第11話 白い風、初めて牙を持つ

 風が止まっていた。

 夕凪の堤防。海の面は鏡のように静かだったのに、影だけが揺れている。


 波打ち際の暗がりから、黒い手が一つ、また一つと伸びた。

 水と砂の境にできた膜のようなものが形を持ち、人の腕を真似て這い出してくる。


「……来るね」

 キリンが言った。声がかすかに震えていた。

 その肩の上、光の麒麟――リンが角を淡く光らせる。

「数は少ない。でも気配が深い。海の底に“息”がある」


 琥太郎はうなずき、首に下がった勾玉を握った。

 それが心臓に合わせてコツンと鳴る。


「俺が前に出る。キリンは下がって」


 肩のビャコが口の端を上げる。

「兄ちゃん、迷うな。守るなら“考える前に動け”だ」


「分かってる」


 琥太郎が踏み出すと、砂が鳴った。

 黒い手が跳ねた。

 風が背に集まり、腕に流れる。

 琥太郎の腕が閃き、手の進路を横へ逸らす。

 風の軌跡が白く走り、砂が小さく爆ぜた。


「今の角度、悪くない」

「でも動きが早いよ、琥太郎」

 リンの警告と同時に、二本目が足元から突き上がる。


 琥太郎は片足を跳ね上げ、風を蹴り出した。

 波の表面が裂け、飛沫が散る。


「まだ来る」

 ビャコの声。


 三本。低いのが一、肩の高さが一、頭上から一。

 琥太郎は腰を落とし、右下を払う。左の一撃は肘で受け流し、上から来た一撃を肩でそらした。

 砂が弾け、風が渦を巻く。


「兄ちゃん、テンポ上げろ!」

「落ち着いて。呼吸を合わせて」


 ビャコの勢いとリンの静けさ。両方の声が重なる。

 琥太郎の呼吸が整い始めた――その瞬間。


 堤防の下で、海面が低く沈んだ。

 波の影がひと塊になって、形を変える。

 今度は黒い手ではない。腕の束。

 太く、速い。狙いはキリンの足。


「やめろ!」

 琥太郎は叫び、風を前に叩きつけた。

 勢いが強すぎた。爆風が砂を巻き上げ、キリンの髪を煽る。

 頬に赤い線。


「っ……ごめん!」

「大丈夫!」


 キリンの前に、リンが身を投げた。

 光が弾け、黒い束を押し戻す。

 だが、リンの身体が一瞬ふらついた。


「リン!」

「問題ない……けど、もう長くは持たない。琥太郎、今のは“押し過ぎ”」

 声がかすれる。


 琥太郎は唇を噛んだ。

 風が荒れ、視界が波打つ。


「力を増やすな。向きを読め」

 ビャコの低い声。

「怒りは風を壊すよ」

 リンの声が重なる。


 琥太郎は息を吸った。吸う三歩、吐く四歩。

 だが、黒い影は止まらない。

 七本の腕が一斉に伸び、前方を覆った。


 琥太郎は反射で風を振るった。

 だが流れがずれ、ひとつの腕が肩をかすめた。

 熱い。皮膚の下に冷たい針が走る。


「兄ちゃん!」

 ビャコの声が響く。


 風が弾け、形を失った。

 影の束がすべり込み、キリンの腕を掴む。

 その体が、海のほうへ引きずられる。


「やめろッ!」


 琥太郎は前に踏み出した。

 風を強めようとした――けれど、暴発した。

 自分の風がキリンの足元をえぐり、砂を削る。


 ――キリンが転びかける。


「琥太郎!」

 リンが叫ぶ。角が光り、網のような光が黒い束を包んで弾き飛ばした。

 その光が消えると、リンの体が小刻みに震えていた。


「リン、無理するな」

「平気……。でも、もう一度来たら守りきれない」


 琥太郎の喉が乾く。

 風が耳の奥でうなる。

 手が震える。

 怖い――初めてそう感じた。


(守れない。もう少しで……)


 そのとき、首の勾玉が胸の上で鳴った。

 ひとつ、深い音。


 リンの声がやさしく響く。

「琥太郎、風は怒りに従わない。あなたの呼吸にだけ応える」


「兄ちゃん、落ち着け。流れを作れ」

 ビャコの声も重なる。


 琥太郎は目を閉じた。

 吸う三歩、吐く四歩。

 波の音と呼吸が重なる。

 風が戻ってくる。

 胸から腕、腰へ。輪郭に沿って流れた。


 足元の砂に白い円が浮かぶ。

 キリンを半歩外に置く形で、風が円を描く。


 黒い腕が触れると、形が崩れた。

 琥太郎はそのまま右手を突き出す。

 風が線を描き、滑らせる。

 力を受けず、流して返す。


 黒い腕が砂に沈み、波に吸われる。


 海がうなる。

 今度は一つの塊が立ち上がった。人ほどの高さ。

 頭も顔もないが、肩のあたりが盛り上がり、唸りのような音を立てる。


「兄ちゃん、正面に来るぞ」

「右上が重い、重心ずらして!」


 ビャコとリンの声が同時に響く。

 琥太郎は右足をずらし、体をひねった。

 その動きに合わせて首の勾玉が強く光を放つ。


 光が腰へ流れ、ビャコの姿が白い線となって琥太郎の体にまとわりつく。

 風が輪を作り、腰を巡って固定される。

 リンの角から走った光がそれを包み、風が冷たく凝縮した。


「……風装(ふうそう)」


 白い流線が顔の前に薄い膜を作り、肩から腕、脚へと広がる。

 風が暴れることなく、静かに体を守るように流れ続ける。


 風が変わった。

 音が澄んで、世界が一瞬ゆっくりになる。


 黒い塊が再びうねり、背を持ち上げた。

 人の形に近づき、波と影を混ぜたような体を持つ。


「来るよ、琥太郎」

「兄ちゃん、今度は押すんじゃねえ。“通す”んだ」


 琥太郎は頷いた。

 風装が応えるように鳴る。

 白い線が腕に沿って延び、トンファーのような形を作った。

 刃ではない。けれど、触れれば切れる。


 黒い塊が跳ねた。

 琥太郎は腰を低くし、右へ滑る。

 塊の腕が空を裂く。

 琥太郎はその下を抜け、左手の流線で肩口をなぞる。


 触れた瞬間、黒い影が裂け、砂の上に散った。


「今のだ、兄ちゃん!」

 ビャコの声に合わせて、琥太郎はもう一歩踏み込む。

 影が二体に増えた。

 波打ち際からのぼる水煙が風に流される。


 右手で受け、左手で返す。

 流れる風が影の軌道を奪う。

 腕の動きは短く、無駄がない。

 琥太郎の呼吸と風の音がひとつに重なる。


「琥太郎、もう一つ、来る!」

 リンの声。

 海面の奥で、巨大な影が身をひねった。


 琥太郎は目を細め、体を低くした。

 次の瞬間、堤防の下から水柱のような塊が立ち上がった。

 黒い波が頭上から覆いかぶさる。


「兄ちゃん、正面は捨てろ!」

「風を回して、後ろへ!」


 ビャコとリンの声が重なる。

 琥太郎は右腕を振り抜き、風を円に変えた。

 白い渦が広がり、波の塊を包み込む。


 重さが抜けた。

 風が回転し、影が引きずられるように後方へ返される。

 海へ叩きつけられ、しぶきが夜空に散った。


 静寂。

 風が穏やかに流れ、琥太郎の体をなでる。

 腰のベルト部分――ビャコの光が淡く脈打った。


「兄ちゃん、上出来だ」

「風が……動いてくれる」

「違うよ」

 リンが微笑む。

「あなたが、風と一緒に動けたの」


 琥太郎は頷いた。

 海は静かだった。

 風が凪ぎ、勾玉が小さく鳴る。


「行こう、キリン」

「うん」


 堤防を離れる足取りは軽い。

 白い風が後ろからそっと押した。

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