ。
「仁、ゾンビだ! それも多数」
「は? マジか?」
思わず間抜けな返しをする。だが間引きしたのは先日だぞ。いくらなんでも早すぎる。
「ラグナ正確な数は分かるか?」
最初は慌てたが所詮、第1種動死体だ相手にならない……いや雑魚ゾンビの事ね。公文書で使われてる名前だ。政府も公の書類にゾンビって入れたくないんだろうね。
「敵影……多数だ」
少し疲れたような口調でラグナが言う。
この前だけで100体以上駆除したからな。それでこれだったら疲れるのも分かる。
通りの向こう、灰色の霧の中からゾンビの群れが現れた。瓦礫を踏み砕き、ひきずる足音が街にこだまする。
ああ、もう朝から満員御礼だ。まったく静かな暮らしが希望なんだがね。
「朝からご苦労さん。死んでからも働き者だな……ところで、いつ頃こちらにお引越しで?」
うん、これだけ明朗快活に話しかけても無反応。さすがゾンビだ。なにがさすがかは知らんけどね。
何時までも愚痴っても仕方ない。さっさと片付けて街に戻るか。
俺はコーヒーカップを地面に置いた。鉄パイプを肩に担ぎ、光に笑いかける。光は静かに頷く。
「いってらっしゃい、仁」
「あいよ」
返事をしてゾンビの群れへと歩き出した。
この世界の朝は、だいたい血とカフェインでできている。
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