僕が僕を。

その後に向かったのは男子トイレだった。

窓の配置の影響からか、朝だって言うのに夜みたいに薄暗いトイレ。

下水道の匂いとアンモニア臭が混ざったような、今にでも嘔吐してしまいそうになる匂い。


そんな中、僕は洗面台に向かって胸いっぱいの不快感をばら撒いた。

幾ら吐いても、吐いても嗚咽が続く。

なんで吐いているかなんてわからない。


ただあるのは、無限の様に腹から湧きだす不快感と、脳裏によぎる彼女の顔。

目の前の洗面台に溜まった水たまりに、僕の顔が反射する。


酷い顔だ。顔を上げた先にある鏡に映った顔は、もっと酷い顔だった。

目を見開き、自分の顔をペタペタと触ってみる。


誰だ。鏡に映っているのはぼくだ。

僕。そうだ、ぼくだ。

僕が。


「・・・うっ」


再び、洗面台に顔をうずめる。

胃の中が空っぽになっても、腹の底にある何かに限界はない。


結局、この吐き気が留まることはなく、その日の学校は早退した。


暗く、妙にジメジメとした部屋。

母は仕事で家に居ない為、僕は一人で学校から帰った。

父は、来るわけもない。


「なんで」

膝を両腕で抱えて、ベッドの上でそう呟いた。

良くもまぁ、「なんで」なんて言葉が吐けるものだと思った。

自分が、全部悪いのに。あの時、知ってても助けに入らなかった自分が。

彼女の素性を知っている自分だけでも。


僕は助けるべきだった。


でももう、全部どうでもいいとも思った。

このまま彼女は学校に来ずに、警察か何かに連れていかれて、児童相談所とかで過ごす。

僕は、明日からまた学校に行って、普通に生活して。


もう、彼女の事なんて忘れてしまえばいいんじゃないか。

元々仲なんて良くなかった。

無理して仲良くなろうとして失敗もした人だ。


別に、今日はずっとこうして、布団にくるまって。

時間が経つのを待てばいいんじゃないか。

もう全部、大人に任してしまえばいいじゃないか。


良いんだ。それで、僕は子供なんだ。

だから、だから。


「泣かないで、僕」


頭。頭。

体。体。


僕は考えている。

僕が考えている事は、きっとあっている。

僕たちはまだ子供で、中学二年生だけで生活なんて出来っこなくて。


体につけてしまう傷も、飲み過ぎちゃう薬も、信頼できそうな人を見つけた時の、あの。

彼女の、瞳も。


全部、大人に任せた方が良いに決まってるんだ。

そのほうが、彼女も適切な場所に行けて、適切な治療を受けれて。

きっとまた、いつか。ぼくたちと同じように日常を歩けるはずなんだ。


「泣くなって」


せがむような、懇願するような。

僕はきっと。僕のこの考えを許してくれないんだ。


ずっと、そうだった。それが正解だと思って、生きてきた。

優先すべきは、自分がやりたいことじゃない。

本当に優先すべきは、それよりずっとずっと先にある何かだ。


『お前は本当に何もできないんだなぁ』


父の言葉を思い出す。

笑いながら、僕に語りかけた言葉。


僕は、自分の事を何もできない人間だと思う。


『へたくそな字だなぁ』


漢字のテストを見せた僕に、父が放った言葉だ。



僕は、不出来な息子だと思う。



『うるせえな、邪魔すんなよ』


毎日浴びるように飲酒を繰り返し、家族に暴力を振るう。

僕が父を遊びに誘ったときの、父の言葉だ。



僕は、見られないのだと思う。



『---』


別に、年がら年中ぼくたちに暴力を振るっていた訳じゃない。

普通に母と会話をしていた時だって、多い。


『なんだよお前ガキの癖に口答えしてんじゃねえよ』


父に怒鳴られたときの記憶だ。

年がら年中暴力を振るっていなくたって、僕はずっと父が怖かった。


僕は、不出来な息子だから、見られないのだと思った。


母だって、僕の事を良い子だといった。

だからぼくは、大好きだった泥遊びを辞めることにしたんだ。


僕は、両親が見てくれるように、必死に頑張った。

両親の期待にそえるように。両親が理想とする僕に近づけるように。

ずっと、ずっと、頑張ったんだ。


それは僕が、出来の悪くて、頭が悪くて、良い子じゃなくて、字が下手くそだから。

僕は頑張らなきゃ、ダメだったんだ。


だから、必死に努力して。

本当の僕を覆い隠して。


気付いたら友達にも、本当の僕を見せるのが怖くなって。

全員の期待に答えようと。みんなが理想とする僕になろうって。

とっても頑張って。


認めて貰えた時、とっても嬉しくて。


とっても、悲しい気持ちになる。


悲しくなる。本当の僕を、見てくれる人なんているわけがなかった。

いない。逃げ腰で、臆病者で、非力で卑怯で。


自分を偽って見せないと友達の輪にすら入れない弱い人間。

そんな僕を、見る人なんて、もういるはずがないんだ。


「もう、良いんだよ」


だからこうして、終いには引き篭もって、空に閉じこもって、また逃げる。

僕の人生は結局、何かから逃げ続ける人生だ。


でも、

『今の君の方が好きだな』


頭の中に、少女の声が響いた。

彼女は、僕にそう言った。


あの日みた星空は、とても綺麗だった。

あの日みた笑顔も、瞳も。


あの時僕は、何を思っていただろう。

ずっと、分からなかった。


頭じゃ、理解できなかった。

学校で唯一、僕を認めてなかった女の子がくれた言葉。

きっと、分かっていたんだ。彼女は。


そうか。ずっと、自分を見れていなかったのは、ぼくだ。


「いかなきゃ」


行って、謝って。

ちゃんと話をしよう。

ありがとう。って言おう。


重い足を引きずりながら、僕は扉の前に立つ。

持ち上げた手は、震えが止まらない。


それでも僕はその手をゆっくりとドアノブにかけ、扉を開く。

大丈夫だ。と胸の中に暗示をかけて。

彼女の元へ行くために。


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