君の目に僕が。
キス。キス。キス。
僕にとって初めてのキスは、想像以上に突然で、それ以上にまろやかで。
今までアニメとかドラマでしか見ていなかった大人の世界が、グッとこちら側に来たような。そんな気がした。
いや、僕がそっち側に行っちゃったのかな。
どちらにせよ、僕の衝撃的なファーストキスは、背徳感と気持ちよさと、女の子の味がまじりあった、何か不思議な味だった。
口の中にキスのなごりを感じつつ、ゆっくりと目を開く。
何分、何十分を彼女と共にしていただろう。
徐々に移り込んだ僕の視界に彼女は居なくて、さっきぶりに見た部屋の天井だけが視界に映りこんだ。
口付けに満足したのか、彼女が口で浅い息継ぎをしながら唇を遠ざけて、それから若干の時間が経過している。
ものの数秒である。故に、これまでの出来事を頭の中で整理するには少なすぎる時間だ。
僕の頭の中に、彼女との数分間が永遠に映し出される。
壊れたビデオテープの様に再生と一時停止を繰り返す頭の中に終わりは見えなくて、このまま死ぬまでこの景色が続くのかなと思っていた途端の事。
僕の頭のコンセントを引き抜いたのは、ほかでもない彼女だ。
勿論、僕は電化製品ではないので、コンセントを抜いたなんていうのはただの比喩だ。
彼女はただ、僕に一言声を掛けただけだ。
ただ、名前を読んだだけ。あれから放心気味の僕の様子を見て「優希くん?」と語り掛けただけだ。
そんな不意の問い掛け程度で、こんな仰々しい表現をされているなんて、想像もしないだろう。問いかけに応じ、彼女に目を向けた僕の瞳に映ったのは、キョトンと澄まし顔の女の子で。
僕をこんな風にしておいて、なんて顔をしているんだ。なんて、思ったりした。
「あ、ごめん。だいじょぶ。」
「そう」
僕の様子を一目見て、彼女はテーブルの上に置いてある器に手を伸ばす。そして、自分の口元へ。
僕は、容器に触れる彼女の唇から目を離せず、彼女が喉を震わして水を飲み干すまで、一挙手一投足を瞳に焼き付けようとした。
また一度、二度、三度、微かに浮き出た女の子らしい喉仏が揺れる。
彼女は余すことなく最後の一滴まで飲み干すと、さっき僕の唇から離れた時みたいな浅い息継ぎをして、唇を離す。
僕はその、紅色で、柔らかそうでちょっと湿った唇に意識を惹かれ、吸い込む息も、吐きだす息も、その全てが魅力的に感じた。
呼吸を忘れていたのか、一通りの挙動を瞳に焼き付けた後、今度は自分の鼓動に意識を持っていかれる。
耳に聞こえてくる大きな呼吸音が、自分の口から出ている音だと気付いた。
そして、酸素を取り入れる度に、意識もハッキリしてくる。
彼女の唇に目を奪われすぎていたことに気付けたのは、大きな酸素を五回吐いて吸った時だった。
気付くと、僕もテーブルの上に置いてあった容器に手を伸ばしている。
そして、一気に水を飲み干す。
薄眼で見えた彼女は、そんな僕の様子をジッと見つめていた。
水に酸素。人間が生きる為に必要な必要最低限な二つ。
「ど、どうしていきなり、キスなんか」
徐々に正気に戻っていった僕の脳みそは、僕の想像以上に正気に戻っていた気がする。
虚勢かハリボテかもしれないけど、それでもいい。
「どうしてって、私の事好きなんでしょ?」
「え、?」
僕は長年連絡が取れなかった親友と取調室で出会った時のような。
重苦しい雰囲気で、当たり前の事を聞くような、怒りと困惑が混ざり合ったような声で彼女に問うた。僕が刑事で、彼女が容疑者。
そんな問いに彼女は、1 + 1は?と聞かれて2と答える小学生の様なテンションで、至極真っ当な事を言っているかの様な眼をして、そう言った。
彼女が生徒で、僕が教師。
僕は、彼女の部屋を大きく見回した。薄暗い照明、散らかった服、開きっぱなしのタンス、その上に置いてある種類豊富な風邪薬、制服のシャツを肘までまくり上げて露出した手元の傷。
僕。目玉は次に僕に向く。ベットから上半身を起こし、両手を後ろにして体を支えている僕。
学校の体操服のジャージ。一番下まで降ろされて、鎖骨が露出している上着のファスナー。
それに、学校の半ズボン。
僕と彼女。
目、鼻、口、耳、髪。
同じだ。同じ人間。
「え、いや。だって、そうだとしてもさ」
「もっとこういうのって、段階踏んでするものなんじゃないの」
なのに、彼女は。
僕のその問いには、答えない。
キョトンとした顔でこちらを見ているだけ。
『あなたにとって人とは』
今日の授業で聞かれた、単純明快で当たり前の質問。
彼女は、眉を上げ不思議そうな顔でこちらを見ている。
僕は、そんな彼女の顔を見て瞼を細め、視界から彼女を追い出す。
決して、斜め下が見たかったわけじゃない。
そこに、何があるわけでもない。
ただ、目を背けたかった。見たくなかった。
僕は。僕は。
貴方のそんな顔が見たかったわけじゃないんだ。
「ごめん、今日は帰る」
—
その日は、家に帰ると母に怒られてしまった。
それもそうだろう。時刻は21:45
中学二年生が出かけていい時間ではない。
母は、「ごめんなさい」と僕が謝るとまた意外とすんなり許してくれた。
僕の様子を見兼ねて怒る気をなくしたのか、そもそも母自体も眠たかったのか。
理由は定かではないが、いつもは怒鳴りつけて叱ってくる母が今日は小言一つで済ましてくれたのだ。
母と話し終わって直ぐにシャワーを浴びて、僕は自分のベッドに転がり込んだ。
低反発素材の布団に、夏用に軽いシート。それに、低めの枕。
自分の頭から香ってくるシャンプーの良い匂い。
ベッドに居ると、嫌でもさっきの事を思い出してしまう。
ベッド、ベッド。凜さんのは僕のと違って少し布団が薄くて、色も水色だった。枕だってそうだ。
キス。
口元の違和感は、そう直ぐに拭いきれるものじゃない。
彼女に求められるがままにした初めてのキス。
それに、その後にみた、彼女の瞳。
ここは僕の部屋だ。ここにいると安心する。
先程まで彼女の部屋で感じていた疎外感も、ここには存在しない。
家に帰ってくるとお母さんがいて、お風呂が沸いてあって、夕ご飯が作ってある。
夜遅くまで遊んでいたら、心配して叱ってくれる人が居る。
悲しい時、寂しい時、元気が出ない時。
僕の傍には家族がいる。
また、前を向いて歩いて行けるように、支えてくれる人がいる。
僕は、お母さんを見れる。
僕の為にお仕事をしてくれて、女手一人で家事もしてくれるお母さんを見れる。
ぽた、ぽた、と。
僕の布団に染みができる。
雨漏れじゃない。僕だ。僕の目から、涙が出ている。
あの時の、彼女の目を思い出してしまう。
彼女の瞳に、僕は居なかった。
きっと、彼女は見たかった。求めてた。見たいと、願ってた。
赤渕凛。
僕が見た彼女の目に映っていたのは、僕じゃない。
僕の中にある、何かを見ていた。
それを思うと、なんだか無性に心が締め付けられて、涙があふれだしてしまう。
夜の部屋。
静かな部屋に、一人。少年のすすり泣く声が響く。
僕は、僕は彼女を-
—
今日も変わらず朝がやってくる。
時間は経過し、地球は回り、朝日が昇る。
僕は中学二年生だから、週二の休みを除外してほぼ毎日学校にいかなくてはならない。
どんなに気分が重い日でも、どんなに元気が出ない日でも。
今日の朝は、いつもの朝食に追加してお母さんがお手製のサンドイッチを出してくれた。
とてもいきなりだったので、お母さんに訳を聞くと、「偶然」とだけ答えた。
お母さんはやはり分かっていたんだ。
僕になにかあって元気がなくなっていることを。
僕は、そんな母のサンドイッチを頬張りながら、また元気を出そうと決めた。
大丈夫だ、大丈夫と。
ふと、このサンドイッチを見ていたら父の事が頭によぎる。
関係ない。関係ない。関係ない癖に。
僕と母。二人で幸せに暮らしている。
今は、それだけでいい。それでいい。
サンドイッチを完食し、いつものように身支度を整える。
「いってきます」
と、玄関を開ける前にリビングに向けて言い放った。
すると今日は、「気を付けていってらっしゃい」
と、聞きなれた母の声が返ってきた。
お手製のサンドイッチに、母の言葉の後押し。
これほどまでにいただいているんだ。
僕は、ゆっくりと玄関を開けて、学校への歩みを進めた。
—
教室に入る前、深呼吸を二度三度行う。
大丈夫。いつも通り。
教室に入って、鞄をしまって席についたらいつものように彼女に挨拶をしよう。
そしたら、彼女はいつものように本を見ながら、横目で挨拶を返して。
いつものように授業を受ける。
それでいいんだ。何も緊張することはない。
ガラガラっと、音を立てて扉を開ける。
扉が開ききり、教室の様子を見渡すと、いつもの様子。とは言い難い光景が広がっていた。
幸か不幸か、その非日常はいましがた、僕が入った瞬間に始まったものだった。
「なぁ、お前援助交際してるってほんと?」
聞きなれた声で、クラスメイトに話しかけているのは拓だ。
それに、その拓を囲ってクラスメイトに目を向けているのは、いつもの取り巻き集団。
僕はゆっくりと自分の席に近づいていくと、その渦中にいるクラスメイトの存在に気が付いた。いや、気が付いていた。
拓達に席を囲まれ、わざと教室全体に聞こえる様に話をされている少女。
そう。少女である。
「なに、してんの・・・?」
綺麗な黒髪に、長いまつ毛、日本人形の様な綺麗な顔立ち。
昨晩、至近距離で見つめたその顔立ちは、見た事のない顔をして、椅子に座っている。
顔面蒼白、とはこのことだろうか。
全身から血の気が引いて、力が抜けていく感覚。
何も。全く身に覚えのない事実無根の、ただの噂話程度だったら、ちょっとの問題で済む。
でも、これは。僕は知っている。
これはきっと、事実のことだから。
「おう!優希来たか!聞いたかよお前の隣の席のこいつ、パパ活してるらしいぜ」
「え・・・?」
もっと、言えることはあったと思う。
でも、口には出ない。
彼女はそんなことする子じゃないよ、とか。
そんなの噂話でしょ、とか。
言えなかった。
「きっもちわりいよな~パパ活とか」
拓が一言話すと、それを囲っている連中も話し出す。
クラスメイトは冷ややかな目でこちらを見ていて、その目すらも。
拓達に向けられている目線というわけでは、なさそうだった。
そんな彼女はジッと、耐え忍んで、本を読んでいた。
でも、ただそれだけで終わるほど彼らも行儀良くはないらしく、ずっと黙って無反応な彼女がつまらないのか、徐々にヒートアップしていった。
「おい、聞いてんのかよ援助女」
パンっと、何かを叩く音が聞こえた。
目の前には、大きく左手を振った後の拓と、さっきまで彼女が持っていたであろう本が転がり落ちていた。
「お、おい拓」
僕がそう言って仲裁に入ろうとすると、本を投げ飛ばされた彼女が椅子から立ち上がった。
彼女は黙って拓の目の前まで歩み寄ると、顔を見上げ彼を睨みつける
「なんだよお前やんのか・・・」
そう言葉にしようとした途中、パチンっと。再び教室に音が響いた。
今度手を振りかぶっていたのは拓ではない。
大きく手を振りかぶり、自分より何周りも体の大きい男の頬を叩いたのは、少女であった。
数秒。教室に静寂が訪れる。
みながみな、今何が起こったのか理解できない状態であった。
一人、事の発端の少女を除いては。
そして、徐々にみなの頭には理解が追いつき始める。
それは、叩かれた本人も同じだ。
僕が拓に目を向けると、みるみるうちに顔がまっかになっていって、今にでも人を殴り飛ばしそうな顔面になっていく。
「てめえ・・・」
周りの人達も、彼とは付き合いが浅いわけではない。
拓が本当に拳を振り上げようとした瞬間、周りの男子たちが一気に抑えに入る。
先程の静寂から一転、ガキ大将を抑える男子と先生を呼びに行く女子に、ただ悲鳴を上げる女子。教室は瞬く間に混沌と化す。
そんな混沌の中、僕は教室を出ようとする少女に気が付いた。
「あっ」と声に出して、僕は彼女の後を追った。
二度目だ。僕は廊下で彼女に声を掛ける。
「凜さん待って!」
彼女は、歩みを止める。
僕は急いで彼女の前に回り込んだ。
「あ、あの、凜さ・・・」
彼女の目元は真っ赤で、涙を浮かべていた。
泣いていたのだ。
彼女の顔を見て、動きが止まってしまったすぐ後。
僕の左頬に鋭い痛みが走った。
「え?」
無意識に左頬を手で押さえる。ジンジンと痛みが続く頬を。
目を前に向けると、僕は理解した。
僕はビンタされたのだ。
「さいってい。」
「あっ、待って・・・」
彼女は僕にそう言い放つと、僕の脇を通り歩いて行った。
彼女が廊下を踏む音が、徐々に遠ざかっていくのを聞いて。
その向こうから、先生が駆けつけてくる音も聞こえて。
それでも僕は。
僕は、その場から動けずにいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます