第二章 煩悩の影

第21話 怒りのかたち(前編)

 放課後のチャイムが鳴る少し前。

 キリンの小学校の教室には、絵の具と水のにおいがまだ残っていた。

 机には、乾きかけの絵がずらっと並んでいる。


 その中で、キリンは一枚の絵に目をとめた。


 ――暗い海。

 黒い波が高く持ち上がり、白い泡が散る。

 空はどんより重く、白い線が一本、雷みたいに走っていた。


「……すごいな、この絵」


 キリンがつぶやくと、隣のユキナがすぐに言った。


「でしょ? 風音(かざね)って、絵だけはマジですごいの!」


 教室の隅では、風音が黒髪を一つにむすんで、静かに絵の具箱をふいている。

 前より笑わなくなった。

 休み時間も、一人でスケッチブックを見ていることが増えた。


「……風音さんのまわり、風が苦しそうだよ」


 キリンの肩の上で、光の麒麟・リンが小さくつぶやいた。

 誰にも見えないけど、キリンには聞こえる。


「苦しい?」

「うん。“ここ重たいよ”って風が言ってるみたい」


 ふと、風音の机の端に、病院のカードが見えた。


(お母さん、まだ入院してるんだ……)


 そのとき、先生が片付けを促す声を出した。

 教室はざわざわ動き始めるけど、風音だけは席を立たず、

 スケッチブックを胸に抱えたまま。


 風が一度、逆向きに吹いた。

 窓ガラスが小さく鳴り、プリントが一枚ふわりと浮いた。


「ねぇ、今の何?」

「風? 外そんな吹いてないよね?」


 リンが、小さく目を細める。


「“怒りの風”がまじってきた」


 ちょうどそのとき、教室の扉がガラッと開いた。


「風音ー、また病院行くの?」


 ユキナが明るい声で言い、後ろに数人の女子が並んだ。

 声は優しい。悪気はない。


「昨日も行ってたよね? 大丈夫? 寝れてる?」

「うん……ちょっと顔見に行くだけだから」


 風音は笑おうとしたが、スケッチブックをぎゅっと抱えていた。


「そっか。あ、うちのママがさ」

 ユキナは続けた。

「“病院ばっか行くと、お母さんも心配するよ”って言ってた。

 風音がちゃんと休んでた方が、お母さん安心するって」


「……うん。分かってる」


 風音はそう答えたが、目を伏せた。


(どうして誰も、“会いたいよね”って言ってくれないの……?)


 胸の奥で、かすかな“ひび”が生まれた音がした。

 たしかにキリンには見えた。

 風音の胸元に、細い黒い線が――スッと走ったのが。


 カーテンが逆向きにふくらむ。

 紙がふわっと舞った。


「……リン」

「うん。心のひび割れ。

 そこに“鬼”が来るかもしれない」


 *


 夕方。

 港のそばの小さなカフェ。


 キリンはココアを混ぜながら、琥太郎と澪に話していた。


「風音ね、お母さん心配で……でもみんな“無理しないで”とか“いい子だね”とかばっか言うんだ。

 本当は、“会いたいよね”って言ってほしいと思う」


 澪が真剣な顔でうなずいた。


「分かるよ。がんばってる子ほど、自分の気持ちを言えなくなるんだよね」


 テーブル下からビャコが顔を出した。


「兄ちゃん。キリンの服、怒りの匂いがついてるぜ。

 “誰にも聞いてもらえない怒り”の匂いだ」


 リンが、穏やかな声で言う。


「怒るのは悪いことじゃないよ。

 でも、誰にも言えないまま溜めこむと、心に“ひび”ができるんだ。

 そこに入り込む鬼が、“嗔裂鬼(しんれつき)”……怒りを広げる鬼」


 琥太郎の顔が引き締まる。


「明日、キリンの迎えに行って様子を見よう」

「大丈夫かな……」

「大丈夫じゃないかもしれないから、行くんだ」


 海風が、三人のあいだを静かに通り抜けていった。


 *


 翌日の放課後。

 教室には、昨日と同じ絵の具のにおい。


 だけど空気の重さは、昨日よりはっきりしていた。


 風音のスケッチブックには、昨日よりも荒れた黒い海が描かれている。

 リンはキリンの肩の上で耳を立てた。


「今日は怒りの風がもっと強いよ」


 そのころ、廊下の影で琥太郎と澪は風の流れを読んでいた。


「……三階だ。行くぞ」

「うん!」


 二人は急ぎ足で階段を上がる。


 教室の中では――

 スケッチブックの上に、黒いひび割れが走った。


「やだ……」


 風音の胸が痛む。

 昨日の言葉が頭の中でぐるぐる回る。


(会いたいって……言えない……

 一人で寝るの、怖い……)


 その気持ちが限界に近づいたとき、

 黒い線が絵の中を走り、空気の中へ滲み出た。


 カーテンが逆風でふくらみ、紙がめくれ、モップが倒れた。


「きゃっ!」

「何!?」


 子どもたちがざわついたそのとき――


「風音!」


 キリンが走り寄った。


「来ないで……危ないから……!」

「危なくても行くよ!

 風音が苦しそうだから!」


 キリンの声に、黒いひびが一瞬止まった。


 その瞬間――

 教室の扉が開いた。


「キリン!」


 琥太郎と澪が飛び込んだ。

 風がふっと軽くなる。


「みんな、廊下側に集まって!」

 澪がすぐに子どもたちを守る位置へ動かす。


 琥太郎は風音とキリンの方へ向き合い、

 ビャコが低く言った。


「兄ちゃん、力で押すなよ。子どもばっかだ」

「分かってる」


 琥太郎は、風の流れを“壊さないように”変え、

 子どもたちに風が当たらないよう、静かに空気を整えた。


 リンが、風音のすぐそばで寄り添う。


「言ってもいいんだよ……

 本当の気持ちを、ちゃんと」


 キリンも、ゆっくり言った。


「ぼくは、風音の声を聞きたい」


 風音の目から、涙があふれた。


「……会いたい……!

 お母さんに、会いたいよ……!

 怖いよ……! でも言えなかった……!」


 その悲しい叫びが、教室中に広がった瞬間――


 黒いひび割れは、しぼむように消えた。

 涙の粒のように、ぽとんとスケッチブックに落ちて。


 教室の空気が、ふっと軽くなった。


「……よかった」

 澪が胸に手を当てて息をついた。


 琥太郎も、周囲の風の流れをもう一度整え、子どもたちの様子を確認した。


 ビャコが、教室の隅へ目を向けて言う。


「……ただし、“本体”は逃げたな。

 もっと強い怒りを探して、どっかに行っちまった」


 リンが、寂しそうに言った。


「風音ちゃんのひびは治った。

 でも、鬼そのものは別の場所に行ったみたい」


 *


 下校の道。


「ありがとう、キリンくん」

「ぼくは何もしてないよ。

 風音がちゃんと気持ちを言ったから、風も静かになったんだと思う」


 風音は、小さく笑った。


「……今日は、嵐じゃない絵を描いてみようかな」

「どんなの?」

「“暗闇を吹き払う、夜明けに吹くような風”みたいな絵……かな」


 キリンは素直に「見てみたい」と言った。


 その少し後ろで歩く琥太郎と澪。

 空を見上げながら、言葉を交わす。


「……鬼は消えてないな」

「次はもっと大きな……取り返しのつかないような怒りになるかもしれない」


 夕方の風が、四人の間を静かに吹き抜けた。

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